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破れた恋に、火をつけて。〜元彼とライバルな氷の騎士が「誰よりも、貴女のことを愛している」と傷心の私に付け込んでくる〜 第一話

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

あらすじ(245字)


婚約寸前だった恋人に、いきなり別れを告げられたディアーヌ。
突然の失恋の衝撃に茫然自失になっていると、氷の騎士という二つ名を持つランスロットが「誰よりも、貴女のことを愛している」と告白してきた。
それを、素直に受け取ることは出来ない。ランスロットは振られたばかりの元彼と、常に火花を散らしているというライバル同士。
「彼の思惑が、わからない」
元彼への嫌がらせ? それとも……。

真意がわからずに疑いの眼差しを向けるディアーヌに、異性に興味がないはずの氷の騎士ランスロットが息もつかせず迫って来て?!

01 恋、破れる。

 人生には、キリの良い瞬間というのはたまに訪れる。振り返ると、あれこそが自分の人生の区切りだったのかと、後になってからそう思える瞬間が。

 たとえば、幼い頃に両親から出された王都に残るか、それとも領地に付いていくかの二択で提示された選択肢。社交界デビューの夜会からの帰り道。

 そして、初めて付き合った彼と別れ話をした、花々が咲き誇る昼下がりの庭園とか。

 そろそろ三時になる事を示す鐘の音を聞いても、動き出さない自分の靴を私はじっと見つめていた。別に興味のある何かが、そこにあった訳ではない。流行の形のドレスと一緒に共布で作った、薄いピンク色のサテンで出来た靴。からからに乾いた煉瓦で出来た、赤い道。

 思考は、ずっと停止したままだ。何も考えては、いられない。これからひどく傷つくだろうという事実を、簡単には受け入れたくはない。

 呆気なく失恋したという重大な事実を、抱えたままではまだ動けない。心の中でせめぎ合う何かを、すべて整理しないと動き出せない気がしたし、どうにも時間の進む感覚がおかしい。

 だって。ついさっき、クレメントは何の未練など見えないあっさりした態度で目の前から去って行った気がするもの。

 彼との思い出が頭の中をぐるぐると回っては、また意識がこの美しい庭園に戻ってくる。

 社交界デビューした時に、真っ先に声をかけて貰えた事に浮かれすぎて、帰りの馬車の扉とキスしたこと。仲良しのシェフリチャードに内緒で手伝って貰って作ったクッキーの甘い匂い。その夜に貰った、愛がこもっていたはずの甘い言葉たちが並ぶ手紙。

 ああ……別れてしまった今になってみると、何もかもが。全てが、空しい。

 皆が皆。初めて付き合った恋人と、結婚出来る訳ではない。人生の最後まで共に居れる訳ではない。それがわかっていながらも、こう考えずにいられない。

 いつか終わってしまう何かなら、いっそ最初から何もない方が良いのかもしれない。

 そうすれば、こんなに自分の中が何もかも空っぽになってしまったような、今まで生きて来た道筋が何もかもが無意味に思えてしまうくらいのひどい痛みを心が耐え難いほどに感じるようなことなんてなかったはずなのに。

 失恋の衝撃に気持ちがついていかなくて長時間ぼんやりと座っていた長椅子の反対側の端に、誰かが腰掛けた気がして私はふと目線を向けた。

 どうやら、あちらもじっと動かないままで座っていたままの私の様子を窺っていたのか。何の感情も見えない無表情しか見たことのない彼なのに、珍しく驚くような顔になっていた。透き通る氷を思わせる、薄い水色の瞳は見開いている。

 慌てて視線をさっきまで見ていた足元に、ぱっと戻した。

 何の理由かわからないけれどその場所に居た彼の顔が、異常に整っていたからとかではなくて、とても見覚えがあった。

 きらめく銀色のさらりとした髪に色素が薄い水色の目を持つ彼は、この国では良く知られていて有名だから。

 大国レジュラスに、この人ありと囁かれる、氷の騎士ランスロット・グラディス。そんな名で呼ばれ、多くの武勲を立て国民からも支持を集める人気の美形の騎士だ。

 冷たい氷を思わせるような色彩を纏っているだけではなく彼は実際に氷属性の魔法を一番に得意とし所属する王宮騎士団でも筆頭騎士と呼ばれている。多くの戦闘員を抱えている軍事国家でも五本の指に入る程に、とてもとても強いらしい。

 そして、私の……つい先ほど元彼となったクレメントの、事あるごとに対立する仲の悪いライバルだとしても有名だった。

 こんな時に彼と関わるのは、あまり良くないかもしれない。人生経験を積んだ訳でもない私にだって嫌になるくらいに、それはわかっていた。

 でも、どうしてもこの場所から立ち上がる気力が、湧いて来ない。

 ここから一刻も早く離れなくてはいけないことは、ちゃんと頭では理解出来ているつもり。それが出来ているからって、言うことの聞かない体がそれでは立ち上がりましょうとなる訳もない。

 それよりも、自分の心を守るために。本当に悲しくなる前の猶予時間を、長引かせる方が重要だと思う。

 だって、もう邸に帰ってしまえば、クレメントがさっき言ったことも全部全部、現実になる。心に出来た大きな傷からだらだらと血が流れる生々しく激しい痛みになって、私に襲いかかって来るはず。

 そうしたら、私は泣くだろう。

 さっき別れたばかりの彼を想って、涙が枯れるまで泣いてしまうはず。部屋に戻って。一人になったら、きっと……。

 出来るなら、時間を戻したい。

 どの瞬間に? そう聞かれれば困るけれど、願わくば、クレメントの心が私から離れてしまう前に戻りたい。

「あの」

 それは何かを躊躇うような声だった。私が座っている長椅子の反対側の端に腰掛けた彼が、意を決したかのようにこちらに向かって声をかけて来た。

 私は、無礼だとは理解しつつも黙ったままで動かない。

 彼といつも火花を散らしているという元恋人クレメントに関する嫌味だったとしても、こちらに反応がなければ何も面白くないと思う。それさえ理解して貰えれば、この彼はきっとすぐに諦めるはず。

「ディアーヌ・ハクスリー伯爵令嬢。私は、ランスロット・グラディスです。貴女は……もしかしたら知らないかもしれませんが。この城で騎士として、働いていて。決して、怪しい者では、ありません」

 そのことは、国民のほとんどが、とても良く知っているけれど。考え難いことだけれど、もしかしたらこの彼は自分が、とても目立っている存在であることを知らないのかもしれない。

 ついさっきまで付き合っていたクレメントへの遠慮もあって、そして特にそうする必要性もなかったから、ランスロット・グラディスと私は今まで話した事が一度もなかった。

 互いに、遠目で姿を見るだけだった。

 淑女に対する礼儀は、完璧。きちんと挨拶と自己紹介をされて、それでも無視を貫く訳には行かない。

 私はゆっくりと頷き、紳士的に長椅子に距離を空けて座る彼を見た。

「初めまして。ディアーヌ・ハクスリーです。グラディス様」

 彼の方を向くと歪んだ視界が揺れて、頬を伝った温かなものに手に触れると指先が濡れて驚く。

 そんなつもりなんか、なかったのに。こんなところで、みっともなく泣くつもりなんてなかったのに。

「不作法を。申し訳、ありません」

 一度流れ出した涙は堰を切ったように次から次へと落ちてくる。止めようとしても止まらなくて、ぐっと下唇を噛み締めた。こんなの、嫌だ。まるで故意に泣いて、ランスロットの同情を引きたいみたいになってしまった。

 両方の手の平で強引に頬の涙を拭うと目の前に、真っ白で清潔そうなハンカチが現れた。

「……どうぞ、使って。今日卸した新品のものなので、貴女が良ければ、そのまま持っていって欲しい」

 この涙は彼のせいではないけれど、泣いてしまうきっかけを作ったのは他でもないこの人だ。私はどうにかこの場所で失恋の衝撃をやり過ごせるようになるまで落ち着けば、邸に着くまでは我慢はするつもりだった。

