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破れた恋に、火をつけて。〜元彼とライバルな氷の騎士が「誰よりも、貴女のことを愛している」と傷心の私に付け込んでくる〜 第四話

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

04 想い通じ合う

 いきなりぎゅうっと抱きしめられた力は強く、ランスロットの温もりの中にはどこか柑橘のような匂いも混ざっていた。香水と思うには足りないし、彼が昨夜使った石鹸の匂いなのかもしれない。

「あっ、あのっ……」

 自らの腕の中にある、戸惑っている私の顔を見下ろす顔は無表情だ。けど、なんだか怒っているような気もする。こうしてとっても間近で、まじまじと見ないとわからない程の気配だけど。

「すみません……勝手に」

「そうではなくて……あの、扉が開いてて……」

 先程強い力で引き寄せられた私が立っていたのは、誰でも通ることの出来る廊下だった。今は彼の部屋の中とは言え、私が入ってきた扉は開きっぱなし。偶然に通りがかった誰かが、通りすがりに見ることも容易に可能だと思う。

「気になるのは……扉で。僕が勝手に、貴女を抱きしめたことではなく?」

 ランスロットは、私が気にしていることに対し不思議そうだった。むしろ不思議そうなのが、不思議だった。

 彼のような素敵な男性に好かれて、こうして抱きしめられるような展開は、乙女と自称する全員が望んでいると言っても過言ではないかもしれない。もちろん、個人の好みはあることは理解しているので異論は認める。

「そうです。扉です。あの……とりあえず、閉めて貰って良いですか?」

 私はその見た目よりも太い筋肉質な彼の腕に取り巻かれていて、自分で勝手に動くことは出来ない。ということは、今大きく開いている扉を閉めることが出来ない。

 ランスロットは一瞬だけ迷った様子を見せた後に、とりあえず腕から解放してくれ、扉を後ろ手に閉めた。

 私は部屋の中に立ち尽くし、扉を背にしたままのランスロットは動かない。

 無表情が標準の彼に慣れているとはまだ言い難い私には、その表情は読みにくい。何を伝えたいのかわからなくて、二人無言のまま。

「……僕を、元通りにするために……貴女がクレメント・ボールドウィンと、東の森に? 確かに彼の火は森の魔物には、特攻で適任ではありますね。二人の他にも誰か、居たんですか」

 ランスロットの口調は、感情は乗らずに淡々としている。彼に事情聴取されている側の私は、この先の展開を想像してドキドキしている。

「いいえ。魔女は気難しいから、出来るだけ少人数の方が良いと言われて……でも、会ってみたらすごく話しやすい良い人で……」

「何か。クレメント・ボールドウィンから、言われましたか?」

 ずっと紳士的な態度を崩さなかったランスロットらしくなく、魔女グウィネスのことを説明しようとしていた私の言葉を遮り、そう言った。彼らしいとは言っても、私はまだ彼のことを全然知らないんだけど。

 でも、知らないなら。これから、知っていけば良い訳で。

「貴方に……嘘を吐きたくないので、言いますけど。クレメントが、何か言いたそうにしていた時はあったんですけど」

 説明しようとする言葉がどんどん小さく尻すぼみになっていったのは、仕方ない事だと思う。

 ランスロットがこちらへとゆっくり歩みを進めて、近付いて来たからだ。そして、言葉を止めた瞬間には、彼の顔は私のすぐ前にあった。

「それで……どうしたんですか」

 続きを促すように言ったランスロットに、私は吃りつつ言った。

「もっ……もう、騙されないって、言いました。あと……私はクレメントより、ランスロット様の方が好みだからって」

 顔を熱くした私が、それを言った時。間近にあるランスロットの顔は、呆気に取られたように見えた。わかりにくいけど、すごくわかりにくいけど。気がするって程度だけど。

「ありがとうございます」

「……いいえ。ただの事実なので。あの……」

 彼の顔が近過ぎるという事実も言おうか言わまいか、迷った。とっても眼福な光景ではあるんだけど、不都合はないとは言えない。鼓動が速くなりすぎて、心臓が壊れそうで。

「ディアーヌ嬢。僕は貴女を愛しているんですが、その想いに応えては頂けないでしょうか」

 彼の目は、真剣だった。そう。ランスロットの外見は、私から見るととても好ましく素敵でそんな彼に愛を乞われている。夢にまで見る展開と言って、間違いないと思う。

「あの……私。これまでに色々とあったんですけど、クレメントとの事は貴方と上手くいくためにあったのかなって思います」

「……え?」

「失恋して……あの事実を知って、すごく傷ついたし、惨めだったし辛かった。でも、何か失敗して学んだら、それを活かすことが出来るから。ランスロット・グラディス様。私の次の恋の相手に、なってくれますか?」

 そうして、はにかんで背の高い彼を見上げたら、ぎゅっと抱きしめてくれた。私も大きな背中に、手を回した。彼の身体は緊張からか震えていて、そのことになんだか安心した。

「ディアーヌ嬢。いえ。ディアーヌ。ありがとう。貴女を、傷つける原因となった僕を……受け入れてくれて、ありがとうございます」

 そうして、彼は私にキスをした。氷の騎士なのに、唇は温かくて冷たくない。何度か啄むように柔らかな唇が当たり、当たり前のような顔をして濡れた舌が口中に滑り込んで来た。

 彼と舌を擦り合わせながらランスロットがこんな手慣れた様子だったのは、少し意外な事ではあった。

 彼は群を抜いて整った顔を持っているのはわかっているけれど、私の手を取る時も緊張で震えていた。だから、異性に慣れていないのかと思い込んでいた。

 どうも、大きな勘違いだったみたい。

 キスを続ける水音が部屋に響いて、あまりの気持ち良さにだんだんと頭がぼうっとして来た。完全に彼とのキスに夢中になっている私は、このままいくと初夜まで純潔を保つのは難しそう。

 心の中では説教くさい誰かが、しっかりしなさいと檄を飛ばす。けど、甘い期待に抗えなくて彼を突き飛ばせない。

 ランスロットは私の身体を優しく刺激しつつ、キスは止めない。なんていうか手慣れてるし、器用だし。止めなきゃいけないのをわかっているのに、身体が言う事を聞いてくれない。出来れば、このままめくるめく快感の海へ流されたい。

 美しい銀髪が目の前をさらりと流れ、ランスロットに首筋を舐められた時に、私はようやく自分が自由に声を出せる状態なのに気がついた。

「っ……ふっ……ちょっと、ちょっと待って」

「待てない。もうディアーヌは、僕の恋人なので。問題はないはずですよね?」

「ちょっ……待って。私、だって……一応貴族の娘なので……」

 結婚するまでは節度を持った付き合いが求められると、なんとか私たちの中にある消え入りそうな理性の炎を焚きつけようとした。決まった婚約者同士であれば、婚前交渉なども大目に見られる場合もあったりするだろうけど、付き合ったばかりだし。

「問題ありません。責任は取ります。僕では、ダメですか?」

 彼みたいな人に、そう乞われて理性を保てる人はとっても尊敬出来る。

「ランスロットって……すごく強引なのね。知らなかった」

 ムッとした表情を作って彼を見ると、その氷を思わせる瞳には何の感情も見えない。比較してはいけないのは、わかっているけど。何を考えているか、すぐに察することの出来るわかりやすいクレメントとは全然違う。

「ええ。こうして婚前交渉をしてしまえば、貴女は僕以外には嫁げなくなると、理解した上でそれをする外道です。嫌いになります?」

 本当は彼が声を掛けるはずだった一年前にクレメントと付き合い始めてしまった私と、やっとこうして付き合うこととなり、どうしても手放したくないと願う独占欲が垣間見える。

 それを、嬉しいか嫌かとすぐに白黒つけろと言われればそれは難しい。

 出来れば心の準備とか、いろいろ待って欲しかった。こうして、早く自分のものにしてしまいたいという早急さには、複雑な思いではある。けど、それだけ思い募るほどに私のことが、彼は私を好きだったんだと確信することも出来た。

