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『私の東京地図』 佐多稲子

 欧米では、ここ20年ほど人新世や人類学の存在論的な転回ということがいわれて、脱人間中心主義的な視点から、モノや動物と人類の関係を考え直していこうという思想的な動向がつづいている。
 佐多稲子の『私の東京地図』という本を読んでいると、「マルクス主義が」というよりは、戦前から戦後の時代において、日本列島でマルクス主義を受容した人びとのなかに、ある種の唯物主義的な志向があったと感じられ、そこに、ある種の脱人間中心主義的なものの見方があったのではないか、と思えてくる。

 この連作的な短編集の冒頭におかれた「版画」という作品には、むかしの浅草六区の「どぎつい雰囲気」が活写されている。佐多稲子の年譜によれば、彼女は1907年に生まれて、浅草六区の中華そば屋で働いていたのは大正5年というから、12歳のときだった。「あくどい色彩の幟」がたくさん立っているせいで空も見えず、活動写真の看板や芝居の毒々しい看板が立ちならんでいたという記憶が強烈に残っているようだ。
 ほかにもパノラマ連鎖劇、写真屋、馬肉屋、牛めしなど、六区から田原町へかけての風俗もとらえる。「記憶の地図」を書くという著者は、街なみや建物や道路をきっちりと想起しないことには、そこにいた人びとの人間模様を書けないといった様子である。まずはモノを思いだし、それらを稠密に描写し、失われた風景を文字によってきっちりと記録しなことには気がすまないのだ。

 『私の東京地図』という短編集では、大正時代の浅草の雰囲気、関東大震災前後の吾妻橋付近の下町の様子、そして、池之端の花柳界に住みこみ、女中をしながら触れていた花街の世界など、社会の底辺をうごめく庶民や職人たちの姿が描かれる。それが温かい目で甘美な共感をこめて書かれるというよりは、外科医や経済学者のような少し突き放した冷静な目で見つめられている。
 たとえば「橋にかかる夢」という短編では、隅田川にかかる吾妻橋のたもとに子連れや夫婦連れの乞食が多くいた光景が描出される。著者と同じ長屋に暮らす「とみちゃん」の母親が、大柄の女性で色白だったとあり、その母親が妊娠するたびに気が狂うという厄介な病気をもっていた。正常ではない精神状態の妊婦が、隅田川の土手を走るというエピソードは、壮絶さも悲しみもたたえている。著書のまわりにいた貧しい庶民のできごととして、どこか淡々とリアリズムで描かれる。
 戦争で東京が焼け野原になったあと、佐多稲子は目黒に暮らし、勤め人をしていた時代があった。その様子は「曲り角」という作品で取りあげられる。著者が夫との生活に悩みながら「死んでしまった方がいい」と厭世的な気分になり、目黒の街を歩きながら、かつて彼女が若いときに下町の料理店で働いたり、日本橋の丸善の店員として通った時代をフラッシュバックする場面がある。

私の厭世的気分は、ひとりで勤めから帰るときの道々にかたまる。押上橋を渡って京成電車の停留所の横の狭い道を抜けてゆく。石畳の道は、魚屋の水に濡れて、どろどろになっている。ひと山十銭、五銭と盛り上げた八百屋、うどんの玉を売っている店、豆腐屋などごたごたした道は、おかみさんや労働者ですれちがって歩くほど。ここを抜けて、少し静かになった道を左へゆけば曳舟の通りへ出た。

『私の東京地図』講談社文芸文庫、134-135頁

 人間の気分というものが、記憶を回想する「私」の身体の外から流れでていき、道のうえで物質のように固まる。それは橋のうえをわたって、せまい道をぬけていく。「私」の思念は、石畳や水と混じって、どろどろになり、そこに存在するモノとまみれて一緒くたになる。
 『私の東京地図』では、すでにこの地上から消失してしまった人びとや風景を想起するために、当時あった町筋や通りや店屋の様子、人びとが身につけていた服装や小物などを克明に描きだし、そこに跋扈する人物たちよりも、むしろ建築物や道路やモノの方から、記憶の風景の描こうとする。おそらく、それが佐多稲子の記憶を思いだすための手つきなのだろう。人物たちは風景のなかで生まれ、移動し、死んでいく、一過性の通りすぎる存在として書かれている。

 昨今よく人新世の時代やAI技術の発展などとからめて「ポスト・ヒューマン」という言葉が使われるが、人間や生物が成長しては老いていくように、街の風景やそれを構成する建築物や道路やモノも、刻一刻と変化しては劣化していく、非有機的な生命だといえる。

 一見、生命をもたないように見えるモノも、時間が経過するなかで生成変化するという点では、生命体と同じように変化する存在だと考えられる。そしてまた、もし人間や動植物が何らかの理由でいなくなったとしても、モノからなる風景は生物とは無関係に存在し、変化をつづけていく。『私の東京地図』を読んでいると、大げさではあるが、人間が誰もいなくなってしまったような地平から、かつての東京の光景を思い出しているような感覚をおぼえる。

 それは、この短編連作が書かれた動機が、大正時代にはじまり、関東大震災を経て、戦争によって焼け野原になった東京という都市がもつ風景の変遷史と関係しているからだろう。終戦直後の東京では、地上を覆っていた建物やモノが焼けてしまい、焼け野原が出現することにより、むきだしのままの地形や川筋などがあらわになった。
 そのようなゼロの地点から、戦後のバラックの時代がはじまり、徐々に発展をとげていき、都市が再生していった戦後史がある。何もなくなって地形や川筋ばかりがあらわになった地平から、かつての東京を思いだし、なくなってしまった横丁、道筋、店、建物、人びとが身につけていたモノをしっかりと想起することが、佐多稲子にとっての「記憶の地図」を書くことであったのだろう。
 ところで、「道」という短編では、戦後の高田馬場の駅前から小滝橋まできて、新宿から中野へと通じる戸塚の大通りが登場する。かつてその通りには商店が立ちならび、神田川には木の橋がかかり、屑市が暗い灯りで通りを照らしていたそうだ。震災によって壊滅的な打撃を受け、戦争によって焼け野原になっても、東京という都市は草木や森のように何度でも再生してくる生命体である。しかし、そこにはずっと変わらないものもある。それは、地上に暮らす人間や動物ではなく、丘であったり土手であったり、坂道であったり川筋であったり、地形の方であるという視点がこの著者にはあるようなのだ。


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