 どこかやぶれかぶれになってぱりっと糊の利いたハンカチで、次々と流れ落ちてくる涙を拭った。

「……ありがとう」

 そのまま一頻り泣いて、みっともなく鼻を啜りながら言った。

 ランスロットは何も言わずに、傍に居た。

「いいえ。本来なら、こんな時には何処かに行くべきだろうと思う。だが、貴女が落ち着いたらどうしても話して置きたい話があるので。どうかそれまで、ここに居ることを許して欲しい」

 私はその時に、ランスロットの顔を正面から初めて見た。美しく整い過ぎた、どこか非情で冷たくも思える目鼻立ち。思わず嫉妬してしまいそうな、化粧もしていないだろうに透明感のある綺麗な白い肌。

 間近で見た彼は、どこか現実味がない。驚きにぽかんとして、あんなに止まらなかった涙がやがて引いてしまう。

 大きく息を吸い込んで、出来るだけ涙声にならないようにした。

「ふふっ。この長椅子は、私の所有する物ではないもの。別にグラディス様が居ることは、先に座っていたからと言って、私に断らなくても……それは、自由だと思うわ」

 彼は私の言葉に、目を何度か瞬かせると面白そうに笑った。冷たくも見える表情が綻んだのを見て、春に雪解けを見たような不思議な気分だった。

「確かにそうだ。それでは、こうしてディアーヌ嬢が、落ち着くのを隣で待っても良い訳ですね」

「私を、待つって……何の理由で?」

 氷の騎士ランスロットが私を待つ理由なんて、何も思いつかない。素直な疑問を口に出して首を傾げた私に、彼は頷いた。

「……ずっと、待っていた。君が独り身になるのを。ずっと」

 氷の騎士は、女嫌いだったはず。

 彼が持つその名前には、様々な意味をも含まれていたはずだ。彼は王族の誰かに命じられて仕方なく夜会に出ようが、自分から誘わないし誘われても誰とも踊らないと聞いていた。

 さっき恋人と別れたばかりの傷心の女性に対して思わせ振りな事を言う彼に、私は皮肉を込めて淡々として言った。

「そんな事を、言ったら……誰もが、誤解しますよ。貴方みたいな素敵な人は、冗談を言うとしても、かなり言葉に気を付けないといけないと思います」

 ランスロットは何を思ったのか、寂しげに微笑んだ。

「……こうして一人で泣いている理由を、聞いても?」

「失恋したの。良くある話でしょう?」

 自嘲するように笑うと、涙が乾きかけの頬が引きつれた。化粧も取れてみっともない事になっているとは思うけれど、なにもかもがどうでも良かった。

 そうして、私は思った。このランスロットは、失恋したことなんて……あるのだろうか。きっと、ないだろう。なんとなくの予想だけれど。それにもし別れを告げるなら、この彼からのはずだ。

 今の私のように、必要のないものとしてあっさりと捨てられた、みじめな想いなど味わったことなどないはずだ。

「誰かと親密に付き合った後で別れるのは、誰だって辛いと思う。それに、失恋する気持ちは痛いほどにわかる」

 そして、膝の上で握り締めていたハンカチを取り上げ、涙がこみ上げていた私の目元に当てた。彼の慈しむような目に、どうしても苛立って眉を寄せた。

「……貴方みたいな人にも、この気持ちがわかるって言うの?」

 私は、自分が傷ついているからとは言え、彼に対し失礼な事を言ったと思う。八つ当たりに近い言葉だった。けれど、ランスロットは気にしていないという事を示すように、優しく微笑んだ。

「恋を失う事は、辛い。少なくとも僕の場合は、死にたくなるくらいに、辛いものだった。それまでの何もかもが、すべて無意味なものに思えてしまうような空虚な日々を味わった」

 一度も失恋したことなんて、なさそうなのに。

 大きく、溜め息をついた。容姿が飛び抜けて整っている人は、それだけでいろいろな誤解されるのかもしれない。私は自分の思い込みだけの発言を、恥じた。

 何故かは、わからないけれど。ランスロットは、私の辛い想いに寄り添い理解しようとしてくれている。

「その気持ちは、理解出来ます。自分がもう、何の価値もないように思えて……辛い」

「今でも、別れた彼が好き?」

「……わからない」

 ランスロットの銀色の髪は、前髪が少し長くて後ろは短い。彼は自分の膝に頬杖をついて、どこか投げやりに言った私を面白そうに笑った。

「わからない? それなのに、辛い?」

「……もう、私達は元には決して戻らないと思う。未来は、わからないけど。何もかもが元通りにはならない。それは、わかってるの。二人がもう同じ気持ちではないと言うのは、痛いほどに理解してる。だから、ここで失恋したのは確かに悲しいけれど、彼に縋ろうという気持ちはないの」

「そうですか……」

 ランスロットは、何か真剣な表情で思い詰めた顔になった。

「……本来であれば、ディアーヌ嬢が落ち着くのを待って何かをするべきだというのは、僕もわかっています。だが、貴女が悲しんでいる姿を見て、どうしても……居ても立っても居られませんでした」

「えっと……?」

 私は、眉を寄せて微妙な表情になっていたと思う。だって、こんなの……続く言葉は絶対。

「ディアーヌ。僕は誰よりも、君のことを愛している。どうか、今は難しいとしても……時間を置いてからでも、僕との事を考えて貰えないですか」

 薄い桃色の唇が、優しく微笑む。私は人の顔の黄金比というものを、見た気がした。すべての美しいものに共通するという、割合の法則。

「……あの……」

「自分勝手に……すみません。また。ディアーヌ嬢」

 ランスロットは立ち上がり、呆気に取られ座ったままの私に礼儀正しく頭を下げて去って行った。

 ふらふらしながらも、彼の後ろ姿を見送ってから立ち上がる。それからどうやって家に帰ったかとかは、どうか聞かないで欲しい。だって、本当に覚えていないのだから。

 前触れもなく失恋した衝撃は、更なる強い衝撃によってどこかに吹き飛んでしまった。

 そして、ぼーっとした状態のまま健やかにベッドに潜り込む頃には、失恋の後の庭園での出来事は、都合の良い白昼夢を見たのかもしれないと思うことにしていた。

 だって、冗談にしても、笑えないし、面白くない。

 致命的。

◇◆◇

「あ。そうなんだ。やっぱり。私、ディアーヌはクレメントとは、いずれ別れると思ってた」

 母方の従姉妹で小さな頃から仲の良いラウィーニアは、歯に衣着せない言葉で終わったばかりの恋をあっさりと評した。幼い頃から気心の知れている彼女は、触れれば危険な失恋したての乙女に対しても全く遠慮などはない。

 付き合っていたクレメントに失恋して、ランスロット・グラディスにすぐに告白されたのはつい昨日の事だ。

 泣き明かす予定だった夜が、いつもと同じように明け、とてもすっきりとした気分で私は朝早く目を覚ました。

 そして、なんとなく習慣付いている日記の昨日の部分を読み返して、あの庭園での出来事が夢や幻ではないと確認した。その時にようやく色々と実感が湧いてきた私は、仲の良い従姉妹ラウィーニアに午後のお茶を一緒にしようと手紙を書いて呼び出すことにした。

 突然の失恋をしたばかりの私は、とっ散らかった心の整理などもまったく出来ていない。今自分が正常な判断が出来る状態であるとは、とても言い難い。

 冷静な第三者的な意見が必要であると、そう思ったから。

 涼しげなしたり顔をして、向かいの席に座っている私を見つめているラウィーニアは、私のお母様の姉の娘。我がハクスリー伯爵家より、かなり格上となる王家の流れを受け継ぐライサンダー公爵家のご令嬢。