 ギシッとベッドの上に上がる鈍い音がして、気がつけば彼は私の身体を閉じ込めるように腕を置いた。

 考えを纏めている間、そんなに長い時間ではなかったと思うんだけど。いつの間にか、ランスロットは服を着ていなくて鍛え上げられた筋肉質な身体が美しい。

 美々しい容姿の彼は、全身がこうして鑑賞に耐えうるほどに整っているんだと、妙に感心してしまった。

「ディアーヌ。やっと……君を抱ける」

 その掠れた声で発した願いが、ランスロットがいつの頃から抱いていたものだったのかなんて、私にはわからない。

 一年前の社交界デビューの時から、私に声を掛けようとしていたくらいだ。その前からも、きっとランスロットは私を知っていたはずなんだけど……彼のような人に、一目惚れされるような容姿ではないという自信だけはある。

「して欲しい?」

 彼は何を、とは聞かなかった。

 今までに一回も誰にも貰ったことなどないはずのものを、私は彼に求めているのに。本能の欲するものを与えてほしくて、何度も頷いた。

「言って。言葉で。僕が欲しいと、言ってください。君の唇で」

 お互いの気持ちを通い合わせることが出来て付き合うことになった私たち二人が、文字通りにあれよこれよとしている間に、王太子であるコンスタンス様とその婚約者ラウィーニアの安全を考慮して、私たちは滞在する期間を切り上げて王都へと戻るという判断になった。

 そうして、帰って来てから早々に、ランスロットは私の父親であるハクスリー伯爵に会うことを希望した。付き合ってから、少し経ってからが良いんじゃないと私が言っても頑なに。

 正式に父へと面会を希望する手紙を送り、双方の予定を合わせて一週間。

 現在、私たちは父の書斎にて、二人掛けのソファの隣同士に腰掛けており、完全に結婚を報告する様子となっている。

 父は、私たちから「なるべく早く婚約したい」と聞かされて、なんとも言い難い微妙な表情をしている。

 何故かと言うと、やっぱり……彼に告白されてからすぐに疑った私のように、父も疑っているんだと思う。、

 周知の事実として、付き合っていたクレメントと別れたばかりで彼のライバルだともっぱら噂されているランスロットと付き合うことにより、これから先に起こるだろう不都合な事態などを懸念しているのだと思う。

「別に、君との婚約について……特に反対をしている訳ではないが。ディアーヌは、一年間付き合っていたクレメント・ボールドウィンと別れたばかりだからな……まだ婚約するには、時期尚早だろう。少しだけ、手続きには時間を置こう」

 色々とこちらも真実を言えない事情もあり、クレメントに振られて物凄く落ち込み閉じこもっていたと誤解をしている父親に対して、実はもう既にランスロット以外には嫁げない状態になっているとはさすがに言い難い。

「わかりました。ハクスリー伯爵にお許し願えるまで、待ちます」

 ランスロットは父の重々しい言葉に特に不満は見せず従う姿勢を見せ、父は目に見えてほっとした顔をしていた。

 自分の父親ながら、思っていることがとてもわかりやすくて、こんなことで世知辛い貴族社会でやっていけるか少し不安にもなった。

 隣に座っている人が考えていることがとてもわかり難いので、その対比もあるのかもしれない。

 思ったより短時間で親への結婚の許可を取るという目的を終えた私たち二人は、父に挨拶をしてから廊下を一緒に歩いた。

 実は彼は本来の休みを返上して働いているところを、仕事を抜けてまで来てくれていたので、このままトンボ帰りして仕事場に戻るらしい。

 このランスロットだけに限った話ではなく、現在の王宮騎士団は総力を挙げて王太子の婚約者を狙った件についての詳細を調査中らしい。

 襲われた彼らのすぐ傍に居た私が誰よりも思うくらいに、確かにあれは怪しい。

 コンスタンス様とラウィーニアの二人が街歩きに行こうと言い出したのは、私とランスロットを会わせてあげようという、なんてことの無い気まぐれだったはず。

 あんなに、タイミング良く媒介となった子どもたちが現れるのはおかしい。なので、内部の犯行なのではと睨んでいる人が多いらしい。

 ハクスリー伯爵家の邸は、建国より仕えているご先祖代々使っているものなので、年代物ではあるけど広い。天井の高い玄関ホールで彼は振り返り、恋人とお別れをする慣例通りに、私の手の甲に軽いキスをした。

「それでは」

「はい。忙しいところに来てくれて、ありがとう……ゆっくり話せないのは残念だけど」

「いえ。このまま、帰りたくはないんですけど……すみません」

 そして、もう一度頬にキスをして、彼は扉を出て行った。

◇◆◇

 馬車でラウィーニアと王城に向かうことになったのは、王太子コンスタンス様が開催するお茶会に招かれたから。

 あの時のお詫びをしたいとの事だったけど、彼は婚約者を狙われた被害者で、自身は特に悪いことはしていない。

 けれど、組織の責任者って、そう言うものなのかもしれない。

 悪くなくても、詫びるなんて良くあることだろう。彼のような、本人が詫びたい場面だったとしても、それが出来ない場合もある王族という難しい立場にあれば尚更そうだろう。

「大人気な美形騎士と、せっかく付き合い出したって言うのに、なんだか浮かない顔だこと。ランスロットに憧れている女の子たちに、刺されるわよ」

 隣の席に座るラウィーニアは、呆れた声を出した。付き合いたてなら、もっと浮かれていてもおかしくないと思って言ったんだとは思う。

 これも、二度目の恋は初恋とは違うと言えるかもしれない。

 きっとラウィーニアの言うような……私の立場に嫉妬してしまう子の数は、彼と身分の釣り合うことの出来る貴族令嬢を含めて、沢山居るとは思う。

 クレメントと付き合っていた時も何度も意地悪はされたけれど、その立場について優越感を感じられると言うかと言うと否だ。性格的な問題はあるとは思うけど、別に私は彼の容姿や立場だけで、付き合いたいと思った訳でもない。

 やっぱり傷ついている時を埋めてくれるようにして「誰よりも愛してる」と、言われた分の加点は大きいと思う。どんなに好ましい条件を持つ男性でも、自分を好きではない人は魅力的に思えないだろうから。

「……少しだけ。ランスロットの事について、気になることが……あって」

 最近思い悩んでいることを、ラウィーニアに言い当てられて私は小さく息をついた。

「え? 何? ランスロットって、もしかして……あんな顔をして、何か変な性癖でもあるの?」

 ラウィーニアは、ちょっと微妙な顔をした。もちろん。誰かが持つ性癖に関しては、他人がどうこう言う権利などない。勝手な言い分なんだけど、確かに正統派な美形騎士には完璧な自分の想像通りに居て欲しい気持ちは私もそうなので良くわかる。

「ちっ……違うわ。それは、違うんだけど……」

「はっきりと、言って。どうせすぐに吐くんだから、時間の無駄よ。それに、ディアーヌは私に相談したがっているでしょう?」

 幼い頃から過ごしたラウィーニアに、何かを誤魔化せるはずもない。私ははーっと再度大きく息を吐き出してから、意を決して彼女に悩んでいたことを話すことにした。

「あの……付き合い始めて直後に、私たち一線を越えたんだけど」

「そこは、二人の自由だし……それに関しては、私は何も言わないわ。それで?」

「ランスロット。凄く……ああ言うことに、手慣れていたの。冷静に考えれば彼くらい素敵な人なら、おかしくもなんともないんだけど。私の手を取る時も、震えていたのにって思っちゃって」

 どう説明すれば良いか悩んでしまうような困惑を理解してくれたのか、どうなのか。ラウィーニアは、良くわからないと言った様子で首を傾げた。

「ディアーヌの言わんとしていることも、わかるんだけど。あんなに美形な騎士が……その、全く経験なく初めてだと言うのも、少し不気味な話だと思うわ。私も、コンスタンスに聞いただけだけど……騎士団って、大抵飲み会の後は娼館に行くらしいのよ。そういうお店が現にあるんだし、伴侶もいない独身の騎士なら利用するんではないかしら。それに、彼ならばただ抱いてほしいから、付き合ってくれなくても構わないという向こう見ずな女性も……数多く群がるでしょうね」

 男性の事情を言っているラウィーニアは、とても複雑そうな様子ではある。

 確かに出来れば自分だけで居て欲しい女性側としては、それは難しい問題ではある。でも性欲は、誰にでもある。それに、戦闘職であれば戦いの後は気分が高揚して、どうしてもそういう気分になりやすいらしい。

「なんて言えば……良いかしら。私のして欲しいことを先回りして、わかっているみたいなの。それって、誰かに愛されているばかりでは絶対に身につかないでしょう? だから……」

