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破れた恋に、火をつけて。〜元彼とライバルな氷の騎士が「誰よりも、貴女のことを愛している」と傷心の私に付け込んでくる〜 第三話

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

03 失った記憶

 仕事上の事故とは言え、自分の婚約者を庇ったために起こったランスロットの異変を重く見たコンスタンス様は、すぐに城から筆頭魔術師リーズを呼び寄せた。

 関係者なんだから自分も一緒に聞くと私は言い張り、リーズの詳しい説明時にも彼らの傍に居た。私とランスロットの二人の関係を知ってか知らずか、言いづらそうにしている彼の口からこの事態が明らかにされた。

 あの黒いもやもや……ランスロットが受けた呪術の正体は彼の持っている恋愛感情を消して、それに纏わる記憶もすべて消してしまうというものであった。

 自分の事だからこそというか、逆に冷静になって考えられた。

 王太子コンスタンス様に対して効果的な大ダメージを与えたいなら、それは物凄く良い方法なのかもしれない。愛しのラウィーニアをようやく名実共に手に入れたと思っていた彼が、この先長期間大事な政務に手がつかなくなる恐れもあった。

 この方法を思いついた人は、きっととっても頭が良い。そして、とっても性格も悪いんだろうけど。

 そして、結果的に私に対してその効果的な大ダメージが回ってしまった訳だけど。

 立ったままでその事実を聞き、何の言葉も出せずにふらついてしまった私を素早く支えてくれたのは、他でもない隣に居たランスロットだった。

「ありがとう」

 体を支えて手を取ってくれたランスロットの手は当たり前だけど、少しも震えてない。だって、彼は今は私の事を好きではないから。

 思わぬ事でその事実を思い知ることになり目を見開いた私にも、彼は騎士らしく丁寧に紳士的に接しただけだ。

「……いいえ。お気になさらず」

 他人行儀なさらっとした言葉は、私の胸に鋭く突き刺さるようだった。つい先ほどまで感情の見え難い無表情ながらも、彼なりに好意を見せて接してくれていたのに。

 ランスロットは、何も悪くないのは理解してはいる。

 職務遂行中に、ただ一人であの事態を対処して。不意を突かれて、仕掛けられた全てに対応出来なかったのは……仕方ないと思う。あの場に居た私は、痛いくらいにそれを理解していた。

 ただ、ランスロットの中での、私への恋愛感情が消えてしまっただけだ。一国民としては、国を支えるコンスタンス様とラウィーニアの二人に、何もなくて良かったと言える。

 ここからは呪術を受けた本人が居て、詳細を聞かせれば動揺させてしまうだけだという判断で、ランスロット本人は部屋の外に出されることになった。

 コンスタンス様から指示を受け礼儀正しく礼を取り去っていく彼に、私は何の言葉も出なかった。

「あれは、全く攻撃的なものではなかったから……子どもたちが傍に来ても、周囲の護衛たちには検知出来なかったと言うことか……リーズ。なんとかならないのか」

 あの黒いもやもやとした煙……王太子の婚約者を狙う呪いを運んできたと思われる子どもたちは、ご褒美の飴を貰って誰かからの指示通りに私たちの傍を通り抜けただけだと証言したとの事だった。それであの子たちは、あの時に手に棒付き飴を持っていたという事だった。

 厳めしく顔を歪めて王者の風格を持つコンスタンス様の「なんとかしろ」という圧の強い視線に晒され、別に彼が悪い訳でもないんだけど、たっぷりとした黒い生地のローブを身に纏う魔術師リーズはどうしようと困り顔だ。

 チラッと私の救いを求めるような目で見て、同じような視線で見ている事に気がついた彼はより一層頭を抱えた。

「とは言っても……これは、ただの呪術であるとは言えません。東の地ソゼクに伝わるという呪術的な……僕たちの扱う魔法とは、似てはいますが全く形態が全く異なるものです。思いつく限りで、たったひとつ可能性があるとすれば……グラディスの想い人である女性が、東の森に住む魔女の元へ向かうしかないと思います」

「一応は……心当たりはあるが彼女は、貴族令嬢だ。東の森と言えば、強い魔物も棲み危険なことで知られている。何か、他に方法はないのか」

 コンスタンス様は、ちらりと私を一瞥した後にリーズへ他の策を提示するように促した。けれど、困り顔のリーズは首を振るばかりだ。

「いいえ。あの魔女は東の地ソゼクから逃れるようにして、あの森に住んでいます。我が国に住まわせる代わりに、東の地ソゼク秘伝の霊薬などを納めるという契約をしてあの場所に。彼女は人嫌いでも知られていますし……呪術の根幹であるものに最も関わりがある、その女性と……出来れば、筆頭騎士程度の強い護衛一人を。その程度の人数であれば、気難しい魔女も特に警戒せずに、こちらの依頼内容を聞いてくれるかと思います。そこからは、魔女は気まぐれなようなので、聞いてくれるかは運次第ですかね」

「私。行きます」

 ランスロット・グラディスの想い人であるという、良くわからない自覚はあった。一応彼からも、正式に告白はされている。決意を込めた私の言葉を聞いて、コンスタンス様とリーズは何かを伝え合うようにして、お互いに目を合わせた。

 早くしてと言わんばかりに真っ直ぐに彼に視線を向ける私を見て、コンスタンス様は思案するような表情になった。

「それは……呪術を受けた本人が、ランスロットが居なくても大丈夫なのか?」

「ランスロット・グラディスは、感情や記憶を強制的に塗り変えられたばかりです。いくら王宮騎士団の筆頭騎士の一人とは言え、単体での危険な任務に就かせることには僕は反対します」

「だが。どうする。だとすると……」

「殿下にこちらに同行している筆頭騎士のクレメント・ボールドウィンが最も適任かと。それに、彼の炎系の攻撃は森の魔物たち対しては特攻になります。その御令嬢の安全を見るなら、彼が最適でしょうね」

 驚きの事実を、聞いてしまった。まさかのクレメントもここに、来てたんだ。全く見掛けなかったけど。彼自身も仕事とは言え、前にラウィーニアから私の前には決して姿を現すなと言われていたから……そういうことね。

「あいつは……件の令嬢とは、余り良い関係とは言えない。クライトンかヘンドリックは、こちらに呼び寄せられないか」

「他の筆頭騎士三人は、殿下が出発後に急ぎの任務で遠征に出ています。確かに単体での護衛任務には、彼らが最適だと僕も思います。移動魔法で呼び寄せることは可能ですが……」