 彼女の母イザベラ伯母様は、日頃から磨き上げられた美しい容姿を持つ上に、頭もすこぶる良い回転を見せる優秀な女性で当時一番人気の貴公子だったというライサンダー公爵を見事に射止めた手腕の持ち主。

 そして、その娘であるラウィーニアが射止めた人物は。きっと、誰もが驚きの。

「もう。自分は首尾良く王太子さまと正式に婚約が決まったからって、失恋したての従姉妹に言って良いことと悪いことがあるわよ。ラウィーニア」

 私が拗ねてそう言うと、ラウィーニアは表情を変えず優雅な仕草でお茶を飲みつつ肩を竦めた。要点だけを言うと私の母方の従姉妹はついこの間、まだ内々にであるものの、めでたく未来の王妃になることに正式決定した。

 我が国の王太子の周囲には幼い頃より、彼女を含め身分の高い令嬢五人が王太子妃候補として集められていた。

 それは必ず血筋を残さねばならない王となる身分も考えて、正妃の他にも側妃を娶ることも想定してのことだったとは思う。けれど、王太子殿下が選んだのはこのラウィーニアただ一人だけだった。他に側妃を娶る時は、数年間彼女との間に子どもが出来なかった時のみという破格の好条件付き。

 他の令嬢達は候補としてはお払い箱になるとは言え、美しく高い身分を持ち、もしかしたら未来の王妃になるかもしれないと施された高い教養も兼ね備えている。王太子妃候補だったという揺るぎない事実も手伝い、彼女達はこの先良い縁談には、決して困らないだろう。

「だって、付き合ってからもう一年も経っているというのに、ディアーヌはクレメントの前では猫を被ったままだったでしょう。お茶会だって夜会だって、向こうの機嫌を窺ってばかりで。言いたいことも言えずにお互いの素が出せない恋愛関係なんて、いずれ破綻するしかないわよ。もし結婚すれば同じ家に住み、かなりの時間を共に過ごす事になるのよ。生涯猫をかぶり続けるなんて、絶対に不可能だもの」

 ラウィーニアの胸に突き刺さる指摘は、いつも鋭く的確だ。

 聡明な彼女が未来の王妃に選ばれたのが、良く理解出来る。だからと言って、その忠告を理解は出来た私がすんなりと聞き入れられるかと言えば、それはまた別の問題で。

「……素を出せば、きっと嫌がられると思ったのよ。クレメントは、大人しくしている方が好きみたいだったから。いつもの私みたいな感じだと、すぐに振られてしまうかもって」

「私が見たところ、あの俺様クレメントには、もっときっぱりはっきりと物を言った方が良かったと思うわよ。でも、あの男の事は既に別れて終わった事だし、もう良いでしょう。ところで、失恋してからすぐに心の整理が付いていない段階で、ディアーヌが私を呼び出すという事は、クレメントと別れた以外でも何かがあったんでしょう?」

 流石、未来の王妃に以下略。幼い頃からずっと一緒に居て、何でも話し合う関係のラウィーニアには私の行動で何もかもお見通しみたいだった。

「ランスロット・グラディスに告白された」

 彼女に促された通りに白状すると、いつも冷静なラウィーニアにしては、とても珍しくぽかんとした表情の後で机に両手を付き、勢い込んで私に向かって聞いた。

「いつ? 何処で?」

「クレメントと別れた直後に、彼と別れたお城の庭園で」

 ラウィーニアは的確に彼女が知りたがった疑問に答えた私に対し、少し考えた様子の後でこう言った。

「ではランスロットとお試しでも良いから、付き合ったら良いのではないかしら。美形でも名高い氷の騎士は、次期王宮騎士団副団長候補でもあるし……それに、コンスタンスのお気に入りよ。絶対に出世するでしょうね。求婚相手としては、願ってもない好条件ばかりよ。後、大事なのは彼と実際話して、ディアーヌと性格が合うかどうかでしょう? その他に、何を考えることがあるの?」

 ちなみに我が国の王太子のお名前は、コンスタンス様。王子様という身分を持つ人に対して勝手に抱いてしまう期待を裏切らない金髪碧眼の美男子だ。

 ラウィーニアは、彼の唯一の婚約者になり幼馴染で気心も知れている。その彼女がそう言うのなら、間違いない情報だ。

 氷の騎士ランスロットって、王太子のお気に入りでもあったんだ。クレメント……彼とライバルとは言われているものの、その時点で負けていない? ううん。別れてしまった私は、彼とはもう無関係なんだけど。

「クレメントと彼がライバルと言われているのは、知ってるでしょう。だからもしかしたら、何かの嫌がらせの一環かもしれないと思って……」

 氷の騎士ランスロット・グラディスと、私の元彼である炎の騎士クレメント・ボールドウィンの不仲は割と有名だ。皆が知っていると言っても、過言ではない。

 確かに昨日少しだけ話したランスロットの淡々とした様子から察すると、俺様タイプのクレメントとはどう考えても性格は合わなさそう。

 二人が普段どんなやりとりをしているかは、見たことのない私にはわからないにせよ。そういうややこしい関係性は、警戒しておいて損はないはずだ。

「元彼とライバルだからって、なんなのよ。もうディアーヌとクレメントとは、他人同士なんだから遠慮なんか、しなくて良いわよ。あんなに美形で出世確実の人、どこを探してもなかなか見つからないわ。彼がディアーヌが良いと言っているんだから、一度付き合ってみれば良いでしょう」

 ラウィーニアは、良い意味で計算高いし気持ちの割り切りも素早く出来る。でも、心の整理があまり得意ではない私には昨日まで恋人だった人の事をこうして明け透けにもう他人なんだからと言われると、やはり胸が痛んだ。

 とてもとても今更なんだけど、やっぱり私はクレメントと別れたんだと心の奥底からじわじわと実感が湧いてくる。

「……でも、彼に告白されたのは別れて本当にすぐよ。あの場所に居たのも、もしかしたら……」

 クレメントに別れを告げられたあの城の庭園は、確かに花が咲く季節に目も楽しめるし散歩をするには丁度いい。現に、庭園を散策する人たちは沢山居た。けれど、あんなにタイミング良く現れた彼が、どうしても不思議だった。

 まるで、クレメントが私と別れることを、ランスロット・グラディスに事前に言っていたみたいに思えるからだ。

「私は個人的にはあまり物を考えない好戦的なクレメントより、周囲を見る余裕のある知的なランスロットの方が良いと思う。それに、彼は性格も真面目だからディアーヌと合ってると思うわ。クレメントと一緒に居た時に気を使っていたのは、いつもディアーヌの方だったでしょう? 片方だけが疲れる関係なんて、どうせ無理しても続かないわよ」

「そんな……」

「お嬢様。お手紙でございます」

 理路整然としたラウィーニアの言葉を聞いて、口を開こうとしたら、執事のチャールズが部屋へと入り控えめに声を掛けて来た。白髪できっちりとした執事服を着ている彼は、当主であるお父様のお気に入りの優秀な執事だ。ハクスリー家に仕えて、長い。

 そして、いつも通りならば彼はこんな無作法なことはしない。

 私がこうして誰かとお茶をしているのなら、その間に届いた手紙は部屋に帰ってから渡してくるはずなのにと不思議になって首を傾げた。そして、恭しく彼の差し出している銀色のトレイの上にある白い手紙を、そっと手にした。

「ディアーヌ。裏を返して見てみなさいよ。きっと……彼じゃない?」

 ふふっと意味ありげに微笑むラウィーニアは、手紙裏に書かれている差出人の名前に見当がついているようだ。

「……ランスロット・グラディス」

 彼の真面目で几帳面な性格を表すように、飾り文字の隅にまできっちりと美しい線で名前が書かれている。

「ほらね。絶対にそうだと思った。告白したんだし、当然かしら。きっと何かのお誘いね……それで彼は、なんて?」

 私は好奇心に目を輝かせるラウィーニアに促されるままに、チャールズの差し出したペーパーナイフで手紙の封を開けた。一枚の手紙に書かれている初めて見る彼の文字は、美しいけれど……。