 聡明なラウィーニアは、私が言外に言いたい事をあっさりと察してくれたようだった。

「ランスロットには、元々付き合っていたとても愛していた女性が居て、その彼女とそういう事を上手くなる程にしていたことが気になる?」

「だって、私だって……クレメントと付き合っていたと言えど、彼とはそう言う関係にはなっていなかったもの」

 私なんて彼を嫌うクレメントと嫌がらせのためにと一年間も付き合っていて、それでランスロットを苦しめていたと言われれば、もうそれまでなんだけど。

 好きになった人の過去が気になってしまうのは、仕方ない。

「誰にだって、過去はあるでしょうね。でも、ここ数年に、ランスロットが異性に興味を持てない氷の騎士と呼ばれていたのは、紛れもない事実よ。もし誰かと付き合っていたとしても、それ以前の話でしょうね」

「元恋人……こういうのって、きっと気になっても聞かない方が良いよね?」

「それが……一番良いでしょうね。きっと、それが誰かとか……詳細を知ってしまえば、気になって仕方なくなるでしょう。気がつかなかった事として、心に仕舞っておいた方が良いわ」

「そうよね……聞いてくれて、ありがとう。ラウィーニア」

「絶対に、その人の名前なんて知らない方が良いわよ。私も……コンスタンスがある貴族の既婚女性から、王族の慣例として閨の指導を受けているのは知っているけれど、それが誰かなんて絶対に知りたくないもの」

「コンスタンス様が……?」

 あんなにもラウィーニアを愛しているコンスタンス様が……と、私は呆気に取られたまま、寂しげな笑みを浮かべる彼女を見つめた。

「彼は王になる人だから。万が一があってはならないと、子どもが出来るようなことはしていないかもしれないけど。その直前までだったりは、きっとしていると思うわ。でも、コンスタンスが私を愛してくれているのは知っているし、彼がそうしているのは王太子という仕事の一環だからと言うのもわかっている。でも、時々複雑な気持ちにはなるわね。世の中には知らないままで済むことなら、知らないままでいる方が幸せなことも……沢山あるのよ」

 妙な気配に不安を感じて私が声を出す前に、隣に座っていたラウィーニアは状況を察していたようだ。

「……ねえ? なんだか、変じゃない?」 彼女は耳を澄ませるようにして、何かを窺うように息を潜めた。

 私が住んでいるハクスリー伯爵家の邸から、王城に進む道はそこまで複雑な経路ではない。

 賑わっている市街の大通りを抜けて、王都の中心部に守られるように位置するレジュラスの王城は、大きな湖に囲まれているためその外周を橋がある場所まで大回りしなければならないという程度。

 街の中特有の喧騒が聞こえなくなったので、そろそろ城に辿り着くと私はついさっきまで呑気に思っていた。

 けれど、通常ならライサンダー公爵家に仕える優秀な御者は馬車を揺らさないためにゆったりと速度を落として進むはずだ。そのはずなのに私たちの乗車しているこの馬車の進みはどんどんと速度を増し、何か良くない予感を連れて来るようにいくつもの馬蹄の荒い音が後方から聞こえてくる。

(まるで……追われているみたいじゃない……)

 背筋を、ふわりとした嫌な気配が通り過ぎていく。ラウィーニアは中腰になって紺色のカーテンを開き、小さな窓から外の様子を見た。

「……ディアーヌ。これは……厳しい状況かも、しれない」

 ラウィーニアは、長い時を共に過ごした私が今まで見たこともない深刻な表情で硬い声音で告げた。そして、これから私たち二人に起こるだろう出来事を予想したのだろう。自分の太腿に皮ベルトで留めていた小さな守り刀を、彼女はドレスの裾から取り出した。

「ディアーヌ。これから、もしかしたら。私たちは、死ぬより辛い目に遭うことになるかもしれない。多分この件にはあまり関係のない貴女だけでも、逃してくれるように交渉はするから……どうか落ち着いて、聞いて欲しい。このナイフを、貴女に渡して置くわ。もし解放されなかったら、一緒に死にましょう」

 真剣な顔をして突然とんでもない事を言い出したラウィーニアに、慌てた私は驚いて彼女の名前を口にした。

「らっ……ラウィーニア?」

「こうして私達のような貴族の娘が、婚約者の政敵に捕らえられれば何をされるかなんて……決まっているわ。でもきっと、コンスタンスが気がついてくれれば彼は騎士たちを編成して、すぐに追って来てくれるとは思う。命は最後までは決して諦めないけれど、これからは私の指示に従って欲しい。どんなに腹の立つような、何かを言われても、貴女は余計なことを決して言わないで」

 これから、少しでも命が助かるために私のすべき事を明確に示した。

「……わかったわ」

 きっと。王太子妃になる教育時に、こういう時の対処も学んでいるはずのラウィーニアの強い気迫に押されるようにして、私は何度も頷いた。

 御者は追ってくる馬からなんとか逃げ切ろうと必死に馬を走らせているのか。激しい鞭で叩く音がして、無理な速度に高級なはずの車輪が軋む音がする。ガタガタと、普通であればあり得ない程に馬車は何度も大きく揺れた。

「軽く、状況だけ説明するわ。今、私たちを攫おうとしているのは、きな臭い噂の絶えなかったジェルマン大臣の手の者だと思う。コンスタンスは、この前に私を襲わせたのは彼だという証拠を掴んだと言っていたの。そして、すぐにジェルマン侯爵邸へと騎士団を向かわせたけれど、そこはもう既にもぬけの殻で使用人なども合わせて一人も……誰もいなかった。そして、何かの証拠となるような怪しい書類なども、見つからなかった。だから、もうジェルマンは国外逃亡していると思われていた。彼を捕縛するための追っ手も幾手にも別れて居るはずよ。でも、あの時不慮の事態とは言え関わることになったディアーヌも、何かの理由で狙われてはいけないとコンスタンスが念のために私に城へと連れてくるように言ったのよ。そして……彼の母である王妃様の気まぐれという形を取って、私たちはほとぼりの冷めるまで共に城へと滞在することになっていたのよ」

「でっ……でも、でも……ラウィーニアの護衛も、すぐ傍に居るはずよね?」

 なんと言っても、彼女は未来の王太子妃だ。それに、そんな状況でコンスタンス様がラウィーニアを無防備に外出させるなんて、考え難かった。

 ラウィーニアは、顔を顰めて声を絞るようにして私に言った。

「それよ。きっと、その護衛が……裏切っていたんだわ。情報が漏れるはずよ。あの時にも」

「でも……ジェルマン大臣が……もう失脚してしまった後で、こんな事をしたとしても……何にもならないのに」

 私は事情を知り、困惑することしきりだった。

 もし、自分がジェルマン大臣だとして、ここでラウィーニアを攫おうとする理由がわからない。王太子の婚約者……いわば、後の王族へと名を連ねることは決まっている女性を狙ったことが暴かれればこの国の法律上間違いなく極刑は免れない。

 彼が国外逃亡を企てているのなら、一刻も早く距離を稼いだ方が良い。何の関係もない私だって簡単にわかることだった。

「……私の身柄は、もし彼がどこか敵国に身を寄せるのなら、良い手土産となるでしょうね。コンスタンスは、候補者の中から私を妃にすると貴族たちの前で既に宣言してしまった後だから。生きていて敵国に居るのなら、国のためだからと言って簡単に切り捨てられないでしょう。ディアーヌ……落ち着いて聞いて欲しいんだけど……」

「言わなくても、わかっているわ。そこまで、バカではないもの。私は……ラウィーニアとは違って何の交渉道具にも、ならないものね」

 私はつらい表情を浮かべる彼女を安心させたくて、二の腕をさすった。

 王太子妃となる予定のラウィーニアの身柄と、彼女の親族とは言えただの貴族の娘でしかない私の身柄。少なくとも、この国の政治的には命の重さは釣り合わない。

 もしこの国の王や亡命する他国への何かの交渉のカードとするなら、ラウィーニア一人で十分だろう。

 けれど、私には自分では考えたくもない利用価値がある……これから、ひどい状況になり得ることもわかっているから、ラウィーニアはこうやって険しい表情になっているのだ。

 だから、彼女は私にこのナイフを渡した。ぎゅっとそれを握って、隠しポケットへと滑り込ませた。

「ラウィーニア。どうか、貴女は生き残って。でも、何かの理由で私が何かの足手纏いになりそうなら、自分のすべきことはちゃんとわかっているわ。それは、他でもなく私のためだから。決して、自分を責めたりしないで……ランスロット以外と、あんなことをするのは、きっと無理だと思うもの」

