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破れた恋に、火をつけて。〜元彼とライバルな氷の騎士が「誰よりも、貴女のことを愛している」と傷心の私に付け込んでくる〜 第五話

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

05 交換条件

「ごめんなさい。ディアーヌ!」

 ジェルマンに海に攫われて帰って来てから翌日のこと。私は早朝から、いきなり自室にやって来たラウィーニアに、開口一番大きな声で謝られ驚いた。

 もちろん。彼女は私ととても近い親戚だし、幼い頃から慣れ親しんでいる。ハクスリーの邸に来訪する頻度は、他のお友達と比較してもとても高い。

 けれど彼女は、礼儀作法を完璧にこなす公爵令嬢だ。

 来訪の前には先触れの手紙は欠かさないし、時間はきちんと貴族の訪問に最適とされる時間を選んで訪れていた。

 だから、今回のように私がまだ起きたばかりで、身支度も整えられているない状態の時に来ることは、今の今まで一度もなかった。

 けど、クレメントに明かされた真実がショックで、部屋に篭っていたのはまた別の話だ。あれは特別。

「え……何? 何か、あったの? ラウィーニア」

 自分付きの何人かのメイドに手伝って貰って身支度をしていた手を止め呆気に取られたままの私に近づき、ラウィーニアは苦い表情をして言った。

「落ち着いて、聞いて。ジェルマンに攫われた私を救うために、コンスタンスは東の森に住んでいる魔女に対して、場所を教えてくれたら自分に出来ることならなんでもするという、とんでもない条件を提示したらしいの。本当に、信じられないわ。確かにあの時は私たちに最悪の事態も考えられたとは言え、一国の王太子の立場に居る人間がすることではないもの……本当に、ごめんなさい」

 自分に出来る事ならなんでもするからという条件は、切羽詰まった何かの報酬としてだとしても、使うべきものではないとは私も冷静に思う。

 特にコンスタンス様は王太子という重い責任ある立場で、数え切れない国民の人生を背負っていると言っても過言ではないのに、

 もし王位を譲れと要求されてしまえば、彼はどうするつもりだったんだろうか。

 けれど、その強い焦りこそが彼が最愛のラウィーニアを失うかもしれないという恐怖に起因したものだとしたら……。

「コンスタンス様は、本当にラウィーニアを愛しているのね。最初、ジェルマンが貴女のことを狙った理由が本当に良くわかるわ。でも、なんでそれが私に謝ることに繋がるの?」

「……グウィネスは、彼の部下であるランスロットとの婚約を希望したわ」

 私がラウィーニアが言いづらそうに発した言葉を頭で理解するのに、結構な時間を要したと思う。でも、もしかしたら一瞬だったかもしれない。今となってはわからない。

 私は頭に浮かんだ疑問を、口に出すのに精一杯になったからだ。

「もう、別れているのに?」

 別れている恋人と結婚を望むなんて、考えがたい。けど、現に望んでいる人が居た。

「そうよ。当の本人であるランスロットはこれを聞いて、すぐさまディアーヌが居るからと、毅然と拒絶したわ。でも、上司にあたる王太子に逆らったとなれば、彼が王宮騎士団に所属し続けることは……これで、難しくなるでしょうね」

 ラウィーニアからの現状の説明を聞いて、普通であれば心の奥底から湧き上がるはずの熱い怒りなどは不思議と浮かんでは来なかった。

 他でもないランスロットが自身が今まで彼が苦労して積み上げて来たものを捨ててでも、私と居ると言ってくれたせいかもしれない。

「私とは、付き合っているだけで婚約などもしていない。その立場では、コンスタンス様も、そう言うしかないでしょうね」

「……叔父様がクレメントとのことで慎重になった事が、これで裏目に出てしまったわね。正式な婚約を交わしているなら、それに何かを命じる事は王族でも難しいもの」

 ラウィーニアは、不機嫌な表情を崩さないままで言った。確かに既に私と婚約しているのなら、それに口出しすることは王太子と言えど越権行為だろう。

「……それでコンスタンス様は、なんて?」

「命が危ないと思えば時間がなく短慮で言ってしまった事とは言え、自分の王太子という責任ある立場で先に交わしたグウィネスとの約束は反故に出来ない。だから、どんな条件でも呑むと言ったのは自分なので、彼女の要望が叶うようには努力すると」