「……どの夜会に出席されますか?」

「それで?」

「それだけ」

 頷いた私がそう言って一文だけ書かれて署名のみの手紙をさっさと封筒に仕舞うと、きっと後に続くはずの甘い言葉なんかを期待していただろうラウィーニアは顔を顰めてがっくりと肩を落とした。

「流石は氷の騎士。素っ気なさは、噂に違わずね。ディアーヌ、どうするの?」

「どうするって……」

「きっと貴族令嬢に対する正式な求愛の手順を踏むために、夜会でディアーヌに会いたいのよ。真面目な性格の彼、すごく良いじゃない。今週末に、コンスタンスが主催する大きな夜会が城の大広間であったはず。そこで会いましょうって、すぐに返事しなさい」

 ラウィーニアは命じることに慣れている彼女らしく、浮かない顔をしたままの私にてきぱきと段取り良くそう言った。

「……でも。ラウィーニア」

 彼女の言っていることは、いつも正しい。けれど、私はどうしても気が進まなかった。

 そんな大きな夜会で、この前までクレメントと付き合っていたはずの私がいきなりランスロットと踊っていれば、口さがない連中になんて言われるか。すぐに想像出来た。

「ディアーヌ。悪いことは言わないから。一度会ってみなさいよ。別に会うくらいなら良いでしょう? 何もすぐに彼と付き合って結婚しろと、そう言っている訳じゃないわ。夜会で少し、会って話するだけ。気が向けば踊っても良いかも。それにクレメントとの事は、もう終わったことよ。早々に忘れなさい。落ち込んで後ろ向きになっていても、何の良いこともないわよ」

「私が別れてすぐに、あのランスロットと踊っていたら……やっぱり、クレメントへの何かがあるのかと疑われてしまうわ」

 人目は気にならないとは言えない小心者の私がそう言えば、ラウィーニアは大きく息をついて言った。

「そう思いたい人間には、思わせておけば良いでしょう。そんな大したことない噂なんて、三ヶ月も経てば続々と出てくる新鮮な話題に埋もれて、いつの間にか誰にも忘れられているものよ。名前も知らないような人が、何を言おうと気にしてていても仕方ないでしょう。それに失恋に一番良いのは、新しい恋よ。古今東西、そういう風に決まっているもの」

 早速ラウィーニアは週末の夜会に向けて準備をしようと意気込んで立ち上がり、気の向かない私を早く早くと急かして勝手知ったる衣裳部屋を漁り始めた。

「ねえ。ディアーヌ。この水色のドレス、良いんじゃない? ランスロット・グラディスの、あの氷のような水色の目に良く似ているわ。きっと彼の隣に居れば、引き立つわよ」

 ラウィーニアが機嫌良く示した水色のドレスを見て、浮かない顔のままで首を横に振った。

「それは、前にクレメントが一緒に出席する夜会用に贈ってくれたものなの。もう着れないわ。そうだった……あの人に貰った物は、全部整理してから捨てなきゃ」

 元彼から贈られた物を身に付けて、未婚者にとっては出会いを求める意味合いもある夜会になんか絶対出たくない。

 とは言っても、クレメントは決して付き合っていた私へはケチることはなく、高価で豪華な贈り物は沢山貰ってはいる。今は物に溢れている衣装部屋は、近い内にかなりの数を処分してからスッキリとすることになりそう。

「何言ってるの。元彼に貰ったからって、物には罪はないわよ。このドレスだって凄く良い生地だし、形も可愛くてディアーヌに似合っているわ。他の男性とは……ランスロットに会う時には、違うドレスを着れば良いんだし。別に気にせずに自分が気に入った物は、捨てずに置いておけば? 向こうも付き合っていた恋人に貢いでいた物を返せとは、言わないでしょ。もし、そう言って来たとしたら我が国に仕える騎士の風上にも置けないから、投獄してやるわ」

 ラウィーニアは、先ほど口にした物騒な言葉に似合わないにっこりとした良い笑顔を見せた。

 彼女は権力者となる王族に嫁ぐために幼い頃から人に対し公平公正に見られるように教育されているはずで、それは当たり前のように身について居るはずだ。

 けれど、近い身内の事となると権力を持たせてはいけない人になりそう。年下で幼い頃から何でも出来る彼女に甘やかされている自覚のある私は、大きく溜め息をついた。

「それだけではないの。それを見るたび着るたびにクレメントの顔を思い出すなんて、絶対嫌だもの。でも、あの人は拘りが強くて仕立てに出す店や生地の質にも口を出していたから。そうね……サイズ直しをすれば、長く着られるとは思うけど……似合いそうな誰かに、譲っても良いし」

「恋人への贈り物をおろそかにする程に、彼がお金に困っていたら、確かに大問題だわ。炎の騎士クレメント・ボールドウィンは、レジュラス国王宮騎士団の要職筆頭騎士五人の内の一人よ。我が国レジュラスは、国防の要たる大事な人たちにも俸給が払えないくらい困窮に喘いでいることになる」

 周辺国みんなが認める軍事大国に、まさかそんな不安があるわけなく。ラウィーニアは冗談っぽく笑って、ふわふわとした裾が返した花のように下に広がる薄紫のドレスを選び出した。

 クレメントと正式に付き合い出す前に、社交界デビューする前にお父様が私のためにと夜会用に何枚か作っておいてくれた時のドレスだ。

 私はデビューしてすぐにクレメントと付き合い出し、拘りの強い彼は出席する夜会の前には必ずドレスとアクセサリーなんかを贈ってくれたから、こうして父の用意していたドレスの出番はなかったけれど。

「それ一年前に、お父様が作ってくれたドレスなの……なんだか、今の私には子どもっぽくない? それに今から新しく仕立てる時間は、ないし」

 ここまで来て往生際悪く理由をつけて渋る私に、ラウィーニアは何とも言えない表情になった。備え付けの椅子に座っている私と、さっき彼女の厳しいお眼鏡に適った薄紫のドレスを見比べる。

「うん。可愛い。あの野暮ったいセンスの叔父様の用意したドレスにしては、すごく良いわ。一年前って……何を言ってるの。十七歳が十八歳になっただけのことでしょう。ほんの少しの誤差だわ。子どもっぽいも、何もないわよ。このドレスだと、裾が下が広がるから髪型は上げた方が良いわよね……」

 まだ当の本人が夜会に行くって言ってもないのに、髪型まで吟味し始めたラウィーニアは、私付きの髪結いメイドと相談し始めた。準備に手を抜かない彼女は髪飾りまで決めてしまうつもりらしい。

 それを横目に見ながら、私はさっき届いたばかりの手紙を見直していた。とっても素っ気なく、こういう時にお決まりの何かを期待させるような愛の言葉も何もない。

 氷の騎士と呼ばれている、とても彼らしいもの。

 ランスロットは、何を考えているんだろう。私がクレメントと付き合っていた事は、彼は絶対に知っているはず。一緒に出席した夜会でも、彼を見掛けたことある。いつも彼一人か、誰かと話していても男性と一緒だったみたいけれど……。

「よし。これで準備は良いわね。後は、彼に今週末の夜会に出るって、返事を書いておきなさいよ。ディアーヌ」

 物思いに耽っていた間に、仕事の速いラウィーニアはドレスに合うアクセサリーや靴など、すべて決めてしまったみたい。テキパキとしていて、判断しておくことや、やるべき事を後には回さない。未来の王妃に以下略。

 ここまでやっておいて貰ってなんだけど、当の本人である私はまだ夜会に行こうという、前向きな気持ちにはなり切れないでいた。

「ラウィーニア。やっぱり、私……」

 弱気な気持ちに負けそうになった私の言葉を、ラウィーニアは片手を上げて遮った。

「ディアーヌ。今悩んでいる大きな理由がクレメントの事なら、それはお門違いよ。元彼とライバルだからって、何なの。ランスロットと直接話して、彼がどんな人なのかを確認するのが先でしょう? もし、クレメントと張り合いたいだけのバカ男なら、丁重にお断りすれば良いでしょう。はい。私の今から言う言葉を、復唱してくれる? クレメントとは、終わった」

