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『どくろ杯』『ねむれ巴里』『マレー蘭印紀行』 金子光晴


発端

冒頭の「発端」の節で金子光晴が書くように「四十年もむかしのことで(…)おぼつかないことも多いが、それだけにまた、じぶんの人前に出せない所行を他人のことのように、照れかくしなくさらりと語れるという利得」があるのが、本作『どくろ杯』である。
三三歳の金子光晴が一九二八年に上海へ渡り、それからマレー半島を縦断、ピナン島、スマトラ島を経由して欧州へ渡った五年に亘る旅行を扱っている。これは『ねむれ巴里』『西ひがし』と共に、晩年に書かれた自伝三部作となっている。
まず最初に強調しておきたいのが、実際の旅行から四十年後に書かれているということだ。解説によれば、一九六九年に「マイウェイ」という小さな雑誌に「万国放浪記」という題で書きはじめた回想記であるらしい。
七十歳を過ぎてから三十代前半からの時期について書いているのだから、十二分に自己分析は済んでいる。たとえば中公文庫版の七六ページで金子は講談社の受付に原稿を持ち込んだときのことに続けて、自分のことをこう書いている。

私を非実際的な人間に仕立てた当のあいてが、年来、それをこの上ないしごととおもってひっかかっていた文学、とりわけ詩であることに、ようやく気づきはじめていた。(…)排他的で、自惚がつよく、そのくせ弱気で、仲間どうしで甘やかしあっている詩人気質がじぶんの肌にも染みついていることにそろそろがまんならなくなっていた。

ボヘミアン

金子光晴はボヘミアン詩人と言われており、『どくろ杯』でも友人たちと銀座などの盛り場へふらふらと出かけていく記述が目立つが、酒は呑めない体質だったらしい。金を作るために谷崎潤一郎に会いにいく件(一一四ページ)では、「谷崎は、じぶんが一口にのみ干しては、盃を私の前につき出し、酒を嗜まない私を困惑させた」とある。
その後、売り物にするために谷崎に書いてもらった短冊を手に、線路のなかほどで慣れない酒のせいで具合が悪くなって座りこみ、地を這って踏み切りを越えたとある。このよくできた挿話には、経年の記憶によって醸造されたフィクションが入り込んでいるようにも思われる。金子は自分の放浪性についても否定している。一二二ページには、こうある。

理由もない長逗留は、私の性癖で、居付いた先々でうごくのが億劫になるのだが、それは、私の放浪性ではなくて、むしろその逆であった。(…)私はただ、うごくのが面倒だったのだ

貧窮きわまるときに限って、内に引きこもるのではなく、外へ、国内旅行や外国旅行へ出かけてしまうあたりが凄まじい。それも自分から主体的に移動するのではなく、何となく周囲の人物や流れに身を任せて流浪している感じである。この辺りが金子光晴の本当のすごさかもしれない。


物語

女学生だった森三千代と交際をはじめ、彼女の妊娠によって大学を退学し、息子・乾を産み、極貧のなかで長崎の森の実家に子どもを預けて、二人でヨーロッパ目指して旅立つ。この当時、進歩的な女性だった森三千代との関係が物語の軸になっており、二人の愛憎劇には情痴小説といってもいいほどの興趣を覚えさせられる。
その一方で、当時の社会風俗や文壇事情にも触れた的確な文章があり、回想録としても体をなしている。たとえば、六四ページでは、岡本潤、萩原恭次郎、壺井繁治らアナーキスト詩人たちについて書いている。金子は彼らの会合でつるし上げにされそうになったこともあったという。しかし『こがね蟲』の詩人はこう書く。
「困ったことは、時たま目にふれる彼らの作品が私じしんの作品よりも、じぶんに身ぢかいことであった」のだが「人間嫌いな私は、彼らの仲間になることなど、虫唾が走るほど我慢がならなかった」という。このように、人前で語りにくい自分のことをさらりと語っているところに、驚かされるのである。

洗面器

開高健の小説に「洗面器の唄」という短編小説がある(講談社文芸文庫『戦場の博物誌』所収)。むろん、金子光晴の「洗面器」(『女たちのエレジー』)という詩にかけたものである。

洗面器のなかの
さびしい音よ。
くれてゆく岬(タンジョン)の
雨の碇泊(とまり)。

とはじまる詩である。
金子がマレー・インドネシアを旅してから、40〜50年後に、開高健はベトナムのサイゴンで同じような洗面器の使い方を見たという。金子は、洗面器は顔を洗うだけではなく、食事を作り、女たちが尿をするものであると書いた。だが、開高はさらに洗面器でコオロギにレスリングをさせたり、盆栽の入れ物に使ったりするのを見て、産湯や死に水にも洗面器を使うのだろうと言っている。

森の尿

金子光晴の『マレー蘭印紀行』の最初におかれた「ヤンブロン河」という章には、船着場から川へ流される糞尿の姿が詩情によってとらえられている。それ対応するのように、この章の終わりでは、ジャングルを貫いて出てくる川の水が「森の尿(はばり)」と見られている。金子は排泄物を人間存在や世界のどうしようもなさとして、しんみりとした抒情的として書くことができた詩人であった。

