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私は母親です

忘れられない言葉がある。


もう10年くらい前に、
赤ちゃんを産んだお母さんの話

とても寒い冬の日の深夜2時。
その日もいつもと変わらない陣痛発来
(陣痛が始まった)の電話を受け、
到着した母親の診察をする。

2人目のお子さんの予定日が明日の妊婦さん。出血が少し。子宮口も開いてきている。
「お産、進んできてますね」と声を掛けながら胎児心拍の確認……
心拍の確認…
もう一度。(あれ?聞こえない。なんで?)

胸がざわつく。
けれど笑顔で
「ちょっと待ってくださいね」と声をかける。
子宮全体、くまなく心音を探す。
「胎動は感じていましたか?」
聞きながら声が震えそうになる。

なんで?わからない。
けれど相当まずい状況であると確信する。

同僚を呼び、再び心拍確認。
見つめ合う私と同僚。
母親の顔は少しずつ曇り始める。             

「何かありますか?」                       

「赤ちゃんがおなかの中で苦しい状況かもしれません、超音波でみせてください」
と伝えながら、おそるおそる超音波の画面を覗く……
間違いない。胎児の心臓は動いていない。

IUFD(子宮内胎児死亡)
だ。

IUFDとは【https://192abc.com/282998

Drコール。
「妊娠40週の妊婦さん、おそらくIUFDです」そう伝えながら、
妊婦さんへどのように伝えようか……
心臓がバクバクする。
初めての経験ではなかったが、
何度経験しても心が重い。

医師は診察後、小さく頷いた。

「お母さん。明日が予定日ですね?胎動はありましたか?」医師の淡々とした声が響く。

「胎動……あぁ、胎動…
あったと思います…
でも、ちゃんと…しっかり…わからないです」消えるような声で話す母親の背中を摩りながら、次に起こるべきことを考える。


次に起こること?

あぁ、そうだ、赤ちゃんが産まれるんだ。

はっとしながら、
「心音のない赤ちゃんが産まれること」
の意味を整理する。

助産師として、そこにある命に向き合う。
産声のない命だと
分かっていても。

そこからは長い長い戦いだった。
心音の聞こえない分娩室。
いつも分娩室では、周りの家族や
助産師の励ます声、
胎児の力強い心拍音、
母親の陣痛に合わせたいきみの声が漏れる。

けれど今日は、静かな分娩室。
涙を浮かべながらいきむ母親。
陣痛計だけが陣痛が来ていることを
知らせている。

私は思わず、頑張れ!と叫んでいた。
赤ちゃん産まれてくるよ、頑張れ!と。

そうして横に立つ父親を見ると、
目を腫らして同じ様に叫んでいた。


頑張れ、頑張れ!


生まれた命

赤ちゃんが産まれたよ。

7時48分、3020グラム。男の子。

いつもと変わらず、おめでとう!!
頑張ったね。お疲れ様です。
そこにいた誰もが曇りない、
精一杯の祝福をした。

そして赤ちゃんの泣き声がない分娩室で、
そこにいる誰もが、泣いていた。

私は赤ちゃんに産着を着せ、
血液を拭き、整え、おめでとうと抱いた。
いつもやっているように
赤ちゃんを高々と抱き上げ、
母親の胸に置いた。
母親の胸の上で幸せそうな赤ちゃんを、
皆んなが囲んで、可愛いね、と言った。
そして父親が抱いた。

紛れもなく、今日はこの可愛い赤ちゃんの
誕生日。


産まれてきてくれて、おめでとう。
ありがとう。


私は母親です

それから間もなく、
当然のように赤ちゃんと過ごしていたい、
と望んだ母親に抱かれたその子は、
幸せそうに眠っていた。

そこにいた助産師たちの心は一つ。

“母親にこれ以上悲しい思いをさせたくない”

だから、新生児室から一番遠くの、
通常ならば母子同室
(母親と児が同じ部屋で過ごす)
をする母親たちのいる部屋を避けた個室に
入っていただくのがルーティンだった。

母乳があふれ出るのはしんどいからと、
それを止めるための薬も処方された。
何ら疑いなくその部屋に母親をご案内し、
母親を気遣い、全身の観察をしながら、
言葉をかける。

あゝ、よそよそしい自分。
感情を誤魔化して、
なんとか重い重い空気の部屋から
逃げ出したい自分がいるのは嘘じゃない。
明るくしすぎず、暗くしすぎず、
「泣いてもいいんですよ」、
と声をかける。

私が泣きそうだ。
あんなにかわいい赤ちゃんが
この世で産声をあげられなかった理由は
なんなのか。

そういう思いで部屋を出るとき、
母親が、
「ちょっと」
と私に話しかけた。
ドキっとして振り返る私。

あぁ、また向き合わなければならない。
何だろう。悲しいのは私も一緒だ。
そう、振り返ったら私も泣きそうだ。
そう思いながら振り返る。
母親が真っすぐな瞳で私を見つめる。

「私はどうして向こうの、他のお母さん方と同じ部屋じゃないの?」

衝撃だった。

何を言っているんだろう。
悲しいじゃないの、
隣の部屋から元気な赤ちゃんの泣き声が
聞こえる部屋で、泣かないわが子のいる
苦しみと向き合わないといけないじゃないの、だから……と思っていた。

続けて母親は、

「私は母親です」

と言った。私はその時、
全てを端的な角度で決めつけ、
押しつけ、
一方通行の思いやりや気遣いという
偽善で看護を展開していた自分を恥じた。
返す言葉がなかった。
それから母親は、こうも言った。