 ラウィーニアが何か言おうと口を開いたけれど、その時にガタガタと激しい音がして馬車が急に止まった。

 御者台に座り馬を操っていた御者はどうなったのか、それを考えるだけでも怖い。必死で私たちを守ってくれようとした彼が、どうか無事でありますように。

 ラウィーニアはさっと私の手を繋ぎ自分の身体で庇うように、扉の前に進み出た。

 馬車の扉は、ゆっくりと開かれた。いつもならば気にならないキイっという金具の音が、やけに不気味に響いた。

「やはり、貴方だったのね……ジェルマン大臣。いえ。もう単なるファーガス・ジェルマンかしら。自分の邸まで捨てたと聞いたけれど、この私に何か用かしら?」

 そこに現れたのは、私も夜会などで姿だけは見たことのある、痩身の白髪の男性だった。鷲鼻で薄い唇、酷薄そうな表情。彼を睨む私たち二人を、何か物のように舐め回す不快な視線。

「ライサンダー公爵令嬢。いつもながら、本当にお美しい。貴女が王太子を忘れてくれていたら……色々と、こちらは好都合だったんですが」

「……そうなったとしても、コンスタンスは私を諦めないわ」

 毅然として言ったラウィーニアに、ジェルマンはくくっと嘲るように言った。

「お二人は幼い頃から、本当に仲睦まじい。愛し合う二人は美しいですね。だが、そんな心底愛する女性からの関心が一切失われた状態でも、王太子殿下はこの大国の舵取りがそつなく出来るでしょうか?」

「……何が、言いたいの? はっきりと言いなさい」

「王太子殿下は、貴女が思うより貴女を愛しているようだ。ライサンダー公爵令嬢。まあ、それは良い。そちらの、可愛らしいハクスリー伯爵令嬢と共に、こちらの馬車に乗り換えて頂きます。聡明な貴女たちなら、今から自分たちがどうすべきかは……理解していますね?」

 ラウィーニアは、私の手を強く握った。そして、私も握り返した。

◇◆◇

 大きな箱のような馬車に乗り換えて、鎧戸のある窓からはほんの少しの光も差さない。明かりもない闇の中で、私はラウィーニアの温かい手を握っていた。

「最後までは、諦めないでいましょう。ディアーヌ。そういえば、貴女の恋人と元彼は筆頭騎士だし……筆頭騎士って一人で、一個師団を倒せるのよ。知ってた?」

「一個師団の人数が、わからないわ。とにかく、何だか凄そうではあるけど……元彼のクレメントは……関係なくない?」

「向こうは、絶対にそう思ってないわよ。この前だって未練たらたらな様子だったし。大体の男性って、別れた女は別れてもずっと自分の事を好きだと思っているらしいわよ」

「そんな訳ないでしょ。あんなひどい事をしておいて。もしそうだとしたら、大分おめでたい頭だと思うわ」

「別れてしまえば、悪いことは忘れてしまって。付き合っていた頃の……良い記憶だけが、残るのかもしれないわね。それはそれで、幸せな事だと思うわ」

 姉代わりだったラウィーニアと、こうして手を繋ぐのは子どもの時以来だと思う。今思い出せるのは転んではいけないからと、庭園を手を繋いで一緒に歩いた記憶。きっとその時の他にも、彼女とは何度も何度も手を繋いでいるはずだった。

 ラウィーニアだって、この状況が怖くないはずがない。というか、彼らの目的は彼女一人だ。これから、どうなってしまうのか。一番怖いのは、彼女だと思う。

 巻き込まれただけの私をどうにか解放するために、知恵を絞ってくれると言ったけれど……きっと、崖のすぐ傍を歩くような危うい交渉になるだろう。

 何も見えない暗闇の中で、ラウィーニアは敢えていつもと変わらないようにして私と話してくれた。

 優しい温かな手のぬくもりに、忍びよる冷たい死の予感を抱かせないように。

◇◆◇

 私たち二人は迫り来る黒い不安を、少しでも払拭したい思いで取り留めもないことを長い時間話し続けた。ついには話し疲れて、二人寄り添ったあのままで眠ってしまったようだ。

 目覚めて、薄く目を開けると……また闇。

 けれど、今居る場所は堅い鎧戸が完全に閉まっていた真っ黒な箱のような馬車の中ではなかった。薄闇の視界の中で、ぼんやりとだけど部屋の様子が見えている。

 あれから、どのくらい経っているのか。私にはもう時間の感覚が、全くわからなくなってしまっていた。

「ディアーヌ。起きたのね」

 疲れた笑顔を見せて、眠ってしまった時と同じように私の隣に居たラウィーニアは言った。

 もしかしたら、彼女はほとんど眠れていないのかもしれない。深く眠っていたとはいえ、この状況下で誰かに運ばれた様子だというのに全く気が起きなかった自分が信じられない思い。

「ここは……?」

 手のひらに感じるのはざらっとした質感の、磨かれてもいない素朴な木の床。どこか倉庫のような部屋で、多くの棚に沢山の物が置かれてなんなら溢れている。

 そして、何故か私は今こうしてしっかりと床の上に座って居るというのに、宙に浮いているような不思議な浮遊感があった。

「ここは、船の中よ……ジェルマンは、このまま海を渡るみたい。もし、コンスタンスが私たちの誘拐に気がついたとしても、こちらは海の上よ。きっと、彼にも行き先はわからないわ……レジュラスは、大国と言われているだけに、敵も多いものね。船では追っ手も足取りを追うのは難しい……すぐには追っては、来れないでしょうね」

 ラウィーニアは、難しい表情をして私たちの今居る現状を説明した。

 もう既に海の上。救助を待つのは、絶望的。そして、簡単に出てしまう結論。

「ラウィーニア……私。自分の事は、自分で決めるわ」

 出来るだけ感情を見せずにぽつりとそう呟けば、目の前に居るラウィーニアは、私の言葉の意味を悟り表情を変えずに涙をいくつもこぼした。

 王太子の婚約者であるラウィーニアは、もしかしたらレジュラスへの交渉のために、完全に無事で居られるかもしれない。

 けれど、そこまでの利用価値を持たない私は、こういったある意味では閉鎖された空間で彼女への見せしめを含めた慰み者にされる可能性が高かった。

 私だってラウィーニアをこんなところに一人で残すのは、嫌だ。

 けど、子どもの頃から甘やかされていた私は……きっと、考えたくもない経験を乗り越えられるほど、強くないと思う。自分勝手だとは思うけど、心を壊されてしまう前に逃れたかった。

「ごめんなさい。ディアーヌ。巻き込んでしまって、ごめんなさい。私が……」

「言わないで。ラウィーニアが、幼い頃から憧れの王子様……コンスタンス様を好きで、沢山頑張った事を私は誰よりも知っているもの。自分が候補の中から王太子妃に選ばれたのを、誇りに思って。私の人生だもの。私が決めるわ」

「ディアーヌ。ごめんなさい……貴女の家族やランスロットも、クレメントにも。私は、恨まれるでしょうね」

 ぽろぽろと涙をこぼすラウィーニアは、確か王太子妃の候補になってから私の前で泣いた事がなかった。

 きっと、人前でなくてもずっと涙を堪えていたんだと思う。

 王族は常に平静を保ち、誰かに感情を見せてはいけない。付け込まれる隙を、与えてしまうことになるから。そう何度も厳しい家庭教師に諭され怒られているのを、いつも彼女の近くに居た私は見たことがあった。

「もう……クレメントの名前は、もう良いわ。別れてるのよ。ラウィーニア」

「……今だから、言うけど。俺様に見せかけた臆病者のクレメントは罪悪感に負けてディアーヌを手放しただけで、付き合っていた時も……ディアーヌを今も好きだと思うわ。本当にわかりやすい男だもの」