「あのっ、良いです。クレメント……クレメント・ボールドウィンと行きます。早く……早くランスロットに掛かった呪術を解いてあげたいので」

 話に口を出すなんて失礼であることは、承知で……まだまだ続きそうな二人の問答を遮り、私はそう言った。

 コンスタンス様は複雑そうな表情で、眉を寄せた。私たち三人の間で、これまでに色々あった経緯を彼も詳しくラウィーニアに聞いているからだろう。

「ディアーヌ。あいつは……グラディスはラウィーニアをその身を以て守ってくれた。僕も、出来るだけの事はするつもりではある。だが、本当に君は良いのか」

「王太子殿下。そうして、私をご心配頂いて恐縮ですが。別れた男なんて、女性にとってみれば三ヶ月経てばもう他人です。彼には東の森での護衛の任務だけ果たして頂ければ、私は大丈夫です」

◇◆◇

 私自身が東の森に向かうという話をすれば、ラウィーニアは泣いて心配していた。そんな危険な場所に行くなんてなんとかならないのと言われたけれど、呪術の大元になる私が行かなければならないと説明しても納得はしてくれなかった。反対する彼女を振り切りコンスタンス様が同行している侍従に命じ用意してくれた、森に行くために動きやすい服を身につけた。

 そして、宿屋の階段を降りれば、準備万端の様子で彼が腕組みして待っていた。

「……ディアーヌ。俺は」

「クレメント。私の護衛の任務を、引き受けてくれてありがとう。森の魔物との相性の問題で、貴方が一番に適任であると聞いたから、一緒に来てくれれば本当に助かる。でもあまり、話したくない理由もわかるでしょう? どうか余計な口は、利かないで」

 コンスタンス様から、護衛するように命じられ、用意して私を待っていたんだろうクレメントは複雑そうな表情を見せて頷いた。

「東の森の入り口へは、俺が移動魔法で連れて行く。そこからは……魔物が出て非常に危険だから、俺の指示に従うようにしてください」

 改めて見ると、クレメントの顔は整っている。騎士らしく凛々しく精悍で、魅力的な容姿だ。そして、短い黒髪と赤い目は、この地方では珍しい。一年間、想った人だった。自分を殺して無理してでも、どうにかして一緒に居たかった。

 けれど、そんな魅力的な彼の持つ何もかもに、今はもう何も動かされることはなかった。

 多分、きっと騙されていただけの理由ではなかった。大好きだった元彼なのは、確かだった。失恋した時に受けた衝撃の大きさで、その事は間違いない。

 私は今、もう違う人に想いを寄せているのだと気がついた。

 ランスロットは、人が見ればとても不器用でわかり難いけれど、私の事を好きだと言葉でも態度でも何度だって懸命にまっすぐに伝えてくれていた。

 クレメントには、それがない。魅力的な騎士ではあるけれど、ただそれだけ。

「よろしくお願いします」

 私の彼に向かって差し出した手を、クレメントは何も言わずに大きな手で握った。移動魔法が発動する。全身が何かに吸い込まれるような感覚がして、瞑っていた瞼を開けば、そこはもう鬱蒼とした森の入り口だった。

「ここからは……本当に危険なんで。俺の傍を出来るだけ離れないで。怪我なく生きて帰りたければ」

 脅されるように言われなくても、絶対に生きて帰る。そうして、ランスロットの呪術を解きたい。

 彼と話したい。沢山。今までの何もかも。今まで私が、疑問に感じていた事全部を。

 結論から言うと、私は彼らの職業である王宮騎士団の筆頭騎士という立場を完全に舐めていた。

 この森に棲む魔物たちは、ごく当たり前の事なのかもしれないんだけど木に属している魔物が多いようだった。

 クレメントが何やらぶつぶつと呪文を呟き、次々と放たれる無数の火の玉や激しい炎を纏う剣で繰り出される技は凄まじい。

 リーズが一人での任務は筆頭騎士の彼であればと推薦したのに、コンスタンス様が渋っていた理由は、私と彼の関係性だけだということはよくよく理解した。

 複数の魔物が相手だったとしても、すぐさま対処してしまえるくらいにクレメントの強さは本当に圧倒的だった。特攻だと言っていたし、魔物との相性の問題もあるんだろうけど。

 私たちの目指す魔女の住み処は、森の奥にありその場所へはクレメントの移動魔法では行けない。どうやら魔女が自分の身を守るために、幾重にもこの森に守護魔法を掛けているらしい。

 東の森は鬱蒼とした緑深い森で、狩人くらいしか通らないだろう獣道は整っているとはとても言えない。足場を気をつけていたはずの私が、木の根に足を引っ掛けて転びそうになったところを、近くを歩いていたクレメントは咄嗟に二の腕を持って支えてくれた。

 過去の悪行が頭を掠めどうしても顔を顰めてしまうのは、仕方ないとしても。転んでしまいそうだったのを助けてくれたのは、確かだ。

「……ありがとう」

 とても感じの良い感謝だとは言えないけれど、彼も自分が過去何を仕出かしたかを思えば文句は言えないと思う。

「……悪かったよ」

「謝られても困るから。もう、謝らなくて良いよ」

 大袈裟なくらいにプイッと彼から顔を背けて歩き出した私に続いて歩き、クレメントは苦笑しつつ言った。

「ディアーヌ。お前……前から、そんな性格だったっけ。それだったら、俺もお前とまだ一緒に居たかも。なんで、あんな大人しくて自分の言いたいことも言えなさそうな猫をかぶってたの?」

 クレメントの心底不思議そうな言葉に、怒りで頭が沸騰しそうにはなった。今はもう他人とは言え、そんなこともわからない人だったんだと思うと怒りが湧いてくる。

 私は一回大きく息を吐き、なるべく自分の心を落ち着かせて言った。

「……好きな人には、好かれたかったからに決まっているでしょう。私が、一番良いと思っていた自分を見て欲しかったからよ」

 魔物の多い森の中で周囲を警戒しつつ彼は、私の隣をゆっくりと歩いた。

 ちなみに今は乗馬時のような長いズボンを着て動きやすい格好をしている私は、これでも自分では速く歩いているつもり。どんなに腹を立てても、足の長さはどうしようもない。出来ればすぐに引き離して歩いて行きたいくらいの、やり場のない怒りはあるんだけど。

「……それって、一般的な話? 俺は黙って訳もなく、後で泣かれるくらいなら。なんでも思っていることは、その時に明け透けに伝えてくれる気の強い女の方が好きだけど。あいつ……ランスロットは、どうだろうな」

「それって、どういう意味なの……?」

「そのままの意味。でもあいつ、お前だったら何でも良いんじゃね? 俺と付き合ってた間も、お前が傷つく事を一番に気にしていたみたいだし?」

 多分、クズなクレメントは「ディアーヌが傷つくけど、それで良いのか」みたいな事を言って、真面目なランスロットの事を傷つけて楽しんでいたんだと思う。本当に最低。

 でも、そうか。ランスロットには、どうせ仲の悪いクレメントへの嫌がらせの一環だと思って、最初から素を見せていたかも。口説かれようとしていた場面で頬を摘んでも、彼は笑っていたくらいだし。