「クレメントとは、終わった……」

 満足そうに頷いたラウィーニアは、私と同じ色合いの薄紅色の瞳で真っ直ぐに視線を合わせた。

「そうよ。もし、結婚でもしてたら別れるとしても、貴族院を通さなければいけない。でも、婚約もしていない口約束だけの男なんて、お別れしたのなら今ではもう他人よ。割り切って忘れなさい」

 ラウィーニアは多分、今までずっとクレメントと私が付き合っていたのを、余り快くは思っては居なかったのかもしれない。そして、あくまで予想だけれどランスロットはさっきの薄紫のドレスみたいに彼女のお眼鏡に適っている様子。

 そういえば王太子のお気に入りであるなら、彼女もランスロットと何回か会って話したことがあるのかもしれない。今まで何故か、その可能性に気が付かなかった。

「ランスロット・グラディスって……どんな人なの?」

「有能で真面目で堅物。あと、無口で不器用?」

「……不器用なの?」

 まるで決まっていた台詞を唱えましたと言わんばかりに流れるように彼を評したラウィーニアは、肩を竦めた。

「ディアーヌが今、疑問に思っている事は、すべて彼と会って直接に話せば解決するわよ。私とこうして話していても、それはわからない。本人と話すしか正解は出てこない。自分で会って話してみるしか解決しないことはあるわ。それで、今週末は行くの? 行かないの?」

 付き合って長い彼女には、私がこれからなんて答えるかなんて、どうせ全部お見通しなのに。

 こういう時には決して人を甘やかさないラウィーニアは、きちんと自分の意志だと自覚出来るように、口に出して言わせたいみたいだった。

◇◆◇

 久しぶりに出席する城での夜会に向かう馬車の窓から見える景色は、夕暮れを終えて薄紫に染まってきた。今私の着ているドレスの紫色に、なんだか似ているのかもしれない。鮮烈な赤を押し退けて、薄闇を溶かし染めるような徐々に色合いを変えていく紫。

 透明な窓に映る浮かない顔は、やっぱり人目が気になってしまうから。意気地のない弱虫だと言われようが、私は未来の王妃が言うようには、すぐに感情を割り切れない。

 お父様譲りの亜麻色の髪は念入りに結い上げられ、主催者のパートナーだから絶対に準備で多忙なはずなのに、ラウィーニアは先程うじうじ病を患う従姉妹を心配して最終の点検に来ていた。仕事が出来る女は、本当に違う。

 男女の仲の色恋話なんてありふれていて、もしこれが他人事ならば私だって結末はどうなるのかと楽しめたはず。

 二人の美男の騎士が、恋の鞘当て。なんだか、本当に流行りの恋愛小説の中に居るみたいだ。まさかの主人公は、自分。こんな事になるなんて、あの庭園での出来事まで想像もしていなかったけれど。

 甘い期待と黒い不安が入り混じって、綺麗なドレスに包まれている私の中はどろどろでぐちゃぐちゃだった。

 氷の騎士ランスロットが一体何を考えているのか、やっと今夜彼の口から聞くことが出来る。

 でも、人は嘘もつけるし、騙し陥れることもある。権力争いに鎬を削る貴族社会には、そんな話はそこここに転がっているんだから。

 世の人が初恋をやたらと尊ぶ理由が、今ではなんとなくわかる気がする。だって、初めての恋は、ただただ浮かれて付き合っている恋人をひたむきに好きなだけで。それだけで、良かった。

 でも、これからはきっと違う。

 誰かと付き合って、どんなにその人から愛されていると言葉や態度で示されようが。この恋はいつか終わるかもしれないと、心のどこかでどうしても怯えてしまう。

 だって、私はもう……一度終わりを迎えた恋を、知ってしまっているから。

◇◆◇

 王城にある大広間の中は天井に吊されているきらびやかなシャンデリアの光も眩しく、なんだか不思議なものだけれどキラキラとして輝いて見えるような華やかな空気で満たされていた。

 王太子殿下主催の夜会という事は、彼の直属の部下たちは出席確実だろう。

 彼の護衛のための数人の近衛騎士は除き、この国の主力である王宮騎士団で要職に就く面々も、やがて姿を現すはず。特に人気のある騎士達は、出席を厳命されているだろう。きっと、筆頭騎士五人の一人ランスロット・グラディスや……クレメント・ボールドウィンも。

 一人佇む私の周囲には、そんな彼らに会えるのならと、とても気合いを入れてきた様子の美しい貴族令嬢たち。こういった出会いの場でもある夜会に出席し誰に言い寄られ恋仲になるかで、この先の人生が決まると言っても過言ではない。

 良い縁談のためにと親から潤沢に与えられる着飾るためのお金に困らない彼女たちは、それぞれ自分の個性に一番良く合うドレスをお抱えのメゾンで仕立てる。そんな中にも、やはりその時々の流行りは必ずあって、今は青系のドレスが多い。

 青の濃淡に同系の薄紫色の私は溶け込みつつも、やはり未だ片付いていない心中は複雑だった。

 顔見知りなどで寄り集まり笑いさざめく、ざわざわとした大広間には、今夜の開会の時間がそろそろ近付いていた。もうそろそろ主催者である王太子コンスタンス様が現れて、口上があるはず。

 それからコンスタンス様は王太子妃候補の一人と、決められた順番通りに踊るはずだ。けれど、少数しか知らない事だけれど、もう彼はラウィーニア一人に心を決めている。きっと今夜は、彼女と踊るだろう。

 やがて時は来て王太子の登場を告げる声が、大広間に高らかに響いた。

 金髪碧眼の美男である王太子のコンスタンス様は絶対自分には手の届かない存在であるとはわかっていても、思わずため息をついてしまう程に美形の王子様。少し失礼な言い方になるかもしれないけれど観賞用には、とても最適な人だ。

 けれど、そんな彼の傍に居るためにと王妃の身分の重圧に耐え切れるのは、ラウィーニアを含めたきっと一握りしかいない。この国を治める彼の伴侶である王妃となる重圧は、きっと凡人には計り知れないものだから。

「今夜は、僕の催す夜会に出席してくれて感謝する。実は、これから大事な報告がある。この場で王太子妃に決定した女性の名前を、知らせたい……ラウィーニア。こちらへ」

 彼の呼びかけに答え、美しい深い青のドレスに身を包み楚々として現れる黒髪の美女。ラウィーニア・ライサンダー公爵令嬢。先ほど心配顔をして会ったばかりの、私の従姉妹だ。不届き者の誰かが変身魔法を使って、いずれこの国の至高の存在となる王太子の隣でにっこりと微笑む彼女に成り代わっていない限りは。

 五人かの候補の中からたった一人選ばれた王太子妃の名前を聞いて、周囲からは高い悲鳴を含めた驚愕の声もあがる。もちろん、彼女に近い親族である従姉妹の私も、この場で発表をすることは事前に聞いてはいなかった。

 未来の王妃に誰が選ばれるかは、この国の宮廷では大問題のはずだ。これが知れ渡る今夜から早速方々で、貴族たちの政治的な駆け引きが始まるだろう。

 彼が望むと望まないにしろ、ラウィーニアの父ライサンダー公爵、ダニエル伯父様は大きな権力を手にすることになる。だって、順当にいけば彼は未来の王の祖父となるのだ。彼や彼に近い誰かに擦り寄っておけば、今を生きるための貴族としては間違いない舵取りになるだろう。