 ラウィーニアが何故ここで彼女の推測するクレメントの本心を言った理由は、私には良くわからなかった。

 でも、失恋したてで彼の近づいて来た理由を知り傷ついていた過去の私がそれを聞けば、少しは慰められる情報だったのかもしれなかった。

「そう……あの人と、付き合っていた頃の私も……きっと、浮かばれるわ。ラウィーニア。最後まで諦めないで。コンスタンス様を信じていて」

 そうして私は、そっと彼女から借りた守り刀を取り出した。手を縛ってないのは、どうせ私たちのような非力な令嬢が二人で何も出来やしないと思っていると思う。

 それは確かに、ご名答だけど。

 何か私に出来る抵抗と言えば、小さなナイフで喉を突くくらいしか出来ない。

「待って! 待って……ディアーヌ。私も一緒に」

「……ラウィーニア? だって、貴女。コンスタンス様はどうするの。貴女を失えば、彼は」

 言葉を止めたのは、ラウィーニアの目が真剣に張り詰めて壊れそうだったからだ。

「こんな風に、目の前でディアーヌを喪って生きるくらいなら。一緒に……それに、私は国同士の交渉の道具にも、されたくない。コンスタンスは、私を救うために不利な条件をいくつも呑むことになるでしょう。これから王として国を背負う事になる彼の負担になりたくない」

「コンスタンス様は……深く悲しむわ」

 何の交渉術も持たない私にはそのくらいしか、彼女を思い留める言葉が思い付かなかった。

「……そうね。コンスタンスに、一生消えない傷を負わせることになるかもしれない。でも、ディアーヌを一人に出来ない」

 私はもういなくなるから……という言葉は、喉を鳴らして飲み込んだ。

 こんなに敵だらけの、逃げ場のない船の中。孤独な絶望を味わえとは、先に逝くことになる私にはとても言えなかったから。

「……あら。恋愛は友情に勝るものだと、聞いたけど?」

 彼女を残していかなくても良くなった安堵の気持ちで茶化して聞けば、ラウィーニアはようやく袖口で涙を拭いた。

 私が自分の事を自分で、決めたように。彼女の決断も、尊重されるべきではあった。

「時と場合にも、よるわ。確かに選び難い二つではあるけれど……自分で選ぶわ。いつだって、決断を下すのは自分であるべきよ。だって、私の人生を決められるのは、他の誰でもない私だけなのよ」

◇◆◇

 それから、私たちはどうするかで少し揉めることになった。小さなナイフは一本だけ。どちらが先に使うという、結論が出せなかった。どっちも、先に使いたいから。残されるのは短い時間だとしても、嫌だった。

「あまり、これに時間を掛けてもいられないわね……ねえ。ディアーヌ。海に一緒に飛び込みましょうよ」

「海に?」

「そうよ。運が良かったら、人魚に助けて貰えるかもしれないわね」

 世界でも珍しい幻獣として知られる美しい人魚の生息地は、レジュラスよりも南の方だからあまり救助は期待出来そうにないけれど。

 私は、肩を竦めつつ、彼女の提案に賛成した。確かにラウィーニアの希望通り二人で一緒にとなると、海に飛び込むのが一番早い。そして、今のところその方法しか思いつかなかったから。

 二人で鍵も掛けられていなかった部屋の外に出ると、とても強い風が吹いていた。

 それに、ジェルマンに雇われている船員と思われる身体の大きな男性たちは、バタバタと走り回り懸命に帆を張っている。

 彼らは囚われの身ではずの私たち二人が部屋の外に出ているのを見ても、もうそれどころではないと無視をして走り自分の持ち場へと向かう。

 一応、私は置いておきても、こちらのラウィーニアは、大事な交渉道具なんですが?

「……何かあったのかしら?」

 辺りを見回してからラウィーニアは、不思議そうに私を見た。かと言っても、釈然としない私にだって何の理由も思いつくはずもない。

「船中の船員が、とても焦っているみたいね……え? ラウィーニア! 並走している船を見て!」

 私たちの乗る船に向かって何個かの火球が飛んで来たのを見て、危うく飛び上がって歓声を上げてしまうところだった。

 何故かと言うと、その火球にはこの前見たばかりの私には良く見覚えがあったから。

 それは、私のことを東の森で護衛としてついて来てくれた炎の騎士クレメントの得意としている無数の火球で攻撃する魔法だった。

 燃えてしまえば致命的な木製の船なので、あくまで脅し程度の数しか飛んでは来ないけど、あの船に彼が居るという証拠でもあった。

「もしかして……クレメントなの? 嘘……おかしいくらいに、あの船速度が速いわ。凄い!」

 この船を追いかけてやって来る船は、ラウィーニアが目を見張ってそう言った通りに尋常ではない速度で私たちの乗っている船に近付いてくる。

「風の騎士も、きっと乗船中なのよ。ラウィーニア! 良かった。助かったわ。彼ら筆頭騎士が来てくれれば、もう安心だもの」

 私は実戦する様子を見たことがあるのはクレメントだけだけど、国民自慢の筆頭騎士と呼ばれている彼らが本当に強いのは良く知っている。

 船員たちも、慌てている訳だ。

 だって、コンスタンス様が、愛するラウィーニアを誘拐した者とそれを共謀した者たちをタダで済ませるとは……とても、思えないもの。

「どうやって追いかけて来たのかは、わからないけれど……ディアーヌ。私たち、助かったわ。良かった」

「ラウィーニアがあんな風に言ってくれなかったら、もう既に私は死んでいたわ。ありがとう」

「死んでも、死に切れないわよ……そう。見て。貴女の恋人も、あの船に乗っているみたいね。ディアーヌ」

 ラウィーニアが意味ありげに、海面を指差したから私は慌てて柵に手を掛け目を疑った。

 船と船の間の海面が、信じられない勢いで凍り始めていたから。

 レジュラスの筆頭騎士達が乗り込んで私たちを救出に来たと思われる船に対して、ジェルダンが手配したこの船は、こんなに強い追い風が吹いているというのにやけに進みがのろのろとして遅い。

 大きな船を取り巻くように白く凍っていく海水のせいかと思えば、それだけではなさそうだった。

 すぐ後ろに居たラウィーニアに肩を叩かれて促されるままに空を見上げたら、大きな帆は見るも無惨な様相でズタズタに引き裂かれていた。そして私は風の騎士が作り出すことの出来るという、何でも切り裂く空気の刃の噂話を思い出した。眉唾ものだと思っていたけど、その威力をこうして目の前にすると何も言えずに圧倒されてしまうしかない。

 いくら……こんなにも強い風が吹いていたとしても、風をはらみ船を進ませるはずの帆がこんなに酷い状態であればこちらは思うように進めない訳だった。

 そのままこちらにぶつかってしまう程の勢いで迫り来る船が、ほんの少しの距離を残し速度を緩め始めた。いきなりぴたりと止んでしまった風が、彼らがそれを意図的に起こしたものだということを端的に示していた。

「ラウィーニア! あれって、コンスタンス様じゃない? 貴女のことが心配の余り、こんなところまで自ら追いかけて来てくれたのね」

 私は、本来なら王宮で一番に守られるはずの彼を見て、思わず大きな声で叫んでしまった。我が国の王太子であるコンスタンス様が、ランスロットが凍らせたと思われる白い海面に颯爽と降り立ったからだ。

 それは普通に生きているだけであれば決して見ることの出来ない、とてもとても不思議な光景だった。

 そもそも、よっぽど寒い地域でないと海面ってこんな風に凍らないと思うし。何かの必要に迫られたとしても……コンスタンス様のような美男子は、あんなに薄着では歩かないと思うし。うん。

「……コンスタンス。こんなところにまで追いかけて来るなんて。危険なのに……あら。ランスロットも、当たり前だけどこちらに来るわね。ついでに、クレメントも」

 ラウィーニアは楽しげに笑って、彼らを指差した。

 歩き出したコンスタンス様に続いたのが、ランスロットで。それに続く何人かの騎士達の中には黒髪のクレメントも居た。私たちを助けに来てくれたのに、ついでなのは可哀想な気もするけど。彼が過去にしたクズな行いを考えると、それは仕方ないと思う。

 海面から船の甲板は高さがあり、すぐ近くに停泊していると言えど、まだ少しの距離があるために、私たち二人はこちらに向かってくる彼らの表情までは窺い知ることが出来ない。

 良く知ってるからこそ、遠目でも彼らだと言うことがわかると言うだけ。

 そして、これはこの目に映っても信じられない光景だし何度でも確認したいんだけど、二隻の周囲にある海水は見事なまでに凍ってしまっている。筆頭騎士……凄い。

 筆頭騎士の噂というか戦場において彼らが向かうところ敵無しという噂は、レジュラスでは国民たちの間では自慢も込め良く語られていた。

 大国が抱える数多くの戦闘部隊の中でも極小数で最強を誇る彼らの強さは……こうして目の当たりにするまで多少の誇張も含まれているのではないかと思ってはいたんだけど。この状況を見れば、それはまぎれもない真実だったみたい。