「……ありがとうね。クレメント、私と付き合ってくれて」

 なんだか自分の中で、スッと色々なことが整理出来て。何だかすっきりした気持ちで私がそう言うと、クレメントは大袈裟に顔を顰めた。

「……は? 俺がやったこと……わかってるよな? この前に聞かれた通り。お前に声を掛けたのは、ランスロットに嫌がらせしたかったからで……」

「そう。それは、私だってわかってはいるわよ。でも、もしかしたら猫被っている状態の私だと、ランスロットとは上手くいかなかったかもしれない。最初から素のままの自分で居られたから。そういう意味での、感謝。別れた時は、本当に最低な意味のない恋だったと思った。けど、次にランスロットと上手くいくための恋だったのかも」

 クレメントとランスロットは、立場上同じ筆頭騎士だし顔貌そして容姿も双方タイプは違えど、とても整っていると言って差し支えない。

 だから、こう思ったのだ。クレメントが声を掛けずに、ランスロットと付き合っていたとして。私はやはり、彼とどうしても別れたくなくて嫌われたくて。猫を被ってしまったかもしれない。そして、その先は上手くいかなかったかもしれない。

「あー……俺と付き合っていた事が、ランスロットと始まる前の踏み台にされたってこと? はは。大した女だわ」

 クレメントは、面白そうに言った。

 そうだ。彼とだってこんな風に、付き合った頃も本音でぶつかれていたら? ううん。クレメントとの事はもう既に終わったことだし「もしも」を考えるなんて、時間の無駄だ。

「踏み台っていうか……人生に無駄なことなんて、ないんだなって思ってたとこ」

 なんとなく、そう思った。木々が密集している深い森の中では、明るい陽の光は届き難い。茶色い葉っぱに埋もれた足元は見えづらい。でも、しっかりと自分で地面を踏み締めて歩いて行くしかない。

「はは。それはそれは。光栄だわ。俺も……ランスロットの事どうこうなくて、付き合っている間は、ディアーヌのことは可愛かったよ。お前が俺を好きで居てくれたのは、わかってたし? まあ、でも……」

 そこで言葉を止めたクレメントは、何とも言えない顔をした。

 でも私は別れた理由が他に何かあったとしても、別に知りたくはなかった。もしかしたら、別れた直後の私なら知りたがったかもしれない。けれど、あれからもう随分時間が経っていた。

 激しい恋の炎が消えて燻っていた熱も何もかも、綺麗に冷めてしまうくらいには。

「ねえ。クレメントって、なんでランスロットの事をそこまで意識しているの? ランスロットは、それほどクレメントの事をどうこう思ってなかったみたいだけど……あんな酷い事、されたのに」

 言外に私が言わんとした事を察したクレメントは、大きく顔を歪めて息を吐いた。

 きっと彼だって、ランスロットから相手にされていない事はわかっている。

 真面目なランスロットはクレメントと私が付き合い始めて、ひどく傷付けられたというのに。自分の事を置いてでも、私の心配ばかりしていたんだと思う。クレメントがそんなランスロットを嫌う理由が、私にはわからなかった。

「……騎士学校の頃から、あいつの事は気に入らなかった」

「気に入らないって……そんな理由なの?」

 どこか投げやりに放たれた言葉に対して、私は呆れた。騎士学校への入学は十六歳からだ。国民の義務である初等学校の話では、ないもの。

「そんな……誰かにとっては、くだらない理由だよ。虫がすかない。何でも涼しい顔をして簡単にやり遂げる癖に、別に嬉しがる様子もない。そういうのが、ムカついたし嫌だっただけだよ。そんなもんじゃね? 嫌いなやつとか。ディアーヌだって、性格の合わない貴族令嬢の一人や二人居るだろ」

「確かに、居るは居るけど。だからと言って、嫌がらせが過ぎない?」

 その程度の何をされた訳でもない理由で声を掛けようとしていた女の子を事前に知っていたからと、横取りするなんて全く意味がわからない。かつ、その女の子と一年間も付き合っている。私の事だけど。

「嫌いな奴に、どうにかして一泡吹かせたかっただけだよ……まー、別に思った程にはすっきりもしなかったけど? そういう経緯で付き合い始めたディアーヌは確かに可愛かった。でも、お前はもう何言っても信じないかもしれないけど、罪悪感は俺も一応あったし。ランスロットは、お前の心配ばかりしてたよ。嫌味を言えば、大事にしてやってくれってさ……お前、あいつになんかした?」

「……知らない。あんな人と面と向かって話せば、流石に覚えてると思うし。本当に、クレメントって……子どもっぽい。なんでこんな人、好きだったんだろう?」

 私が彼を見上げて口を尖らせると、クレメントは大きな声で笑った。

「あー……そう? 俺はお前と別れてから、やっぱり寂しかったよ。ディアーヌは可愛かったし。惜しい事したなって。一年も付き合ったしなー……俺は復縁しても良いよ。事情を知っても、お前が良いって言えば」

「もう、騙されない」

 苦手な虫を見るような目を彼に向ければ、クレメントはわざとらしく流し目をして肩を竦めた。

「まー……王太子妃が、ライサンダー公爵令嬢に決まったのは、確かに大きいけどさ。ランスロットに飽きたら、いつでもどうぞ」

「絶対に、それはないから。ちょっと……ランスロットを元通りにするのを、邪魔するのだけはやめてよ」

「良いじゃん。俺だって筆頭騎士の一人で、あいつとは同じで。それなりに好きだったろ?」

「最低な中身を知って、すぐに熱は冷めた。今は何とも思ってないから。それにはっきり言うと、私。外見は、ランスロットの方が好みなんだよね」

 私がピシャリとそう言えば、クレメントは胸を押さえて傷ついた演技をした。

「えー……あんなに好き好き言ってたのに、女の心変わりは一瞬だな」

「自分から別れるって言い出したんだし、当然でしょう。もう、騙されないからね」

 二回目の言葉に、クレメントは苦笑して頷いた。

 クレメントと二人で険しい山道を歩きつつ、互いしかいないのに黙っているのも不自然で、逆に彼を意識しているように思えて来た。そして、一度でも話してしまえば、川の堰を切ったように思いつけば話すことがいくらでもあった。

 確かにあまり口外しづらい始まりからだとは言え、私たちは一年ほどの間誰よりも近い距離に居たのだ。共通の話題は、見つけようと思えばいくらでもあった。

 もし、まだ彼を好きなままなら。こうして、一緒に居るのは辛かったかもしれない。けれど、もう私にとっては元彼であるクレメントとの事はすっかりと過去へとなってしまっていた。

 いくら最低な人だとは言え……落ち着いて考えれば、ほんの少しだけど同情できる余地はあった。

 クレメントの心中にある、ランスロットへのひりつくような嫉妬や対抗心は、それを持ち続けている自分こそが一番辛いのかもしれない。

 自分の心の闇を上手く処理できないままで、クレメントは自分にその感情を湧かせるランスロットには何の罪もないとわかりつつも、彼を気に入らないという気持ちを抑えることがどうしても出来ない。