ところで、『マレー蘭印紀行』のあとがきによれば、ここに収録された文章は、実際の放浪の旅から10数年かけて書かれたものであるとのことだ。金子光晴のマレーシア・インドネシアへの旅は、昭和3年から7年にかけてであったが、本が上梓されたのは昭和15年のことであった。
2009年10月に亡くなったレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』も、彼のブラジルへの旅から20年後に書かれたものであったことを考え合わせてみる。すると、透徹した詩情を持つ散文には、ある一定の時間と記憶のなかでの醸造が必要なのであろうか、と思えてくるのだ。


『ねむれ巴里』

金子光晴の自伝小説『ねむれ巴里』では、マレー半島で金の工面をして、船でフランスへ向かいパリに二年間滞在する1929年以降のことが扱われている。金子光晴は、散文において平仮名を多用する文体を使っている。普通ならば漢字を使うところを「ひらいて」いるから、反対に少し読みづらい。とはいえ、平仮名によって女性的なこまやかな情感も出ているし、すさまじい生活苦をほのぼのとした郷愁や、そこはかとないユーモアをかもしだすのにも一役買っているだろう。

筆者が若い頃に『ねむれ巴里』を読んだときは、パリに着いて妻の森美千代の部屋へ入るときに、他の男がいるのではないかと「入っても、大丈夫なの?」と訊く金子光晴のコキュ(寝取られ亭主)ぶりをおもしろく読んだ。
しかし、今回ぐっときたのは、むしろ美千代が昼食にパン、珈琲、トマト料理を作ってくれて、「簡素な惣菜が、船からあがった僕には、ひどくうまかった」と書いているところだ。海外生活で妻のような存在を持つことの、しみじみとした深い喜びがここに出ている。

ローベル・デスノス

金子光晴は、衒いのある人、含羞の人なのだろうか。モンパルナスの墓地でモーパッサンやボードレールの墓を訪ね歩くような人なのに、松尾邦之助と先輩詩人の川路柳虹が詩集のフランス語版を出していると聞くと、自分は「フランス文学などの興味がなかった」と書く。
これは金子の衒いなのか、それとも懸命に努力する態度に距離を置いているのか。あるいは、本当にフランス文学に興味がなく、生活に必死だったといいたいのか。

今回気になったのは、銀行員のロベール・デスノスが藤田嗣司の妻ユキと仲よくなり、ユキと一緒に食っては寝て暮らしていたという件である。デスノスはいわずと知れたシュールレアリスム詩人だが、29年にブルトンと決別した後、藤田嗣治の妻だったユキと結婚をしている。
最後はレジスタンスに参加したせいで、ゲシュタポに捕まり、収容所のなかで死んでいる。ふとデスノスの「蟻」という詩を思い出し、金子光晴の詩とどこか似ているのではないかと思った。

蟻で 18メートルあって
頭に帽子をかぶってるの、
そんなのいない、そんなのいない。
蟻で 荷ぐるま引っぱって、
ペンギンとあひるをいっぱい積んでるの、
そんなのいない、そんなのいない。
蟻で フランス語を喋って
ラテン語やジャワ語も喋るの、
そんなのいない、そんなのいない。
へえ!どうしていないの?
(安藤元雄訳 岩波文庫「フランス名詩選」)

『ねむれ巴里』の「ねむれ」という語には、早くに亡くなった人々への鎮魂の祈りが込められているのかもしれない。『ねむれ巴里』では、金子は東南アジアから巴里へむかう道程で、数人の中国人の男女に出会う。その後、日本人は中国人を虐殺し、侵略戦争を遂行したのだが、それに対する金子光晴の抵抗は何であったのか。この自伝には、ベッドに眠っている譚嬢の肛門をさぐりあて、それの糞の臭いを嗅ぐという描写がある。

「われも他人もおなじ、生きるということの本質の、嘔吐につながる臭気にみちた化膿部の深さ、むなしさ、くらさであって、その共感のうえにこそ、人が人を憫み、愛情を感じ、手をさしのべる結縁が成立ち、ペンペン草のような、影よりもいじけてあわれな小花もつくというものである」

上の文章は、金子光晴という詩人の根源的な部分に触れているように思われる。人種・国籍が何であろうが、人が生きるということの絶望のなかに、反対に連帯や友愛への繋がりを託しているかのようである。
「あぶれ者ふたり」の章で、特に印象的な出島春光については、彼が死んだときにパリの水商売の人たちが葬儀を出してくれたという逸話が語られる。絶望的なエピソードを淡々と語るのだが、そこには「あわれな小花」もついている。どうにもならずに死んでいくしかない人間の生の本質に、しんみりとした共感を寄せている金子光晴の視点がここにはある。

出島という男が金を稼がなくてはならないのは、元街娼をしていた女と一緒に住んでおり、その女と別の情夫が過ごす資金を稼ぐためであった。『ねむれ巴里』のなかでも、特に際立った出口のなさというか、絶望的におかしいエピソードである。
「ときにはその損耗が、死にひき入れられるとおなじ快感を伴うのであった。(…)こんなことをしているとどんなひどいことになるかしれない、そのどんづまりを見てやりたい気持になった」とある。
この際、どんづまりや絶望を見てやりたい、というのは開き直りであろうか、それとも死への欲動のようなものか。
『ねむれ巴里』を読むと、忘れかけた生の不可解さ、生の寄る辺なさが思い起こされるのである。


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