 破れ被れになったジェルマンが、自暴自棄になって誰かに指示をしたのか。危なげなく凍った海面を歩いて来る彼らに何本かの矢が飛んでいった。けど届く前に、何か透明な壁のようなものに阻まれて、それは呆気なく落ちた。

 何人かの騎士たちに最も守られるべき存在のコンスタンス様が、先頭を切ってこちらに歩いてくるのだから。何かの魔法で守護されていると考えるのはのは、当たり前のことなんだろうけど。

 そうしようと思って先頭に居るのかは私にはわからないけど、ジェルマンの罪状には王太子への加害行為も含まれることになるだろう。

 そして、私たちはこちらに着々と近付いてくる彼らの表情を見て、自分たちは救助される側だというのに……守ってくれるはずの彼らに、なんともおかしなことだけど背筋がぞくっとするような冷ややかな恐怖さえ感じてしまった。

 もしかしたら、こちらに向かってくる一行を全体を取り巻くような怒りが可視化されて見えてしまうんではないかと思う程に、その表情が物語るものは雄弁だった。

「……怒ってる」

 私が思わず震えてしまった声でぽつりとそう呟けば、ラウィーニアは自らの二の腕を摩るようにして言った。

「それは、怒る、でしょうね。ジェルマンは、国を裏切った挙句に、二度も私を狙ったことになるし……コンスタンスは、絶対に許さないでしょう」

「王太子殿下にこれほど愛されるって、とても大変ね。ラウィーニア……」

 従姉妹に真っ直ぐ向けられた大いな愛を身にしみて感じて、私は大きく息を吐いた。周囲が凍って気温が下がっているせいか、冬に外でそうした時のように息が白い。

「あら。それは、こちらの台詞よ。ディアーヌ。見て……あそこに居る船員たち。きっと、彼らは私たちを人質に使って、彼らを脅そうと軽率に思ったのかも知れないけど……」

 ラウィーニアが目を向けた先には、屈強に見える船員たち数人がもがくようにして動いていた。私はそれを見て、すごく不自然な動きだったので不思議に思った。

 けれど、その足元をよくよく見ると。

「嘘。床面が凍っていて、彼らは足止めされている……? もしかして、ランスロットが?」

 というか、現在この船の中では、私たち二人以外は自由に動けなくなっている状態のようだ。通路の奥にある広い甲板の上でも、床に伏せてのたうち回っているような黒い人影が多く見える。

 通りでこういう時に、物語で良くある首にナイフを当てられる展開にならなかったという訳。氷の騎士。彼の持つ、その異名の理由……とても良く、理解することが出来た。

「彼の持つ魔力は、聞きしに勝るみたいね。船の中に居る者ほとんどが身動きが取れなくなるなんて……ディアーヌ。自分の恋人で有能過ぎる氷の騎士の力を、こうして目の当たりにした感想はどう?」

「……彼からは、何かで口喧嘩して、走って逃げてもどうやっても絶対に逃げられなさそう」

 先ほどまですぐ傍に居た真っ黒な死の恐怖が立ちどころに消えてしまったのを感じて、私たちは顔を見合わせて笑い合った。

 迎えはすぐそこで、悪事を企んだジェルマンは報いを受け地獄に堕ちることになるだろう。

◇◆◇

 凍った海面を歩いて来た彼らは、とても簡単にこちらの船に乗り込んで来た。

 近くの手すりに手を置いて様子を見ていた私たち二人を見つけ、コンスタンス様とランスロットは素早く近付いて来た。

 なんていうか、感無量という言葉はこういう時に使うんだと思う。

 こちらにやって来るランスロットに無意識に駆け寄り、その勢いのままで彼に抱きつけば、大きな身体はちっとも揺らぐこともなくぎゅうっと強く抱きしめ返してくれた。

「心配した」

 耳元で聞こえた掠れた声に、泣きそうになった。その響きだけでどれだけ私の事を心配してくれていたか、良くわかったから。

「助けに来てくれて、ありがとう。私たちもう、二人で海に飛び込んで命を断つしかないって……そう思っていて」

 私の言葉を聞いたランスロットは、痛いくらいの力を込めて抱きしめた。そして、鍛えられた自分の力ではいけないと、気がついてくれたのかすぐに緩めてくれた。

「そうか、良かった。僕たちも……もしかしたら、間に合わないのではないかと……最悪の事態も考えた。本当に良かった」

「ねえ。ランスロット。どうやって、私たちがここに居るってわかったの? それが、すごく不思議で……」

 表情が読みにくいランスロットの顔を、私はまじまじとして見上げた。彼は何かを迷っているようにも、見える。私の見当違いの見間違いで、なければ。

「……それは、また後で詳しく説明します。殿下、我々は安全を第一に考えて船を移りましょう。せっかく奪還した御令嬢方に、万が一があってはいけない。ジェルマン捕縛についてはボールドウィンとクライトンが、上手くやるでしょう」

 ランスロットが淡々とそう進言したので、私は何気なく自分の背後に居たコンスタンス様とラウィーニアを振り返れば彼らは熱いキスの真っ最中だった。

 流石に身内のこんなところを観察するのは無理だった。顔を熱くした私は、パッと視線をランスロットの胸元に戻した。

「わかった……ラウィーニア。行こう」

 そうして、コンスタンス様はラウィーニアを抱き上げた。私の従姉妹はお姫様抱っこされたままで、海面を移動することになりそう。あまりしない経験だと思うし、末代まで語り継いでも良いと思う。

 コンスタンス様って、騎士と比べてしまうと細い体躯の王子様だけど、結構力あるんだ……軽々とラウィーニアを運ぶコンスタンス様の背中を見て、そんな余計な事を考えたりした。私はランスロットに手を引かれて、彼らが不思議な力で甲板まで上がってきた場所にまで歩いた。

「……ねえ、ランスロット。彼らは、どうなるの?」

 無言の彼に手を引かれている私は、厳しい雰囲気を崩さないランスロットに聞いた。

 さっき、ジェルマンの捕縛はと彼は言った。この船に残る事になる大勢の船員たちは、どうなるのだろうか。

「……聞かない方が、良いですよ。国を治めている王族を狙うのは、レジュラス……いえ。ほとんどの国家でも重罪です。ここに来るまでの殿下の怒りを思えば……反逆者ジェルマンに雇われただけの彼らのためにも、ある意味では温情と言える処置なのかも知れません」

 ランスロットは、皆まで言わなかった。けど、私にも何となくはわかった。

 ジェルマンの企みを知った上で加担していたのか、どうなのか。それは、もう。あまり問題ではないのかもしれない。

 ただ、ラウィーニアを攫った。攫おうとした。それだけで、怒りを買うには十分だ。だって、コンスタンス様は次の王座を約束された人だもの。

 法により、とんでもない事をしでかした重罪人は裁かれるだろう。

 ランスロットが先を行っていたコンスタンス様から目で合図を受ければ、見る間に海面から白い氷が嘘のような速度で積み重なり船の上に居る私たちを迎えに来た。

 コンスタンス様が最愛の存在であるラウィーニアを追うために、出した船は軍事国家レジュラスでも二つしかまだ所有していない最新鋭の性能を持つ軍船だったらしい。

 追いかけられる側の船に乗っていた私たちが思わず目を疑うような、とんでもない速度だったのは意図的に巻き起こした強風だけのせいではなかったらしい。

 私は王宮騎士団の幹部の一人であるランスロットに用意されているという大きな船室へと先に案内され、船旅では贅沢なはずのお湯をたっぷり使ったお風呂に入り悠々と楽しんだ。

 風呂上がりの私がベッドに寝転んでうとうとしていた頃、やっと色々な仕事を終えたらしいランスロットは船室へとやって来た。

「ディアーヌ。帰りは、二日間掛けて帰ります。そのつもりで居てください」

 帰って来たランスロットは、灰色の騎士服を脱ぎあっという間に上半身裸になった。

 一線を越えたばかりとは言え、私は直視に慣れているとは言えない。艶めかしい鍛え抜かれた彼の身体は筋肉の配分も申し分なく、美術館に芸術品として飾られてもおかしくないと個人的には思う。

