見出し画像

芥川龍之介 『或阿呆の一生』


用意された綻び

芥川龍之介の「或阿呆の一生」は作中で自叙伝という言葉が使われていることもあり、多くの人がそのように読んでいるが、一箇所、作者によって用意された「綻び」がある。
四十九節。「彼は『或阿呆の一生』を書き上げた後、偶然古道具屋の店先に剥製の白鳥があるのを見つけた」という一文。
実際の小説が終わる前に、「或阿呆の一生」という入れ子構造になった作中小説が書き終えられてしまう。三人称の「彼」が自叙伝を書いている、もう一つ上のメタレベルに本当の作者が潜んでいることを示唆している。

フィクションとしての自己

そうなると、その死の直前まで「河童」「玄鶴山房」といった、見事な虚構を構築していた芥川の自伝小説というものに或る疑いを持たざるを得ない。
芥川が「大道寺信輔の半生」「点鬼簿」といった小説を書き出したのは、自然主義の作家たちから「もっと裸になれ」「自己を暴き出せ」と迫られたからだといわれる。その裏には漱石に激賞され、二十代で毎日新聞の客員という地位についた芥川に対する妬みもあったらしい。

芥川龍之介の晩年を彩る自伝的要素の強い作品群は、本人の告白であるというよりは、芥川がつくり出した「フィクションとしての自分」なのではないか。精神を病み、胃弱で、睡眠薬を噛み、自殺への願望をつぶやくキャラクターをつくり、それをフィクションとしての自叙伝のなかで自在に動かしてみせたのではないか。
キャラクターといっても、それは決して不真面目なものではなく、彼はそれを使ってしか自殺衝動について語れなかったし、対社会的なパブリック・イメージを提出できなかった。それが彼なりの読者や文壇の人間に対する距離の取り方だったのではないか。

或旧友へ送る手記

「或阿呆の一生」に書かれたことはほぼ事実だろうが、大いに装飾を施され、彼の韜晦癖から隠された部分もあるに違いない。
遺書の「或旧友へ送る手記」は「或阿呆の一生」に芥川が書くまいとした、二つの自殺の要因「封建時代の影」と「金銭」の問題に触れている。姉の夫が自殺して借金を残し、その処理のために家長としての芥川龍之介は奔走し、それで神経衰弱がよりひどくなったというのだ。

師の夏目漱石も小説に「金銭」のことが多く出てくる作家だったが、「或阿呆の一生」にも生活力と金銭の問題がふっと浮上してくる箇所がいくつもある。
九節「一人前三十銭のビイフ・ステエク」。
十四節、結婚した翌日に「来てそうそう無駄遣いをしては困る」と妻にいう言葉。
三十六節、大学生(堀辰雄がモデルといわれる)との生活欲と制作欲に関して食い違う会話の内容。
四十六節、「精神的破綻」ではなく「精神的破算」や「生活的宦官」という独特の言葉による表現。
芥川は「或旧友へ送る手記」において、自分が遺産として百坪の土地、家、著作権、貯金二千円しか家族に残せないことを嘆じている。

芥川龍之介の晩年は、幻覚を見てそれを小説に書くほど精神が衰弱していたが、フィクションを構築し、何を書いて何を秘めるかくらいのコントロールは無論できていた。もしかしたら、彼が自伝的フィクションに書いた「キャラクターとしての芥川」が、書く行為のなかで本人よりも先に「自殺」という結論に到達したのではないか。
生身の肉体を持つ芥川本人は、その後を追っただけなのかもしれない。そういう意味では、芥川の人生最後のほのめかし「或阿呆の一生」は告白文ではなく、立派に虚構の小説だったと考えられるのではないか。


リトルマガジンにサポートをお願いします! いただいたサポートは、書籍の購入や取材費に使わせて頂きます。