 同じ立場に居るけれど、彼らの性格の違いで戦闘時などの役割なども違ったものになるののだろう。向き不向きは、替え難いし仕方ない。素人の私が見ても、いくら戦闘では強くても我慢強いとはとても言えないクレメントは指揮官には向いていないと思う。

 適材適所だ。彼らの上司だって、そう判断するはずだ。

 そして、これも別にランスロットのせいでもないんだけど。次なる王となる王太子にも気に入られている様子のライバルを見て、クレメントは自分自身も優秀だからこそ、より嫉妬の気持ちを止めることが出来なかったのかもしれない。

 思わず「あいつが嫌だと思う事なら、何でもしてやろう」と、黒い憎しみの気持ちに変わってしまうくらいに。

 そして、こうしてやけに冷静に事の次第を分析出来るのも……何もかも、私はもうクレメントの事が、そういう意味では全く好きではないからだ。

 それは、一緒に歩いている彼も重々にわかっていると思う。自信家の彼には珍しく、時折寂しげな目をすることがあったから。

 それを見て、心の何処かには彼を慰めたい気持ちがあった。この人は紛れもなく、私が前に好きだった人だった。けれど、それは同情でしてはいけないということもわかってはいた。

 何もかも。もう、すべて終わってしまったことだ。

◇◆◇

 ようやく途切れた緑の枝葉を抜けて、私たちは小さな広場のようなところへと辿り着いた。そこに建てられた、いかにも歴史を感じる苔むした石造りの建物を見て、私はすぐ後ろから付いてきていたクレメントを振り返った。

 彼はすぐに私の言いたいことを察して、微妙な表情で口を押さえた。

「あー……これか。なんか予想より……めちゃくちゃ、ボロくね? 不便だし……こんなとこに、良く住んでんな。まあ、それは別に良いか。ディアーヌは俺の後ろに居て、黙っててくれ。挨拶する。殿下から、魔女に渡す書状は預かっているから」

「わかった」

 私が神妙な表情で頷いたので、クレメントは吹き出して笑った。

「あれ? さっきまでの勢い、どこ行った? 絶対に、ランスロットを元に戻したいんだろ?」

 揶揄うような口調で、クレメントは笑った。

 これが、普通の事だったなら。さらっとして、私は言い返せたはずだ。けれど、私はどうしても、ランスロットに元に戻って欲しかった。私の事を愛していると言ってくれた、彼に。

 そのまま。何も言えないままで、唇を噛み締めた。彼を見つめたままの私に、クレメントは記憶違いでなければ、今まで見たこともない切なげな表情になった。

「……そんな顔、すんなよ。ここの魔女は、なんか亡命に近い逃げ方をして、東の地ソゼクを出て来たらしいから……守護を与えている国レジュラスの王太子であるコンスタンス様の、直々の要請には従うだろ」

 苦い顔で眉を寄せたまま、くるりと体の方向を変えてクレメントは先に魔女の家の扉の方向へと歩き出した。私も、慌てて大きな背中を追う。

 どうか、魔女が引き受けてくれますように。空に祈るような、気持ちだった。

 ここに来る間に、ランスロットのことを考える時間はいくらでもあった。だから、私はあまり気が付きたくない事実に、今更だけど気がついてしまっていた。

 もし、ラウィーニアがコンスタンス様への恋する気持ちをなくして仕舞えば、我が国の王太子の精神状態はガタガタになるはずだった。その間、政務は滞り国は回らない。政敵や敵国は喜び庭駆け回り、沢山の人が困る代わりに沢山の喜ぶ人が居るはずだ。

 国の一大事と言って、差し支えない。

 けれど、今現在。筆頭騎士の一人、ランスロットが私への恋する気持ちを失っている状態なのが、耐え難いと思っているのは……多分私一人だけだ。ランスロット本人は、そもそも私の事を気持ちを含めすべて忘れてしまっているので、彼が次の恋をすれば全て解決してしまう。

 ここで魔女が引き受けてくれなかったら……ただただ、私一人が泣くしかないという、とても悲しい状況だった。

 先を行ったクレメントは、ドンドンと大きな音をさせて扉を叩いた。中から迷惑そうな声が響き、私たちは息を詰めて彼女の登場を待った。

「はいはい聞こえてるよ……なんだい。あら。良い男」

 私の思い込みで魔女というからには、歳を重ねていると思っていた。けれど、クレメントの姿を一目見た途端に目の色を変えた女性は若く、簡単に言うととても綺麗な人だった。焦茶色の緩く巻いた髪に、同色の瞳。整っている顔の造作は、陶磁器で出来ている人形を思わせた。

「突然の訪問を、失礼します。私は、レジュラスの王宮騎士団の筆頭騎士クレメント・ボールドウィン。同僚の一人が、東の地ソゼクに伝わるという呪術を掛けられて居ます。こちらが、我が国の王太子からの助力を願う書状です」

 俺様クレメントが、真面目な顔して仕事している。

 何だか、私は背中がむず痒い気持ちになった。いや、もちろん彼だって時と場合を考えて口調を変えるだろうし、仕事中は真面目なんだろうけど、私たち二人は、お互いに私的な時間を過ごす事が多かったから。

「ご丁寧にどうも……私はグウィネス。おや。こちらのお嬢さんは?」

 クレメントから白い手紙を受け取りつつ、魔女のグウィネスは、彼のすぐ後ろに居た私に気がつき不思議そうな顔をした。黙ってお辞儀をした私に、会釈を返す。

「……それも、手紙に。王太子殿下は自分の婚約者を庇っての事故なので、成功報酬もある程度は保証すると」

 グウィネスはそれを聞いて、急いで手紙の封を開け、手紙に目を走らせていた。何故かクレメントが、そんな様子を前に私に軽く目配せをした。

「なるほどねー……この呪術は、確かに東の地ソゼクのもので間違いない。古いもので、使える術者も少ないはずだ。レジュラスの王太子の婚約者に掛けようとは、考えたもんだね。攻撃系のものではないから、ある程度の検知式の魔術も、すり抜ける事が可能……でも、二度目はない。それがわかっているからこその、手口。それも、媒介にいたいけな子どもを使うとは、ひどい畜生も居たもんだ」

 多分リーズからの詳しい経緯の説明とコンスタンス様からの直々の要請が書かれた手紙を読み終え、グウィネスは眉を寄せ、難しい表情になった。

「解くことは、可能ですか」

 クレメントは彼女に静かに聞いた。グウィネスは、それを聞いて眉を寄せた。

「……可能では、あるよ。あんたんとこの魔術師が、有能で助かったよ。この子を忘れていて、それを思い出させるんだから、呪術を解く薬を作るには彼女がどうしても必要だったからね。この森を抜けるくらいの、気概のある根性のある女の子で助かったよ。私は、これから薬を作る下準備を整えているから……あんた達に、頼みたい事がある。この近くにある沼の中に生える薬草が要るんだよ。しかも、採れたての新鮮なのが」