「……帰りは、どうしてすぐに帰らないの?」

 私はゆっくりと体を起こして、ベッド際に腰掛けたランスロットの隣に座った。

 なんとも刺激的な肉体を晒す彼は、とりあえずこれからの流れの説明を私に先にしてくれるようだった。

 ジェルマンが私たち二人を誘拐し国外脱出を謀ろうとしていた船より、段違いに速度を出せる軍船に乗っている上に、追いかけている時の風の騎士の巻き起こす追い風は凄かった。

 あの速度で進む事が出来るならば、一瞬でレジュラスに帰港出来てしまうはずなんだけど、何かそれが出来ない事情があるのかと私は首を傾げる。

「コンスタンス殿下は……帰れば、当分の間激務にならざるを得ないので」

 ランスロットは私にレジュラスまですぐに帰らない理由を皆までは、言わなかった。

 何処でも働いた経験のない私でもわかることだけど、これは全員で口裏を合わせて「こういう事にしておこう」という類のもの。

 即刻帰国をしてしまえば王太子たるコンスタンス殿下は、元々は大臣でもあったはずのファーガス・ジェルマンを捕らえ、本人からも彼が何かを企んでいたという真相を探り出さねばならない。

 とても面倒な案件の総指揮を取らねばならぬ上に、通常の政務だって彼を待ち構えている。

 すんでのところで救い出すことの出来たラウィーニアと、多忙な生活に戻る前に二人で少しでも過ごしたいと願うのは、仕方のないことなのかもしれない。私にとっても、とても納得出来る理由だった。

「……私も。こうして船に乗って海に出るのは初めてだったから、少しの間とは言え船旅が楽しめて嬉しい……ジェルマンは捕らえられて、こちらの船に?」

 私はすぐ隣にあった太い腕を抱きしめて、顔を寄せた。

 頬に直接当たる温かい人肌に、心が落ち着く。それに、こうしてランスロットの彼そのものの匂いを嗅いで、なんだか不思議なことだけど、ここに確かに彼が居るという強い実感も得ることが出来た。

「重犯罪者の行く末は、あまり……聞かない方が良いですよ。貴女の可愛い耳には、そぐわない話だと思います」

 そうして、彼は私の耳にそっと手を当てた。確かに、あのジェルマンはコンスタンス様を激怒させたと言っても過言ではない訳だから……今柔らかなベッドに入っている訳がないよね。

 だからと言って気になる事を聞かなかったら聞かなかったで、私の豊かな想像力が無駄に働いてしまう訳で。悪事を仕出かして、誰にも文句は言えない自業自得だとは言え……彼の計算では、敵対する国まで逃げ切れるはずだったのだ。

「ねえ。ランスロット。後で説明してくれるって、さっき言っていたでしょう? どうして、私たちが捕らえられている船を追うことが出来たの?」

 こうして心身共にどうにかなる前に助けて貰えて……それは、本当に不幸中の幸いで本当に良かったんだけど私はそれがとても不思議でならなかった。

 私とラウィーニアは、少しでも希望があれば彼らを信じたはずだ。けれどあの時は、間違いなく絶望的な状況だった。

 陸路ならば絶対に隠せない足取りを追い、逃げそうな道筋を追いかけてという手も考えられる。けれど、大海原の中には、どこを通行せよと言う目印がある訳でもない。

「……あの魔女と、何か話をしたんですか?」

 ランスロットの言葉に、私は不意を突かれて驚いた。

 なんていうか、このまま甘い雰囲気そのままにそういうことに雪崩れ込んでしまうのかもしれないと思っていた。けれど、彼が言った言葉と私がなんとなく想像していたこととの落差が酷い。

「え……魔女? もしかして、東の森に住んでいるグウィネスの事?」

 箱入りと言って差し支えがない貴族令嬢の私が、唯一知っている魔女と言えば、ランスロットが妙な呪術をかけられた時に助けてくれたあのグウィネスしかいない。

「そうです。何か、話しましたか?」

 ランスロットの整った顔が、徐々に近付いてくる。とても眼福な光景ではあるものの、押しの強い詰問口調に見惚れている場合ではないと思い直す。

「……特に、何も。私と護衛のために来ていたクレメントの二人が、元々付き合っているのを聞いて面白がっていたことと……彼女が東の地ソゼクを出ることになったのは、何か色々あったって聞いたくらいしか……彼女とは、話してはいないと思う」

 私はついこの間の出来事の一連の記憶の中から自分がグウィネスと交わした言葉を、なんとか思い出していた。

 でも、どれだけ思い返したとしても、彼女から特に何か問題のあるような事は言われていないと思う。

 筆頭魔術師のリーズからとても気難しい魔女だと聞いていたのに、話しやすくて親切だったことがとても意外だった事くらいしか。

 何故、彼がこんな事を聞くのかを理解出来なくて私は首を傾げた。きょとんとした様子を見て間近にまで迫っていたランスロットは毒気を抜かれたのか、小さく息をついた。

「念のために、言って置きますが。あの魔女は、僕の昔の知り合いです……ですが、僕が一番に愛しているのは、ディアーヌなので」

「え……? 待って。それって」

 その言葉を聞いて、きっと誰もが思うであろう疑問を発しようとした唇は、彼の柔らかな唇によりすぐに塞がれた。

 身体をもとろけてしまいそうになるランスロットとのキスの感覚は、一度味わったら抗い難い。もっともっとと、快感を欲する本能が求めてしまう。

 でも、どんなに気持ち良かったとしても、誤魔化されないという強い意志は大事だと思う。小さな不信の芽は、その時に目を瞑ったとしてもやがて顔を出すもの。

 私が最低最悪な理由で声を掛けて来たクレメントと唯一付き合って良かったと思う事は、そういった経験は一度失敗しないと身にならないというのを学習したから。

「ふはっ……はあっ……ま、待って! もうっ……ダメ。ちょっと待って」

 唇を離したと思えば、すぐに首に熱い舌を這わせ始めたランスロットに私は制止の言葉を掛けた。

 頭の中では彼が先ほど出した情報は、絶対に警戒すべきだと頭の中の全私が満場一致で可決している。

 そういえば……グウィネスを最初に見た時、私はびっくりしたはずだった。

 とても美しくて、まるで造りもののような人形を思わせるような人。目の前に居る美形で名高いランスロットの隣に居たら……とっても絵になりそうな人。

 女の勘っていうか……その時に、幾つかの小さな点が線で結ばれた瞬間だった。

「やっ……もうっ……待って。誤魔化さないで。もしかして……グウィネスって、ランスロットの元恋人なのっ?」

 私は彼に流れるようにベッドに倒されながら、ランスロットの端正な顔を見上げた。その薄い水色の目の中にあるのは、多分……動揺と、恐怖と……何か、わからない。葛藤しているようにも、見える。いっそ見事だと手を叩いてしまうくらいに、感情の見えない無表情だけど。

 私が前にクレメントと付き合っていたように、ランスロットと彼女が以前付き合っていたとしても別に何の問題もない……こうして、愛し合う快感の中で何かを誤魔化そうとするのも、変な話だとは思う。

 何か……ランスロットには、私に対し言い難い理由などがあるのかもしれないと疑ってしまうのは必然のことだと思う。

「……そうです。ですが、僕たちは……余り、良い別れ方をしていないので」

 ランスロットは顔を私の間近に寄せつつ歯切れ悪く、そう言った。

 どうにも……想像がつかない。

 目の前の彼は、例え今より歳若かったとしても……クレメントみたいな、あんな考えなしな最低な事をする訳がない。

 というか、気に入らないからってライバルへの嫌がらせで、あんな短慮でバカなことする人はクレメント以外思いつかないけど。

「……それって、私には言えないような事なの?」

「そういう訳では、ありません。ですが、余り知られたくもありません」

 言えなくはないけど、あまり言いたくない。

 私は自らの身体の上に両側に手をついて覆うようにして居るランスロットを、じっと見上げた。

 自分は何も悪いことをしていないとは、思っているけど……今付き合っている私には、知られたくないと思っている?