 大きな権力を持つ誰かの傍に居て、絶対に損はない。

「では、今夜を楽しんでくれ」

 必ずこれからいろいろな場所で始まるだろう、あまり愉快ではないやりとりに、私が思いを馳せている間に色々と終わってしまったらしい。

 王太子殿下の開会挨拶は終わって、軽やかな音楽が奏でられた。

 最初のダンスは、主催者コンスタンス様とそのパートナーのラウィーニアで麗しい二人が踊り出す。そうして、曲の節ごとに徐々に高位の貴族達から順に踊りの輪が広がる。ファーストダンスは、恋人同士そして決まった婚約者や夫婦で踊る。

 若い未婚の令嬢の流行りは青系だけれど、既婚の貴婦人達にもそれはそれで流行がある。そして、外国からの賓客たちの民族衣装も加わり。眩しい大広間に美しく鮮やかな、色とりどりのドレスが回る。

 ぼんやりとただ踊る人たちを見ていただけの私に、背後から聞き覚えのある低い声が聞こえた。

「ディアーヌ嬢」

「……グラディス様」

 私がこの場に来る主な理由になった、氷の騎士ランスロット・グラディスがすぐそこに居た。

 この前、庭園で会った彼は、王宮騎士団の通常時着用する灰色の騎士服を着ていた。けれど今は、こういった正式な夜会などに彼らが纏う黒い騎士服を着ていた。

 ランスロットとこうした夜会の席で近くで会うのはこれが初めてだけれど……控えめに言って、うら若き乙女なら見ただけで思わず色気にあてられて倒れてしまうほどに、輝かしく素敵だった。

 ランスロット・グラディスが私に話しかけたのを見て、周囲の目が集まるのを感じる。

 それはきっと彼の容姿がまるで造りもののように整い過ぎているから、と言うだけではない。氷の騎士ランスロットが、興味のないはずの女性に声を掛けているのを見るのが初めてと言うのもきっと大きいと思う。しかも、彼のライバルで有名なクレメント・ボールドウィンと付き合っていたはずの私だ。

 ざわざわとした興味本位な動揺が、大広間を口早に走っていくのを感じる。

 研ぎ澄まされていると形容出来る程に、美しく芸術的に整っているランスロットの顔はいつも通り無表情だ。彼が一体何を考えているか、わからない。緊張も動揺なども全く見えない。落ち着き払った余裕のある様子を見せて、この前に告白した女の子に、愛を囁きに来ましたと言う甘い空気も一切ない。

「もしディアーヌ嬢が良ければ、どうかランスロットと……何か、飲み物など?」

 私の空っぽの手を見てから、彼はまるで姫の側近くに仕える騎士のように甲斐甲斐しくそう口にした。

 こうした夜会では飲み物を楽しみつつ、談笑することが多い。だから、彼はとりあえず踊るより前に私と話したいということが知れた。

 残念なことに、ハクスリー伯爵家は家系的にお酒はあまり強くない。緊張を解そうにも、肝心の聞きたいことが聞けない状況になるのはあまり良くないと判断した。

「……いいえ。会場に入った時に、勧められて少し飲んだばかりなので。もしランスロット様が良ければ……話をしにバルコニーに出ますか?」

 ダンスをして動いて夜風が当たることの出来るように、大広間のバルコニーはすべて開放されている。きっと聞き耳を立てているだろう周囲の気配も気になっていた私が指差したここから近いバルコニーに続く出入り口見て、彼は表情も動かさずに頷いた。

「どうぞ」

 ランスロットはこんなに短い距離だというのに、私をエスコートするように手を差し出した。特に意識することなく、自然とその大きな手を取った。私たち貴族令嬢にとっては、幼い頃から様々な場面でエスコートされることは当たり前のことで慣れている。

 だけれど、その手が細かく震えている事を感じたのは初めてのことだった。

 慌てて背の高い彼を見上げても、彼は何の表情も浮かべていない。そして、私はその時にラウィーニアが彼を評して不器用と言っていた言葉を思い出した。

「あの……」

 それを指摘するか、しばし迷った。指摘して冗談にして笑えるような緩い空気でもない。

「……すみません。緊張してて」

 彼の言葉に、私は一瞬耳を疑った。

 とても当たり前のことだけれど、彼自身が一番に手が震えていることに気がついていたみたいだった。

 氷の騎士ランスロットは、異性に興味はなく常に落ち着いていて冷静沈着。私は今までずっと彼はそういう人だと思っていたし、周囲の人もそう思っている人は多いだろう。

「緊張……」

 信じられなくて思わずぽつりと私が呟いた声を聞いて、彼は微かに笑った。

「そうです。こうして……ディアーヌ嬢の手を取ることが出来て嬉しい。こちらに段が有りますので、気をつけて下さい」

 歩きながら彼の顔をじっと見ていた私に、彼は親切に注意をしてくれた。夜のバルコニーに出れば、小さな可愛らしいランタンがいくつも灯されていた。とっても風情のある、夜を照らす美しい光。

 細やかな意匠が施された柵の前に並んで手を掛けて、意を決した私はランスロットの方を向いた。

 こうして間近で見ると本当に彼は生きているのが不思議なくらいな、美しい容貌をしている。

「ランスロット様。私、貴方に聞きたいことがあって」

「何なりと」

 彼は短く答えて、私を真っ直ぐに見つめた。透き通るような、色素の薄い水色の瞳。

「あの、私に声を掛けたのは……貴方と、私が付き合っていたクレメントの、二人の関係が何か関わっていますか? それなら、もうやめて欲しいんです」

「……いいえ」

 彼の真意を問い正す言葉にランスロットは短く答えて、表情が見えにくい彼はまるで何かに耐えるかのように小さく眉根を寄せた。

「……クレメントの存在は、あの告白には何の関係もないと?」

 言葉少なな彼に対し私はまた、問いを重ねた。

「ありません。ですが、彼が僕のことをあまり良くは思っていないことは事実です」 

 彼の言葉の内容を不思議に思って、私は首を傾げた。だって、そうだとすると目の前に居るランスロット・グラディスは、ライバルと言われているクレメント・ボールドウィンの事を特に何とも思っていないように思えるから。

「あの……二人は、仲があまり良くないんですよね……?」

 それはまだ親しいとは言えない関係の私達の間ではあまり良くない失礼な質問だったかも、知れない。でももう、出来るだけ率直に聞いて置きたかった。

 元彼クレメントとの確執が原因で、私に手を出そうとしたのなら、ランスロットとの関係は深みに嵌まってしまう前に、ここでもう終わりにしたかった。

 彼がどんなに美形で人気がある騎士だろうがどうだろうが、そんな二人の間にあって取り合われるぬいぐるみみたいな役割は絶対に嫌だった。

 それに、生まれて初めて失恋したばかりという気分は、独特でもうどうにでもなれみたいな勢いがあるやけっぱちな気持ちが心のどこかにあった。

「色んな人からそう認識され噂されている事は、知っています」

 なんとも意味深でどうとも取れるような答えに、私はムッとした。ランスロットにも、それはすぐにわかったと思う。私の不機嫌を悟り憂いを帯びた視線が、見て取れたから。

「ランスロット様。もうこの際、はっきりと言います。私に対して、何か……前に付き合っていたクレメントの事でも何でも。純粋に恋愛感情以外で、他に含みのあるような事があるのなら、もう二度と関わらないで欲しいの。二人の争いに巻き込まれて、何かに利用されるなんて……絶対にごめんだから」

 このところ自分の中でもやもやして思い煩っていた事をふり切るように、キッパリと言い切った。そして、ランスロットの美しい目を見上げた私に対し、彼は軽く吹き出して笑い声を上げた。

 不意を突かれて、思わずぽかんとしてしまった。

 鉄面皮であるはずの氷の騎士に似つかわしくない、とてつもなく可愛い笑顔だったからだ。もし彼が普段もそんな表情で居たならば、きっと彼はもっともっと人気になっているかもしれない。

