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『冥途・旅順入城式』 内田百閒

内田百閒の短編集

 内田百閒の文学は以前から読んでいたが、今回は岩波文庫の『冥土・旅順入城式』というふたつの単行本を収録した文庫を、主に民俗学的なエッセンスがいかに使われているかという観点から読み直してみた。

冥途

 『冥途』のなかに、人偏に牛と書いて「件(くだん)」という掌編があるが、文字どおり「からだが牛で顔丈人間の浅ましい化物」に、語り手がなってしまう話である。見事であるのは、冒頭で空に月が浮かぶ風景を描き、とんぼが飛ぶ描写をしてから、広い原の真んなかで語り手は、しっぽからぽたぽたと水を垂らす化物になっている。まわりの外界から語り手とともに、気がつけばすっと「件」によって感覚される内側の世界に入っているような具合だ。見事な書き起こしだと思う。
 前半の『冥土』に収録された作品は、短編というには短い掌編であり、どれも夢で見られるふしぎな世界をベースに小説にしたものだと感じられる。顔が人間で体が牛という、ミノタウロスなどのギリシャ神話の神々を思い起こされる「件」の存在は、わたしたちの興味を惹きつける。件の予言を聞くために群衆が集まる描写には、人間存在のおそろしさも描かれる。内田百閒の小説に描かれる、個人が入眠中にふれるような無意識の世界と、人類が長い歴史のなかで育んできた集団的な無意識である神話や民話の世界は、どこかで通底しているのだと思わざるをえない。

 「短夜」は語り手の「私」が狐に化かされる話だが、現実から狐のつくりだした幻影の世界に入るときの描写が見事である。池のほとりで薮からでできた狐を観察していると、水中の二匹の鯉に注意がいく。鯉を見失って顔をあげると、池のむこうにいつの間にか若い女(狐)が立っている。この一瞬で、語り手は別の世界に入りこんでしまう。『冥土』では、異界が日常世界のすぐ近くにあって、薄皮一枚をめくれば、一瞬にしてその領域に移動するものとして描かれる。それは、わたしたちの心のなかで意識的な状態と無意識的な状態が、簡単に入れ替わることが可能だ、とでも言うかのようだ。

旅順入城式

 後半の『旅順入城式』に収録された作品は、前半に比べると短編小説というにふさわしい長さと構成をもつ。内田百閒がどのような経験をインスピレーション源にして、夢幻の世界を描いているのかが気になるが、それはこんな風ではないかと思えるシーンが『遊就館』にはある。
 夜に眠っていると、となりで寝ている妻の口から「獣のなくような声」が洩れているのに気づく。肩をゆさぶると「ぎゃっ」といって目を醒ます。妻は、となりに寝ていた死骸が自分のほうに手を差しのべてきて、逃げだそうとしたが体が動かなかったという悪夢について話す。内田百閒の小説は、自分や身近な者におけるこのような経験をもとにして、夢とうつつがくるりくるりと入れ替わる話を発想しているのではないか。

 わたしが今回読んで、もっとも興味をひかれたのが「映像」という短編である。夜明けどきに雨戸が鳴る音が聞こえたと思い、ふと縁側の障子を見ると、切り込みガラスに人の顔が映っている。それは眼鏡をかけて、薄ひげを生やした自分の顔だった。自分の分身が、外から自分を見ていたことが無闇におそろしかったというのだ。それからは夜になると、分身の顔が出現するということが続く。
 内田百閒がドイツ語とドイツ文学を専門にしていたことはよく知られるが、ここでE・T・A・ホフマンらドイツロマン派の文学が、ドッペルゲンガーを好んで題材にしたことを思いだす。そこで表現されるのは、人間の心や身のまわりの世界というものは本来的には無秩序なもので、ちょっとした均衡が崩れると、コントロール不可能なものが噴きでてくるという危うさをもつ。だからこそ、自分を律して勤勉にはたらき、理性の力によって社会を秩序立てようという考えが強くなる。しかし、自分の内側に抑圧した無秩序なものは、いつ自分に襲いかかってくるかわからない。その混沌とした、無意識的で、制御不可能な部分というものが、ドッペルゲンガーという瑜に託して描かれるのだ。

百閒と民俗的なもの

 近所の柿屋という金持ちの家の倉で、鼬(いたち)か貂か雷獣かという「不思議なけだもの」が罠にかかり、香具師(やし)を連れてきてお宮の祭りで、狼の看板を立てた見せ物小屋をだしたというくだりがある。大きすぎる鼬のような獣を、語り手の私はいじめ殺してしまうのだが、小説なので実人生のエピソードがどうかはわからない。
この小説の後半には、東京から狐使いの梅次さんという女性がきて、家に逗留する話がある。夜に太鼓を叩いて、死んだ人の魂を呼びだす「神原祈祷」の場面も味わい深いものがある。

私共は、その御祈禱をしている家の外に立って、真暗な陰から中の様子を窺っていると、死んだ女房の魂が、おがんでいる人に乗り移り、その前に頭を垂れている亭主に向かって、いろいろと怨みを云いたてた。聞いている者が困るような事を云うのでなければ、本当の気がしない。梅次の御祈禱はあてにならないと思った。しかし、何か云う時の身振りや、声の調子は何となく不気味だった。 

『冥途・旅順入城式』内田百閒

 死者の魂をみずからの体に乗り移らせること。これこそが、まさにもっとダイレクトに、人間の身体が異界にふれる方法であろう。内田百閒はそれを本当だとも迷信だともジャッジすることなく、なんとなく不気味だったとしている。日常生活の延長上にある何か不気味なもの。夢や幻想、白昼夢や見世物小屋、そして御祈祷などのさまざまな道具立てをとおして、夢とうつつ、虚と実が、くるりくるりとひるがえり続けるところに『冥途・旅順入城式』の魅力があるのではないか。
 ところで、「狭筵」の梅次さんが柏手を打って拝んでいると、お稲荷様に憑依された状態になる。肩をぴくぴくと震わし、目をつぶって、口のまわりをひくひく動かす。そして、2、3年前に亡くなった従姉について、語り手の家が最後までよく面倒を見てくれたとお礼を言いだした。それから、憑依状態が解けるときに梅次さんは息苦しそうにするのだが、語り手の私は「不意に水を浴びたような気持がした」という。不意に混沌とした世界との通路が開き、突然のできごとにゾッとすること。これが『冥途・旅順入城式』のなかで、くり返し描かれている経験ではないかと思う。


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