「……行くわ!」

 思わず大きな声を出してしまった私に驚いて、二人は目を見開いて驚いていた。気合いを入れたことが恥ずかしくて顔を俯けると、グウィネスは微笑ましそうにして笑った。

「そんなに、とても好きなんだねぇ。こっちのボールドウィンさんも割と良い男だけど、そっちが良いのかい?」

「こちらは、元彼なんです。そっちが良いです」

 グウィネスは私の答えを聞いて、驚きにやにやとした笑みを浮かべた。彼女の中で何かが、俄然盛り上がったようだった。

「はー……こちらが、元彼かい。そんで、お嬢さんの事を忘れてしまった男の方が……良いと……」

「その……沼の場所を教えて貰って良いですか。早く取りに行きたいんで」

 クレメントは呆れた顔をして、何処か違う世界に行ってしまっているグウィネスに冷静に尋ねた。

 私もそれを、早く知りたかった。何なら、取るものもとりあえず、今すぐ走って行きたいくらいだから。

 誰もが沼という言葉を聞けば、この光景を想像するような、いかにも沼らしい大きな沼を前にして、私とクレメントの二人は佇んでいた。

 真ん中辺りに小さく浮き島となっている部分があるんだけど、グウィネスの話では必要としている薬草はあの場所に繁殖しているらしい。辿り着くにはねっとりとして見える黒い泥に足を埋もれさせながら、沼の中を歩いて進むしかない。

「……俺が、一人であそこまで取りに行ってくるから。ディアーヌは、ここに居てくれ」

 騎士道に則り、クレメントはそう申し出てくれた。王都育ちの私は、こんな何が居るかも見ることの出来ない沼を見るのは、これが産まれて初めてだ。完全に尻込みして居たのも、確かだ。

 こくんと一度大きく頷いたのを確認し、クレメントは短い外套を脱ぎ、それを何故か私へと渡した。

 無言で押されるように渡されたので、それを両手で受け取る。もう恋人でもないのになんでという目でクレメントを見上げると、彼は面白くなさそうな嫌な顔をしている。

「何?」

「なんでもない」

 クレメントが仏頂面をしてこの言葉を言うときは、大概は何かあるんだけど。もう彼の恋人でもない私には、それを追求する理由も特には見当たらない。

 彼の暗黙のご指示通りに、黙ることにする。

 どろりとした黒い泥の中に、彼は頓着なく足を一歩踏み入れた。そして躊躇うこともなく、どんどんと先へと進む。

 とても歩きにくそうだと思うくらい膝辺りまで泥に浸かっても、クレメントは特に歩く速度を変えなかった。それを見て、なんだか自分でも表現しがたい気持ちにはなった。

 私には、とてもあれは出来ないと思う。

 全く中の状態を見ることの出来ない泥の中には、一体何が潜んでいるのかとか。そんな余計な事を考えて、それが無意味なことだと解りつつも、恐る恐るジリジリと進むことになると思う。

 でも、我が事でなく冷静に状況を見て考えてみれば、彼のようにスタスタと迷いなく進むのが一番良いように思う。だって、何があったとしても歩みを止めずに進むしかないなら、一番の最短距離を躊躇いなく進むのが、絶対に時間は掛からない。

 けれど、それがわかっていても、実行出来るかはもちろん別で。

 クレメントの余り考えない性格が功を奏しているのか、厳しい騎士の訓練の賜物なのかはわからないけどとにかく尊敬する。

 とにかく、これで私たちの目的は果たされそうだとほっと安心して息をつく。

 でも、事はそうそう簡単に上手くいくはずもなかった。

 いきなり大きな蛇のような魔物が何匹も沼の中から現れて、クレメントの前に立ちはだかった。彼はそれが泥の中から現れても動揺を見せることもなく、これまで森を抜けて来た時に魔物が現れた時のようにするっと剣を抜いた。

 そして、素早く魔法を使い無数の炎球を複数の蛇相手に放ち始めた。

 そこまでは、良かった。

 クレメントが魔物相手に戦闘する時に先手を取り攻撃を開始するのは、見ているだけの私だってこれまで幾度も目にしてきた。

 でも、私たちが目的としていた浮き島の上に偶然火球がひとつ落ちて、消えることなく燻っている。

「ふえっ……」

 すぐにでも起こりそうな悲劇が頭を掠め、沼のほとりに立っていた私は、思わず素っ頓狂な間抜けな声を出してしまった。

 戦闘中のクレメントは、目の前の複数の魔物に集中しているせいか。先ほど自分の放った火球が、私たちが目的としている薬草がある浮き島に落ちたことになど全く気がついていない。

 一瞬だけ、考えた。大声を出して、彼に知らせて何とかしてもらう? ううん。複数相手に一人で戦っている彼に、そんな事をすれば……もしかしたら、大変なことを引き起こしてしまうかも。

 これはまずいと思った時には、もう私は自分自身がさっき「とても入るのは無理そう」と思っていた沼へと勢い良く入り、落ちた火球が未だ燻り細く白い煙も出だした浮き島へと遅い歩みながらも必死で進んでいた。

 クレメントが膝辺りまで埋まっているということは、私は腿半分まで埋まる。彼だってこんな理由でそう褒められても微妙だろうけど、長い足を持っているのは本当に羨ましい。

「っ……ディアーヌ!? なんで、お前こんなところに! 危険だから、早く出ろよ!!」

 戦闘中に沼に入った私に気がついて。驚きの大きな声をあげたクレメントは、完全に無視だ。私はもう、ランスロットを治すのに必要だという薬草が火に焼けてしまわないかと……それだけが心配で。

 重たい泥に埋もれ、掻き分け。ゆっくりと進んだ先で、私はグウィネスに言われていた通りの目立つ紫色の薬草を見つけた。ほっと息をついて、燃えてしまうことはなさそうだけど、近くにある火種だけは消しておこうと私は振り返った。

 顔のすぐ間近にあった、大きな蛇の顔は凶悪だった。

 瞬間、大きな声を出したかもしれない。わからない。

 でも、私が咄嗟に何かをする前に、その首は緑の血飛沫をあげて飛んでいった。空に高さを持って飛んだ首をぽかんとして見上げる私に、クレメントは大きな声で怒鳴った。

「ディアーヌ! お前。今、死ぬところだったんだぞ!! なんで、こんなところに来たんだよ!!」

 私は彼の大声を聞いて、驚いて目を見開いた。クレメントは付き合っている時、小さな喧嘩になったとしても、こんな風にして怒鳴ることなんて……彼はしなかったから。

 ぽろりと涙が溢れたのは、単なる不可抗力だ。

 別に彼に怒鳴られた事自体が悲しかった訳ではなくて、薬草が無事でほっとして……あと凶悪な蛇の顔には、本当に驚いたから。

 でも、それを見ていたクレメントはそう思わなかったのかもしれない。私を付き合った時のように、ぎゅうっと抱き締めた。その行為に対する余りの驚きに、それをすぐさま拒否することが出来なかったのは仕方ない。どうか、許して欲しい。