「真剣な話をしている最中に笑ってしまい、すみません。まさか。自分が思ってもみなかった事をディアーヌ嬢から言われたのと……率直な物言いが、とても意外だったので」

 ランスロットは思わず笑ってしまったことを誤魔化すように軽く咳をしつつ、私を見た。そう。私は生まれ持った外見のせいだと思うのだけれど初対面の人からは、物凄く大人しくて乙女っぽい性格だと誤解されやすい。

 きっと、この彼もそう思っていたんだろうと口を尖らせる。

「……いいえ。私は良く人に誤解されるんですけど、外見と中身が合っていないんです。本当はお喋りだし良くない皮肉も言うし、上手くはないけど冗談を言うのも好きです……きっと、ランスロット様が想像していた人とは全然違います」

 ランスロットの中に、もし彼にとっての理想的な私が居るとしたら、それはこの世には存在しない幻想なのだと早い段階で理解して貰う方が良いのかもしれない。

 クレメントと付き合っていた時期には、かなり自分を殺して無理をして彼に合わせていたという自覚はあった。

 思い返せばラウィーニアがこの前に言っていた事はかなり的を射ていたし、なんなら別れてしまった今、確かに悲しいは悲しいけれど、もう自分の中にある色々な気持ちを誤魔化して気を使わなくて良いんだとほっとしている自分も居る。

「こうして、二人で話してみて……想像だけの時より、より良いと感じました。貴女は、本当に素敵な女性です。ディアーヌ嬢」

 ランスロットの言っている言葉自体は凄く嬉しいし、普通ならとてもとても甘く感じるはずだ。けれど、彼の淡々とした喋り口と無表情のせいで、全部台無しになっている。

 どうか普段通りの私なら絶対しない事であると信じて欲しいんだけど、今は失恋の痛みに少しおかしくなっている自覚があった。

 私はおもむろに腕を上げて、彼の整った顔にある両頬を摘んだ。それは、もちろん生きているから柔らかいし、彫像のような造作だとしても動かない訳でもない。

 そして、何度かむにむにと摘んだところで、特に反応せずにされるがままになっているランスロットに気がついた。

 彼は特に不快な何かを思わせる訳でもないけれど、まさか上品である事が尊ばれる貴族令嬢がこんな事をするとは思っていなかったせいか。あまりの驚きのためだろう、ランスロットは微動だにせず固まっている。

 当たり前だ。

 出会いの場である夜会に来て美形騎士に、熱心に口説かれている。乙女の誰もが夢に見るような憧れの場面なのに、甘い雰囲気に酔わずに彼の両頬を摘む貴族令嬢、居ます? ここに居ます。

 無意識に自分がとんでもない事をしていた事に気がついて、慌ててパッと手を離す。

「ごめんなさい。もしかしたら、表情が動きにくいのかなって思ったら……無意識に。本当に……もう言い訳も出来ないけど、失礼をしてごめんなさい」

 私の顔は、とても赤いと思う。今はもう、恥じらっているという事実を前面に出して彼に許しを乞うしかない。主に、先程せっかく甘い雰囲気を出してくれようとした彼に対して。

「いいえ。すみません。僕も自覚はあるんですけど、どうしてもどうにもならなくて。こうして僕の表情が動きにくいのは、家系なんです。現在のグラディス家の人間は、嫁いで来た母以外はこうした顔をしています」

 彼のような表情の動き難い人たちが、集う晩餐。どんな風に会話が進行するんだろうと、思わず頭の中で想像してしまった。

「あの……家族構成を、お聞きしても?」

「父母と、兄が三人居ます。下には妹が」

 私が持つ頼りにならない知識によるとグラディス侯爵家は、建国からずっとこの国に仕えている王都近郊に大きな領地を与えられた由緒ある家柄だ。彼の長兄にあたると思われる、若きグラディス侯爵はついこの間家を継がれたと噂話に聞いた気がする。

 けれど、僭越ながら乙女を代表して私の興味はそこにはなかった。彼の上にも、こんな美形の兄が三人も……? とても気になる。

「お兄様が、三人も居るんですね」

「……ええ。全員既婚者ですが」

 きっと性格が真面目なんだろうランスロットは、彼にとっては意図のわかり難いだろう私の質問にもきちんと答えて頷いた。

 そして、二人ともなんとも言えない顔で、視線を合わせる。銀色の長い睫毛に烟る、水色の目が美しい。

 ランスロットの表情はすごくわかり難いだけで、こうして間近と言える程にまで近くで見ると、彼が今どういう気持ちなのかがわかるような気もする。

 但し、それは恋仲と言えるほどにまでに、近距離にいないと難しいのかもしれない。

 私は思わず彼以外の三人の美男子の存在を予感して舞い上がった気持ちを誤魔化すように、コホンとわざとらしく咳払いをした。

「あの……ごめんなさい。私のせいで、少し話が逸れてしまったんですけど」

「いいえ。気にしないでください」

「本当に、私の事を?」

 一番に聞きたかったことを聞けばランスロットは、一度大きく息を吐いた。

「僕の気持ちは、この前にお話しした通りです。ディアーヌ嬢が色々と思うところがあるというのは、理解出来ます。ですがどうか、お願いします。本気であることはこれからの僕を見て、見極めてください」

 彼の目は真剣だったし、時間をかけて隅々までまじまじと観察しても疑うべきところは何も見当たらなかった。

 だからと言って、世の中には私だけは大丈夫騙されないと思い込んで、あっさりと騙される人は沢山いる。でも、悪い可能性があるものを全て選択肢から外してしまえば、その手には何も残らないだろう。生きていくためには、立ち止まっている訳にはいかない。

 時間を掛けて自分の真意を見極めて欲しいと彼に言われれば、もう私はそれ以上、何も言えない。確かに、出来る従姉妹のラウィーニアの言う通り、もう別れてしまったんだからクレメントの事は自分の中で終わりにすべきだ。

 ひとつ失恋した後で、また新しい恋を出来るまでの時間はどのくらいなのだろうか。誰か、統計を取って教えて欲しい。

 私が今、知りたいから。

◇◆◇

 薄紫のドレスは回るたびに優雅に翻り、私はランスロットの整った顔に向き直った。

 私は今まで付き合ったのはクレメントの一人だけだけれど、ダンスならもちろん他の男性とも何度か踊った事がある。その中でも、今踊っている彼とは群を抜いて踊りやすかった。

 夜会と言えば、ダンス。もちろん。そう言った名目上の目的の他にも、貴族同士の政治的な社交や商談。そして、色々な駆け引きの場などでもあるんだけれど。もうひとつの大きな役割といえば、男女共に未婚者には、目上の紹介なく声を掛け合えるという格好の出会いの場であった。

 そして、踊っている最中にチラッと視界の端に捉えたのは、元彼クレメント・ボールドウィンだった。彼が居る場所とは結構な距離が空いているはずなのに、一目見てわかるほどに見栄えの良い美しい令嬢と機嫌良く踊っている。

 ランスロットと今こうして踊っている私も人の事は言えないのだけれど、切り替えが早いとぼんやりと思った。

 私の元彼であるクレメント・ボールドウィンは、私と付き合い始める一年前まで何人かの令嬢と浮き名を流してはいたらしい。だから、そんな女性たちから彼が私と付き合うようになってから「貴女なんて、どうせ遊びよ」とか「すぐに捨てられるわ」と、お茶会や夜会ですれ違いざまに意地悪な言葉を言われることは良くあった。

 デビューしてすぐで、気の利いた会話が出来る訳でもなく女性的な魅力に溢れているとは言い難い私が選ばれたのが、彼の事を好きだった彼女たちにはどうしても腹に据えかねたのだと思う。

 そんな風に突っかかってくる人は、一様に大人っぽい綺麗な人が多かった。だから、時々不思議ではあった。クレメントはどちらかというと子どもっぽい容姿の私を見初めた境に好みが変わったのかと思っていたけれど。