「……どうして私に言いたくないのか、聞きたい」

 私は自分の上に居るランスロットと、真っ直ぐに目を合わせた。

 クレメントと付き合っていた時にも、こうして相手に疑問に思うこと気になることをひとつひとつ丁寧に乗り越えていけていたら……と教訓を得た私は、この疑問に応えてくれるまでは、例え誘惑の塊のような彼だとは言え、こういう事はしないという決意を固めた。

 恋人とどうしても別れたくなくて、流されて。言いたい事を言わないという無駄な我慢を続けた結果がどうなるかは、私の初恋の末路で察して欲しい。

 ランスロットは、無言でこちらをじっと見つめるばかり。私にその事を話してしまうことで、何かの不都合があったとしても……きちんと知っておきたい。こういう事が気になってしまって、眠れなくなってしまいそう。

「何も言わないのなら、私に触らないで」

 膠着してしまった展開に我慢ならずに彼を見つめたままでそう言うと、ランスロットは一瞬目を見開いてから大きく息をついた。

「それは、困る……過去が気になります?」

「ええ。とても」

 言葉の応酬には負けないという強い気持ちが伝わったのか、どうなのか。彼はまた、二回目のため息をついた。

 彼に今グウィネスに対して何の気持ちもないのなら、何の問題もないはずなのにと思うと渋い表情になってしまうのはどうしようもない。

「これは、先に言っておきますが……僕自身は、何の言い訳もするつもりもありません。何も知らなかったとは言え、浅慮でした。婚約者の居る女性にそうとは知らずに声を掛けてしまったのは、事実です」

「え……グウィネスって、婚約者が居たの?」

 ぽかんとして、間抜けな顔になったと思う。でも、ランスロットは表情を変えずに淡々と話を進めた。

「彼女は東の地では……魔力が強いある有名な一族の娘で、権力を持っている族長の息子との縁談が幼い頃から決まっていた。彼女はそれがどうしても嫌で、レジュラスの東方にあるウルセンという都市に逃げて来ていたんです」

「……そこって、新人騎士の……」

 ウルセンという地名はクレメントから、何度か聞いたことがあった。

 この国の騎士学校を卒業した新人たちは、すぐに能力別に各騎士団に振り分けられることになる。彼らは王宮騎士団に入団した訳だけど、かの騎士団ではすぐにウルセンにある育成機関に送られ、まだ殻のついたひよこ状態の彼らはそこで一人前の騎士になるべく厳しく扱かれるらしい。「もう二度と戻りたくない」と言っていたのは、クレメント談。

「そうです。ウルセンの訓練施設に居た頃の話です……僕も、一時期投げやりな気持ちになっていた期間がありました。そこで、施設に弁当売りに来ていたグウィネスと知り合いました。幸いどう転んでも爵位が回ってくる訳ではない僕には、家族は何の期待などもしていない。家を出て騎士として身を立てていくつもりだったので、貴族の身分も捨てるつもりでいました」

 暗に当時のランスロットはその時に付き合っていたグウィネスと結婚するつもりだったと聞いて、胸がぎゅうっと絞られたような気がするくらいに複雑な気持ちにはなった。私だって、クレメントと付き合っていた時は彼のことが好きだった訳だし……結婚するつもりでいたことは、あったけど。

 お互い様だからと言って、嫌な気持ちを抑え切れる訳でもない。

「グウィネスは、確かに思わず声を掛けてしまうくらいの美人だよね……」

「僕は、ディアーヌが一番好きですよ」

 彼の過去にどうしても納得し難くて拗ねてしまった私が、ぽつりとこぼした言葉に彼は完璧な返しをした。

 まるで人形のような容姿を持つ彼女より、彼に自分の方が好ましいと言われて嬉しくない訳が……なかった。にやついてしまいそうな口元を、慌てて引き締める。

「本当に。誰よりも愛しています。ディアーヌ」

 ランスロットは、じっと見つめて甘い言葉を重ねた。彼が面白がっているような空気も感じる。さっきの言葉を聞いて、舞い上がりそうだった気持ちがバレてしまっていた。

「……それを言えば、何でも許されると思っているでしょう」

 そう言うと、彼は思わずといった様子でふわっと笑った。とてもとても珍しいランスロットの笑顔に、胸がきゅんと高鳴った。頭の中では、過去は過去だし今この場は流されても良いんではないかという強い勢力が出て来た。

「許してくれます?」

「まだ、話は終わっていないけど?」

 こうしてわざとつんつんした振りをしても、一度崩れてしまった緊張感はもう戻らない。確かに気になることは聞いたし、そういう時に言って欲しい言葉はもう貰った後だし、これからの展開がどうなるかと期待してしまう。

 ランスロットが、防御するには頼りない生地の寝巻きを着ている私の胸の上に大きな右手を置いた。ふわっと彼がそこに触れるだけで、甘い期待が心をよぎる。

 そういうのも、きっとランスロットには全部読まれている。

「……彼女とは三ヶ月ほど付き合いましたが、突然やって来た婚約者を名乗る男性に殴られて終わりました。まさか、グウィネスが……あの婚約者から逃れてレジュラスに来ていることは、知りませんでした。東の地から亡命に近い形で魔女が一人住み着いたということは、一応職務上の情報としては知っていましたが」

「その情報を聞いて、もしかしてって思わなかったの? 東の地から魔女がこちらに亡命するなんて、よっぽどの事なのに」

 レジュラス東方にある通称東の地と呼ばれる国は、余所者は受け入れず閉鎖されている。彼ら独自の固有の文化が栄え、他の国とは一線を画している。とは言っても、大国レジュラス以外とは国境を接していないし、歴代の国王の方針は「あの場所には決して手を出すな」という話だから、あちらが出て来ない限りは彼らに会うこともない。

 魔力を持つ特定の人のみが使える魔法とは違う呪術と呼ばれるものを使用出来るのも、彼らだけだと言われている。

「これを言ってしまうと……なんて薄情だと言われるかも、しれませんが」

 薄い生地を隔てて敏感な胸に触っているランスロットの右手は、動きそうで動かない。そこ以外の場所には触れられていないというのに、まるで彼の身体全体に包まれているような気もして来た。

「早く言って」

 言葉を止めた彼に焦れた私は、我慢出来ずに言った。

「もう僕はディアーヌの事しか、考えられなかったので」

 何か熱いものが込み上げて目が思わずうるっとしてしまったのは、仕方ないと思う。きっと……私は何かを不安に思ったとすれば、こうして彼からの確かな愛情を示して欲しい。そうして、前に進んで行きたい。

 だから、私は自分で腕を伸ばしてランスロットの首裏に手をかけた。彼の唇に軽いキスをした。ふわっとしている記憶に間違いがなければ、これが人生初の自分からしたキスだと思う。

 ランスロットは……こんな顔をしてと言っては何だけど、彼の性格的に尽くすのが好きなのかもしれない。だから、前の恋人にだって、彼女の思うような快感をあげていた。だから、きっと前にした時も、彼が感じさせるのが上手だと思ったんだ。

 ランスロットと私の二人は、互いにこれが初恋ではない訳で。彼の前の恋人とのあれこれを想像して複雑な思いになってしまうのは、如何ともし難い。

 こういう事を、大好きなランスロットとグウィネスがしてたかと思うと、心模様を写す水面が複雑に湧き立ち一斉に「彼は私だけのもの」と言う、頭の中は満場一致な全員賛成な意見になる。

二人で熱い夜を過ごしたあと、私は彼の腕枕で眠りそうになっていた。

「ランスロットは私のもの……」

 ぼそりと呟いた言葉に、目を閉じていた彼は顔を上げた。

「それは、間違いない。どうして?」

「確認したかったの。私以外と、そういう事したら……」

 その後どうするかを言うか、迷った。すごくすごくとんでもない要求が出来るようにしたい気もするけど、それは彼が絶対しないようにしようと思うような事にしなければとも思った。

「したら?」

 ランスロットは、私が次に何を言うかを楽しんでいる。絶対に彼はそういう事はしないと信じてはいるけど、不確かな恋愛関係というのはいつも不安が付き纏うもの。

「別れる」

 普通の要求だったかなと思いつつ言ったら、ランスロットは目を見開いて驚いていた。

「別れたくないので、絶対にしません」

 キッパリと、そう言い切った。呼吸を合わせて、抱き合う。離れる時の事なんて、今は考えられない。

 言葉でも意識の中でも、なんでも良いから。ランスロットは私だけのものだと、そう刻んで置きたかった。

 誰よりも、独占したい。心から溢れそうで抑えられない気持ちは、きっと一生落ち着かない。

 だって、私たちは人間だから。互いの意識を保ったまま溶け合ってひとつになんて、絶対になれないし。

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