 元彼クレメントの匂いは、当たり前のことだけどそれに慣れ親しんでいた頃のそのままだった。

「ディアーヌ……ごめん」

「……はなして」

「ごめん……俺が使った火が落ちて、危険を承知で消しに来たんだな」

 その言葉を聞いて、クレメントも私がそうしようとした状況を把握したんだと知れた。だからって、この体勢はおかしいと思う。

 私たち、関係上はもう他人だし。なんなら、目的を果たして、早く帰ってランスロットに会いたい。

「そうだけど……もう、良いから。離して。色々と連続したから、驚いただけなの」

 間近に迫ったクレメントの顔は、物言いたげだ。整った凛々しい顔立ち。それが好きで好きで、堪らなかったこともあった。今はもう、何もかもが過去の話だけど。

「な……やっぱり」

「嫌。言ったでしょう。もう、騙されないって」

 私が腕をつっぱらせて強めにそう言い切ると、彼は眉根を寄せて大きく息をついた。

「……悪かった」

 それは、熱くなりやすい彼なりに、色んな意味を含んでいた謝罪なのかもしれないとは思った。

 もし、それが気になるなら、追求する事は容易いだろう。彼が何か言いたそうなのは、良く分かった。でも、私はそれに気がつかない振りをした。

 だって。私たち、もう別れているから。他人だし。

◇◆◇

「はー……えらい格好になったね」

 扉を開けたグウィネスは、泥だらけになっている私とクレメントを見て苦笑した。彼女はクレメントに無言で渡された紫色の薬草を、矯めつ眇めつ。私は訳もなく、落ち着かない気分にはなった。

 それで良いのか悪いのか、どうなのか。早く、結論を教えて欲しい。

「どう……ですか?」

 気の短いクレメントが、私の疑問をグウィネスに聞いてくれた。咄嗟に敬語が出てこなかったのも、彼らしいと言えば彼らしい。

「良いね。採れ立てで新鮮だし。今から薬を調合する用意するから、二人とも風呂に入って着替えでもしていたらどうだい。一応ボールドウィンさんには、着替えを用意していたんだが。そちらの女の子にも必要になるとは、思わなかったねぇ」

「ご迷惑をおかけして、すみません」

 私がぺこりと頭を下げると、グウィネスは微妙な表情になった。

「……この国の上流階級のご令嬢は、皆こんな感じなのかい? 調子が狂うねぇ」

「ディアーヌは……彼女は貴賤結婚の縁戚を持つので、身分に関しては普通の令嬢のように余り気にしません」

 クレメントは私の事情を、サラッとグウィネスに説明した。確かに私の父の弟で大好きなエリック叔父様は、大恋愛の末に貴族の身分を持ちつつ平民の叔母様と結婚した。優しくて美しくて、私は良く懐いている。

 エリック叔父様は複数の爵位を持っていたお祖父様の跡を継ぎ、現在はハクスリー男爵でもある。

 そうした意味で、私は余り血統主義に拘りを持ってはいないのかもしれない。

「はー……流石は、元彼だねぇ。彼女の詳しい事情に、精通していること。育ちの良いお嬢さん。余り綺麗な浴室とは言えないが、身体中そうして黒い泥で汚れているよりマシだろう。すぐにお風呂に入っておいで」

 いかにも私達二人の事情を面白がっていた様子のグウィネスはそう言って、私を物が溢れる家の中へと案内してくれた。

 これは彼女に知られれば失礼になるかもしれないけど、あまりにも沢山の物に溢れている魔女グウィネスの家の奥にあった小さな浴室は、私が想像していたより綺麗で清潔でほっと一安心した。

 来るまでに通り抜けてきた廊下などには、数えきれないくらいの古い書籍や良くわからない箱に入ったものなどが山積みされていて、本当に足の踏み場もないくらいだったから。どんな事になっているんだろうと不安を感じてしまったから。

 ここに案内をしてくれた後に、もう一度出て行ってすとんとした白いワンピースを貸してくれたグウィネスは、ぽつんと一人脱衣所で彼女を待っていた私に揶揄うようにして言った。

「……なんで、ボールドウィンさんと別れたんだい?」

「とても、個人的な事情なので」

 出来るだけ、素っ気なくそう言った。

 もうこれ以上、私たち二人の関係に深入りして欲しくないという強い気持ちを楽しげな様子の彼女に察して欲しくて。

 でも、好奇心に目を輝かせたグウィネスには、それは無理な事のようだった。

「向こうは、もう……未練たらたらって、様子だったけど?」

「別れを告げたのは、あの彼自身です。自由な恋愛は、二人の同意によるものだと思いますし、私は彼の意志を尊重します」

 そろそろ出て行って欲しい事を示すように泥に塗れた白いシャツのボタンを外しつつ肩を竦めると、複雑な表情になったグウィネスはどうしてだか残念そうに言った。

「私も好き同士だけど、何かの事情で別れなければならない二人はよく見て来たけどね。だって、二人はまだ……」

「あのっ……もう、出て行って貰って良いですか? 早く泥を流したいので」

 ここはグウィネスの家だからと、ある程度の我慢をしていたけれど、もうこちらは限界だと眉を寄せた私はそう言った。

 誰にも詳しい事情を話したくもないような、最低な恋の終わりだったのに。これ以上、関係のない誰かにどうこう言われることが耐え難かった。

「ああ。すまないね……悪かったよ。私も、東の地ソゼクを出る時は色々とあってね。それにしても……お節介が過ぎたね。ごめんね」

 切ない表情ですまなさそうに微笑んで、グウィネスは脱衣所をゆっくりと出て行った。もしかしたら、こんな辺鄙な地に一人で住まなければならない辛い事情を思い出させてしまったのかもしれない。

 でも……だからと言って、自分自身の叶わなかった恋と私達を重ねられても困る。

 最低な理由の始まりとひどい終わりだったと知れた後は、私とクレメントの甘かったはずの恋の記憶は、思い出すのも嫌なくらいに苦いものに成り果てた。

 黒い泥に塗れた身体を綺麗にして身体を拭き、私は簡単な作りの白いワンピースを着た。そうしている時に、トントンと扉を軽く叩く音がした。

「はい?」

「……悪い。まだだったか」

 扉の向こうに居るクレメントの、聞き慣れた低い声だ。私が浴室を使っていた間も、彼は泥塗れのままで待機していたんだった。慌てて長い髪を拭いていた布を置き、扉を開けた。