「この薬、飲まないといけませんか?」

私は首を横に振った。
一緒に赤ちゃんを見つめて、
母親と泣き笑いながら、
赤ちゃんに母乳を含ませた。

赤ちゃんの名前は、”はるくん”

晴れた日の大空が大好きな両親からの
素敵な名前のプレゼントだった。
お姉ちゃんは、“そらちゃん”だった。

それから写真を撮り、足形を取り、
髪の毛をといたり、爪を切ったりした。
はるくんのおばあちゃんも病院に来て、
この日のために用意していた
手編みの帽子をはるくんに被せてくれた。

淡いグリーンと水玉の模様が、
はるくんにとても似合っていた。

そこでおばあちゃんが、
「“そらちゃん”にどんなに言おう?」と言った。静まる病室。
再び母親の頬を涙がつたう。

「あの子が一番楽しみにしてたからね。ママのお腹ぺったんこになったら、赤ちゃんが産まれて、一緒に遊ぶって」

…私は何も言えなかった。


そらちゃんという看護師

次の日、
私たち助産師のカンファレンスの議題は、
子どもへの伝え方。  

4歳の“そらちゃん”に、
どんな伝え方をするのか≫

そのことで話が膨らんだ。

あるスタッフは、
「絵本みたいに物語にして、天国に行っても元気にしているんだよ、と伝えるのは?」
またあるスタッフは
「お母さんからがいいのか、お父さんからがいいのか・・・」など、
かなり具体的な議論になっていった。

結局話はまとまらず、どうしよう、
とため息のまま解散。
私も頭のなかで、子どもへの命の誕生や
死の伝え方についてが、まとまりなく交錯するばかりだった。

次の日病室へ、
父親に連れられた“そらちゃん”がやってきた。あ、まずい。
今、母親は赤ちゃんと面会している。
まずい!!!
先に赤ちゃんを部屋から出す予定だったのに!!
私は衝撃を受ける“そらちゃん”を想像し、
環境を整えられなかったもどかしさで
いっぱいになり、誰かに伝えなきゃ!
“そらちゃん”が病室に入って行く!
どうしよう!!と、そればかりだった。

慌てて追いかけて、
思わず病室に入り込んだ私の前で、
そらちゃんが不思議そうに赤ちゃんに近づく。動揺している母親の表情がそこにある。

「あの…ね?そらちゃん。あのね、ママの話を聞いてね」小さな声で母親がそらちゃんを引き寄せながら話そうとしている。

まずいまずいまずいまずい…
全身の穴という穴から汗がにじみ出る。
心臓が爆発しそうになる。

「ママ、おめでとう。可愛い赤ちゃん、産んでくれてありがとう」

“そらちゃん”は、誰よりも看護者だった。
その瞬間母親が、父親が、皆が救わた。
“そらちゃん”は、赤ちゃんに触れたり、ほっぺをつついたりしながら、
「ママ、可愛いね。」
「ママ、ありがとね」と言った。

それからもうひとつ。
「赤ちゃん、どっかでケガしたがやね。
そらが助けちゃる」と言った。
皆泣き笑いだった。母親は“そらちゃん”を抱きしめて、「はるくん、可愛いやろ?」と言った。
私は小さなこの4歳の女の子がもたらす
不思議な力に触れて、看護とは、なんなんだろうかと、助産とは、なんなのかと、本当に心の底から考えた。皆でカンファレンスをしたあの時間は、この小さな女の子の一言ですべて解決したのである。

“そらちゃん”はどこか誇らしげだった。
お姉ちゃんになったのだ。
家族を守る、小さなヒーローだ。
本当に心の底からそう思えた。
そのあと母親は私に、当たり前に産まれると思っていた命の尊さや、儚さについて話してくれた。“そらくん”の誕生がもたらしたものは、想像以上にとてもとても大きなものだった。

この家族に、母親に、そしてそこに関わる私たちに、命とは、看護とは、という問いを与えてくれた。

「“そらちゃん”は、とっても軽いお産でね。
4年前はまだ若かったし、初めてのお産で緊張もしたけど、赤ちゃんが元気に産まれてくることに一ミリの疑いも持っていなかった。
それだけ、当たり前と思ってた。
けど、今、そらが目の前で元気にいてくれること、生まれてきてくれたことは奇跡やったんやなあと思う。
こんなことにも気づいてなかった。
はるが気づかせてくれたんやね」
と、母親は話してくれた。

あれから10年以上たっても、
ありありとあの時の言葉が、現象が、
よみがえってくる。

その後の私の助産師としてのアイデンティティを支えているのは、紛れもなくあのお産だ。
助産師を育てる側の世界に飛び込む予定の
私なのだが、ここにこのように残せておけるお産が、私が助産師を育てていく上での基盤となるだろう。
本当に深い、温かな経験をありがとう。

その後、今日も毎日にぎやかな産声の
聞こえる現場で、
私は今日も誰かの誕生日に向き合っている。
どんな出産にもドラマがあるが、
同じように産声を上げられない
赤ちゃんの誕生日が来るとき、
私は迷わず声をかけるようにしている。

「お母さん、産まれた赤ちゃんと
どのように過ごしたいと思っていますか?」

決めつけない。
当たり前は当たり前じゃない。
そして看護は、限りない選択肢を与え、
可能な限り寄り添う。

それが看護なのだ!!

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