 今踊っている女性を見れば、どうやらそういうことではなかったらしい。

「……ディアーヌ嬢。そろそろ」

 無表情が崩れないままのランスロットもくるりと回った時にクレメントの姿を認めたらしく、曲の切れ目にここから早く離れようとそれとなく声を掛けてきた。私は彼の申し出に賛成の意を込めて、小さく頷く。

 好奇心に溢れる視線も、そこら中に数え切れないほどあったから……きっと気を利かせた誰かが彼の耳にも入れてはいるとは思うけれど、実際に私が彼と二人で居るところをクレメントが見れば絶対に良くない事が起きそうな予感しかしない。

 曲の境目にさりげなく彼が私の手を取って、二人でダンスフロアを抜けようとしたところで、あまり聞きたくなかった低い声が聞こえた。きっと、同じような時に私たちに気がついて自分と踊っている相手を置いてでも、こちらに向かってきたんだと思う。

 そういう人だから。

「ディアーヌ。なんで、ライサンダー公爵令嬢が、王太子妃に決まった事を俺に言わなかった?」

 別れる前まで甘い言葉を沢山くれたはずの低い声は、ひどい傷が沢山ついているはずの心には恐れていたより響かなかった。

 その内容が、奈落の底に思える程に最低だったからかもしれない。自分の利になる事には目ざとい、現金な人だとはわかってはいたけれど。

 それでもじくじくと疼く心の痛みを、見て見ぬ振りは出来ない。だって、私はこの人の事が確かに好きだった。

 この大広間は、とても広い。王族でしかも次期王になることが確実な王太子開催の夜会のために、招待客は数多い。逐一気をつけて居れば、避けたい誰かと顔を合わせずに済むほどに。

 会わずに済めば、それが一番良かったんだけれど……もし、クレメントと会ってしまえば、王太子妃となるラウィーニアの事は言われるだろうなと思ってはいた。

「……ボールドウィン様。申し訳ないけれど、ハクスリー伯爵令嬢と呼んで貰えるかしら? だって、私たち。そんなに、親しくはなかったでしょう?」

 私はすぐ傍にあったランスロットの筋肉質な腕を取りながら、言った。クレメントは短気だ。けれど、そこまではバカではないから、周囲に醜態を見せる前に消えてくれればと思ったから。

 クレメントはとてもわかりやすく嫌な表情を浮かべると、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「なんだよ。ついこの前まで、俺の事を好きだ好きだとうるさかった癖に、すぐに次に乗り換えたのか。この俺と付き合っていたのに、クソ真面目なランスロットと話していて楽しいか?」

 自信満々なその表情も、以前は好きだと思っていた。今はもう彼に何を言われたところで、別れの時のひどい言葉が蘇る。決して消えることのない、痛みを伴って。

「ええ。とっても。ランスロット様と話して居れば、いつもお腹抱えて笑っちゃう。せっかく声を掛けてくれて嬉しいんだけど、時間がないから私達もう行くわ」

 そう言って私は何も言わずに寄り添うランスロットと一緒に、ゆっくりと大広間の出口まで出た。人目がなくなったのを確認してから早足で影になっている場所に辿り着いて、大きく息を吐く。

「……我慢を、していたんですか」

 ぽつりとこぼれるような彼の言葉を聞いて、やっと自分が泣いていることに気がついた。頬を伝っていく、生温かな温度。ランスロットは、準備良くまたハンカチを渡してくれた。前に彼が私にそうしてくれたように。

 ひとりでに、ぽろぽろと流れる涙を彼の貸してくれたハンカチで押さえた。みっともない嗚咽をして、泣いてしまう。一目散に逃げてきた壁際の死角になっている部分ではあるんだけれど、ランスロットはさりげなく人通りがあるかもしれない方向から自分の体を盾にした。

 私が泣き止むまで、彼は何も言わずにじっとして待っていた。

「……ごめんなさい」

 見上げれば、ランスロットはいつも通り何を考えているかわからない無表情で私を見下ろしていた。

 ハクスリーの邸まで毅然として去って平気な顔を貫ければ、良かった。けれど、今どうしようもない事だとわかってはいても、心に湧き上がって来る悲しい想いは止めることが出来ない。

 どうして、私ではダメだったの? さっき踊っていた綺麗な人と、何が違うの?

「いえ。それでは、帰りましょうか」

 ランスロットは近くに人が通りかかったのを見て、私を覆うように体を寄せて来た。ただ見えないようにと庇ってくれた事はわかってはいたのだけれど、胸が一度大きく跳ねた。

「あの……でも。ランスロット様は、大丈夫ですか?」

 彼は王太子殿下のお気に入りだと聞いているし、この夜会はその人コンスタンス様が主催者でもある。要するにこれに出席することは彼にとっては仕事だから中座して怒られないものなのだろうかと心配すれば、ランスロットは首を振って言った。

「僕の事は、何も気にしないでください。ディアーヌ嬢のことが何より、大事なので」

◇◆◇

「なんで、その場で付き合いましょうって言わなかったの?」

 先日の夜会であった詳細を人の悪い笑みを浮かべたラウィーニアに説明していると、二人で帰ろうとしたくだりで彼女は口を挟んだ。

「……別れたばかりよ。ラウィーニア」

 聡い彼女だって、私が何を言いたいかは察しているはず。あの二人の関係性の中で、私がランスロットと付き合い出すと言うこと。

「ディアーヌが気にしている事は、この先どれだけ時間を掛けたところで、同じ事でしょう。それなら、すぐに付き合った方が時間に無駄がなくて効率的だわ。出世確実の、美形騎士よ」

 彼らの主君である美形の王太子と婚約しているラウィーニアは、お茶菓子を頬張りつつ肩を竦めた。マナーに沿っているとは言えない仕草も、四六時中周囲に視線のある王宮では決してしないだろう。けれど、気を抜きたい時もあるのか従姉妹の私の前でだけは見せることもある。

 世の女性皆が羨むような美形な王子様の婚約者の立場を勝ち取ったとて、お伽話みたいに二人は幸せに暮らしましたでは終わらない。一日中誰かに試されるような、世知辛い現実は続いていく。

「ランスロットの人となりも、まだわからないのに?」

 眉を寄せている私に、ラウィーニアは不思議そうな顔をした。まるで簡単に解けるはずの問題を前にして頭を悩ませる生徒に対し、何故解けないのと思っている教師のように。

「……わからなかったの? ランスロットは、確かに氷の騎士とは呼ばれてはいるけど……確かに口を出し過ぎたわ。誰と付き合うかは、ディアーヌが選ぶことだもの。別に次に付き合うのが、ランスロットでなければいけないこともないんだから。他の第三の男が居ても私は不思議には思わないけど」

「第三の男……」

 完全に面白がっている表情になったラウィーニアは、ふふっと花が咲いたような笑顔になった。

「冗談よ。もしそうだったら、また困っちゃうかもと思っただけ。羨ましいわ。私は、コンスタンスと幼い頃からずーっと一緒で結婚まで。彼の身分を考えれば、どちらかが死ぬまでは絶対に別れることもないのよ。いろんな人と付き合えば良いでしょう。きっと、それぞれ違った恋になるわ」

「……私は一人だけが、良かった」

 初めての失恋で受けた痛みは、ひどいものだった。幼い頃から好きな人とずっと一緒に居れれば、どんなに良いんだろう。ラウィーニアは私をただ慰めてくれているとわかっていても、切ない思いは消せない。

「その答えが出るのは……きっと、人生が終わる時よ。どこかのバカの事はもう忘れて。次の恋は良い恋にすれば良いでしょう」


第二話 https://note.com/machidori55/n/ne1f55f738793

第三話 https://note.com/machidori55/n/n2a631fb8bb46

第三話 https://note.com/machidori55/n/n01a8f621c55a

第五話 https://note.com/machidori55/n/n1d7f8ef6845c

第六話(完結) https://note.com/machidori55/n/n46fcfb70f72e


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