「ごめんなさい。遅くなって」

 背の高い彼は、なぜか難しい表情で目の前に居る私の顔を覗き込むようにした。

「……何?」

 彼の妙な動きを訝しむような私に、クレメントは淡々とした口調で言った。

「いいや。付き合っている間に、一回くらいヤっときゃ良かったって思っただけ」

 クレメントの真剣な赤い目は、彼の思いもよらなかった言葉を聞いて口をポカンと間抜けに開けたままの私を、まじまじと見つめている。

 私だって一応は貴族令嬢の端くれなので、初夜までは純潔な事が必須事項だ。だから、彼とはそういう意味で夜を過ごした事はなかった。元彼と言えど、キス止まりのとても健全なお付き合い。

「もうっ……本当に最低っ」

 私が両手をぎゅっと握りしめて睨みつけると、彼はフンと鼻を軽く鳴らして肩を竦めた。

「お前の言う通り……確かに、俺は最低だよ。だが。ランスロットだって、そうだと思わないか? お前を傷つけたくないからと、よくわからない理由でずっと俺の事を黙ったままでいたんだ。どうせ近い未来には、傷つく事になるんだ。それならお前にちゃんと話すべきだったと、そう思わないか?」

「それは! 私が、クレメントの事を好きに……なってて。だから……」

「そうだろうな。俺だって、王宮騎士団の筆頭騎士の一人で女に嫌われる風体でもない。デビュー直後の、無知で純情な令嬢を誑かすくらい訳もないよな。だが、あいつはそれを知っていて、一年も黙っていたんだ。惚れた女が騙された事を知っているのに、それなのに何も言わなかったんだ。俺のした事が罪なら、あいつだって立派な罪に当たるとは、思わないか? あいつは、お前を傷つけたくないんじゃなくて……」

 自分のしたことを棚に上げて、ランスロットを悪者にしようとしてる? 今更、一体何が言いたいのかわからなかった。そんな事、当事者である私が一番思っていて。自分で落とし所を見つけている話だと言うのに。

「もう。それで……気は済んでくれた? 私を遊び道具にしていたのは、貴方でしょう? ランスロットが怖かった気持ちが、私にはわかる。私だって、好きな人には好かれたくて……嫌われたくなくて。怖くて! 本当の自分を、押し殺していたの。バカみたいに言いたいことも、言えなくて。クレメントにつまらない女だと思われていたのは、もう知ってる。けど、あの時の私にはそうするしかないって思ってて……もう貴方を好きじゃない今なら。バカな事をしたってわかってるけど、好きだからこそ出来ないことがあるのを知っているの。だから、私は……ランスロットを決して責めないわ」

「ディアーヌ……」

「良いから。そこを退いて。ここを、出ていくから……貴方も、早く泥を落とした方が良いと思うわ。クレメント・ボールドウィン。ついでに、水でも被って頭でも冷やしたら? だって、私たち。別れているのよ。その後で誰を好きになったり付き合ったりするのは、私の自由なんだから。貴方はもう二度と、口出しをしないで」

「……悪かった」

 掠れた声でクレメントは呟き、ようやく扉の前から身体を動かした。私はもう、彼の事を見なかった。

 クレメントは、あの庭園であっさりと私に別れを告げ去って行ってしまった。あの時のみじめな気持ちを思い出す度に、どうしようもない切ない気持ちにはなる。

 たった一人に別れを告げられただけだと言うのに、まるで世界から味方がいなくなってしまうような……ぽっかりと胸に大きな黒い穴が空いているような気持ちを、彼は……一度でも味わったことがあるのだろうか。

◇◆◇

 そして身綺麗にした私たち二人が重い沈黙を守り、物で溢れている居間に座って待つこと数時間。グウィネスから渡された薬は、小さな小瓶に入っていた。それはとても美味しくなさそうな、毒々しい暗い紫色をしている。

「あの……私が来た理由って……」

 文字通り、ここに来ただけの気がするけどと首を傾げれば、グウィネスは苦笑した。

「ああ。お嬢さんを知っていることが、この薬を作る術者……つまり、私に必要だっただけだから。よかったね。早く飲ませてやんな。この森で移動魔法を使えないのは、私が術をかけているからでね。入り口までは、私が魔法で送ろう。それからは、騎士さんの魔法でいけるだろう?」

 グウィネスの言葉に、椅子から立ち上がっていたクレメントは無言で頷いた。どうやら、私たちは大変な思いをして抜けてきた森の復路を辿らなくて良くなりそう。

「ありがとうございます」

「私は、王太子様に頼まれた仕事をしただけだからね……お嬢さんも、悔いのない決断をするんだよ」

 こんな深い森に孤独に暮らす、美しい魔女。それは、色々と入り組んだ事情があるとは私にも察する事が出来る。グウィネスは、しっかりと握手をしてくれた。そして、すぐに吸い込まれるような感覚がして、私は森の入り口に立っていた。

 一瞬の内に変わった視界に慣れようと目を何回か瞬いている間に、すぐに移動して来たクレメントが隣に立った。

「……手を」

 私は差し出された大きな手を躊躇う事なく掴み、ほっと大きく息をついた。

 これで、私の気持ちや何もかもを失くしてしまっていたランスロットを、元に戻すことが出来ると安心したから。

 身体に再度どこかに吸い込まれた感覚がした後、クレメントが差し出した手を持ち一瞬で森の入り口に行く前に居た宿屋の受付などがある一階に立っていた。

 魔力の持つ人が使用することの出来る移動魔法は便利ではあるものの、自分以外の誰かの所有物だと、こういった公共の場所にしか移動が出来ないという制約などが課せられている。

 素早くパッと手を離した私に、彼は眉を寄せ不機嫌な表情にはなった。自分は要らないからと捨ててしまった玩具が人の手に渡ることになり、それを惜しがる様子を見せる幼い子どものように手放したはずの私のことも、惜しくなってしまったのだろうか。

 思い返せば彼と付き合っていた頃の私は、クレメントのして欲しそうな事を常に探っていたような気がする。つまらない女だったと、評されてしまう訳だ。

 自分の事が大好きで常に嫌われたくないと振る舞っている事が丸わかりの恋人なんて、クレメントのような人間が出来ているとは言い難い自分勝手なところのある人に軽く扱われてしまっても仕方がない。

 何を言ってもしても嫌われないのなら、態度もだんだんと尊大になっていくだろう。これが許されるのならと、彼の態度は次第に悪化していったことも、確かに自然の摂理ではある。そうして、彼の心の中で紙よりも軽くなってしまった私の存在価値。

 でも、それは決してクレメント一人だけが、悪い訳ではない。私だって、嫌われることを恐れてばかりでなく、きちんと自分の意志を彼に伝えるべきだった。

 だから、彼とした初恋は最初から終わるべきものだった。私は若くて、恋愛の何たるかもまったく知らなくて。

「……危険な場所に一緒に行ってくれて、ありがとう。それに、命も助けて貰って本当に感謝をしています」

 お礼を言って背の高い彼を見上げると、クレメントは変な表情にはなっていた。何度も助けて貰った私としては、特に何かおかしな事を言ったつもりはない。危険な場所に同行して貰った護衛対象者からの、彼への心ばかりの感謝。

「いや。あれは俺にとっては仕事だから……礼は別に言わなくて良い。薬が手に入って良かったな。早くランスロットのところに、行ってやれよ」

「うん」

 微笑んだ私がくるりと身を翻し、客室がある二階へとすぐ傍にある階段を登ろうとした。でも、出来なかった。すぐ後ろに居た彼に、手首をいきなり掴まれたから。

「……クレメント?」

「ディアーヌ……」

 驚いた私が振り向き、彼が真剣な顔で言葉を続けようとしたところで、ラウィーニアの鋭い声がその場に響いた。

「クレメント・ボールドウィン! 何を、しているの」

 私が今にも駆け上がろうとしていた階段の踊り場に姿を見せたラウィーニアは、私たち二人の様子を見て、美しい曲線を描く眉が不機嫌そうに寄っている。

 クレメントは大きく息をつき、私をそっと離した。

「申し訳ありません」

「もう、貴方の仕事は終えたんでしょう? 私が前に言った言葉は、覚えているわね?」

 こうしてラウィーニアが強い圧を持って人に命じているところを、初めて見た。いつも、彼女は優しく穏やかで上品な表情しか私には見せていなかったから。

「……仰せの通りに。ライサンダー公爵令嬢」

 そう言って苦い表情を崩さないままのクレメントは、膝をつき騎士の礼をした後で去って行ってしまった。

「ラウィーニア……あの」

 私は、さっきの自分たちの状況をどうラウィーニアに説明したものかと迷った。でも、聡明な彼女は、私たち二人の空気で全てを察しているようだった。

「あんなに、酷い事をされたのに……ちょっと話したからと言って絆されては、駄目でしょう?」

 真剣な表情のラウィーニアが何を言わんとしているのかは、わかる。でも、こんな事態になった不幸中の幸いというか。

 クレメントとあんな理由で声を掛けられ付き合っていた事が、彼と再度話すことによって、私の散らかっていた心中で最後の整理をつけることが出来た。

「それは……理解してはいるわ。でも、もう一度きちんと二人で話して。彼だけが一方的に悪い訳ではなくて、私にも悪いところがあったって冷静に考えて理解出来たわ。始まりの理由は確かに酷くて最低だったけど、あれだけ近くに居たんだから、私の良さをわかって貰うことだって、出来たはずよ。でも、それは出来なかった。ただただクレメントの事を好きなだけだった。とは、言っても……侮られて軽く見られたら、それで関係は終わってしまう。恋愛って、どちらかが悪いなんてないと思った。騙していた彼と、ヒントはそこら中にあったのにそれに気がつかなかった私。そうして学べたものがあっただけ、良かったわ。次の恋は、絶対に失敗したくないもの」

 微笑みつつすっきりとした表情をして肩を竦めたので、厳しい顔になっていたラウィーニアはようやく肩の力を抜いてくれたようだった。

「危険な場所に行くのに、適任で仕方がないとは言え、心配していたけど……自分も成長、出来たってことね。でも、復縁なんてダメよ。さっき、向こうが泣きついて未練がましく言って来そうだったわ」

「絶対にないわよ。それに、私。もう既に、妙な事を言い出したクレメントに向かって言ってやったの。ランスロットの方が、外見は好みだって」

 そう言うと、ラウィーニアは思わずという様子で吹き出して笑ってしまったので、周囲の人目を気にしてから、居住まいを正し澄まし顔で尋ねて来た。

「それ、最高ね。向こうは、なんだって?」

「女の心変わりは一瞬だなって、嘆く振りをしていたわ」

「当たり前でしょう。一度自分を振った男なんて、こちらから願い下げで用無しよ。人生の時間は、有限なのよ。出来る限り、有効に使わなきゃね」

 にっこりと笑ったラウィーニアに私は同意して頷き、さっき慌てて階段を駆けあがろうとしていた理由を思い出した。

「ラウィーニア! そうよ。この薬を飲ませなきゃいけなくて……ランスロットは、何処にいるの?」

 あんな魔物に接近して死ぬ思いまでして取りに言った薬の小瓶を彼女に見せると、いかにも美味しくなさそうな色を見て微妙な顔になった。気持ちは、とてもわかる。

「ランスロットなら、自室で待機をしているはずよ。彼の部屋は、三階の私たちの使っている右隣だから」

 王太子の警護に来ている訳なので、仕事がしやすいようにランスロットの部屋は隣なんだと納得してから私は階段を慌てて駆け上った。

◇◆◇

 ラウィーニアに聞いた通りの部屋の扉を叩けば、それはすぐに開いた。

 リーズの話の通りに私の事も、綺麗さっぱり忘れてしまっているんだろう。ランスロットは、不思議そうな顔をして私に尋ねた。

「……何か?」

「何も言わずに、これを飲んで欲しいの」

 無表情を崩さない彼は私が渡した紫色の小瓶の中を見て、動揺が走ったのを感じた。私が一目見てもとっても怪しそうなので、気持ちはわかる。

「これは?」

「貴方も……コンスタンス様とリーズの話を聞いていたでしょう? これを飲めば、すぐに全て理解出来るから。早く」

 ランスロットも、自分が何かおかしい事には気がついているのか。どうなのか。私の早口を聞いてから、彼は意を決したようにそれを飲み干した。

 カランと小瓶の落ちる音が為て、彼の身体から出て来た黒い霧がぶわりと一瞬彼を取り巻き、それはすぐに宙へと立ち消えた。

 ランスロットは、我に返ったのか透き通る水色の目を瞬かせた。

「ディアーヌ嬢?」

「そう。思い出したんだ……良かった。記憶って、何処まであるの? 私の事、わかる?」

 私の矢継ぎ早の質問に対しても、無表情を崩さないランスロットは顎に手を当てて数秒考えるように黙り込んだ。

「わかります……記憶も、今は全てあります。殿下とリーズと話していたのも覚えています……ディアーヌ嬢。その格好は?」

 ランスロットは、私が着用しているグウィネスから借りた白いワンピースを見て、不思議そうにしている。彼の疑問は、もっともだ。財政に問題のある訳でもない貴族令嬢の私が、お忍びでもない限り、こんな庶民のようなワンピースを着ていることはあり得ない。

 彼の疑問は、当たり前の事だった。

「魔女に、その薬を作ってもらうためには……ランスロット様に、私を思い出して貰わないといけないから、東の森にまで行って来て……」

「貴女が、東の森に……? ですが、あの場所は危険な魔物が居て……もしかして、クレメントですか」

 ランスロットが口にしようとした疑問は、すぐに自己解決したようだった。

「そうです……彼が、一番の適任だからと……きゃっ」

 諸々の経緯を説明しようとした私は、その後すぐに彼に手を引かれてその腕の中に閉じ込められていた。

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