「……要するに、自分の権力が届かないところであれば、ランスロットにはもう何も言わないということね」

 確かに王太子であるコンスタンス様が、グウィネスとの約束を正当なる理由なく反故にすればレジュラスという国の信用を損ねることにもなりかねない。

 だから、彼はグウィネスに努力すると言ったんだと思う。自分が命令を課せない相手に対しては、何も出来ないと。

「けど……普通だったらランスロット本人が断ったら、それで諦めない? グウィネスは一体、何を考えているのかしら。そんなやり方で自分に心を向けていない彼を手に入れたとしても、決して幸せにはなれないのに……」

 育ち良く真っ直ぐな性格のラウィーニアは、こういう正当ではないやり口で彼を手に入れようとするグウィネスの行動が理解出来ない様子だ。

 綺麗な顔を、不機嫌そうに顰めた。でも、それは仕方ないことだと思う。彼女には、きっと味わったことのない気持ちだと思うから。

「それでも良いからと……自分の元に戻って来て欲しいと思う気持ちは、私には理解出来る気がするわ。ラウィーニアはコンスタンス様が初恋で、一度も失恋がしたことがないからわからないと思うけれど、相手がもし戻って来てくれたらなんでもしたいと思うくらいに、失恋した時は自分が何の価値もないような人間に思えるもの。それに、ランスロットとグウィネスの二人は、嫌いで別れた訳ではないから。だから……彼さえ戻って来てくれたら、なんとでもなると思っているのかもしれない」

「何年も前に別れたはずの男性を、こんな風な卑怯な手で自分のものにしようだなんて……本当に、許し難いし理解し難いわ。あのランスロットが、そうしたくなるほどに魅力的な男性だというのは認めるけど、これって完全に反則行為でしかないもの。けれど、ランスロットが王宮騎士団に残ろうとすれば……グウィネスを、選ぶしかないわ」

「……きっと、愛された記憶が綺麗なままなのよ。私みたいに、粉々になって壊れたりしていない。だから、その続きを夢見てもおかしくないのかも」

 淡々とした私の言葉を聞いて、ラウィーニアは物凄く嫌な顔になった。

 どう言って彼女の行為を美化しようが、ランスロットに彼が努力して獲得した立場か私かを選ばせる二択を突きつけているという事実は変わらない。

「グウィネスはどんな理由で、ランスロットと別れたの?」

「魔力の強い彼女には、東の地ソゼクの族長の息子という婚約者が居たそうなの。その人が嫌で逃げて来たらしいんだけど……その男性が現れ、殴られて終わったと、ランスロットから直接聞いたわ」

「……レジュラスに仕える一騎士の立場で、東の地ソゼクの族長の息子と事を構えるのは、確かに自殺行為ね。その時の彼は、懸命な判断をしたと思うわ……でも、だからと言ってあのランスロットは結婚を嫌がっていた恋人を見捨てるなんて、するかしら?」

 ラウィーニアは、不思議そうな顔をした。私も彼女から聞いて、それに気がついた。

「確かに、変よね。グウィネスが、権力者である族長の息子と結婚するのを嫌がっているのなら。その時には何も出来ないにしても、何か良い方法を探るとかは……するかも」

 ランスロットは今では筆頭騎士に上り詰めるほどの実力と魔力を持っていた訳だから、密かにグウィネス一人だけを逃すなどという事も出来たはずだ。

「そうよ……族長の息子が現れて、殴られてからグウィネスと別れることになったんでしょう? ランスロットがその時にもっと、粘らなかったのは、何故なのかしら」

 私たちは、微妙な表情のままで二人顔を見合わせた。

 ランスロットの性格上、悲劇に見舞われる恋人を放り出すということは考え難い。私が傷つくなら自分が傷ついた方が良いと、クズなクレメントの嫌がらせに耐えていた人だから、崇高な自己犠牲の精神も持ち合わせているだろう。

 そして、私はある事実に、はたと気がついた。

「……ねえ、ラウィーニア。東の地ソゼクの呪術って、記憶を操作する事も出来たよね……?」

 私がそう言えば、ラウィーニアは首を傾げた。一体何を当たり前の事を言い出したのかと訝るように。

「そうよ。だから、貴女がグウィネスの元へ行って、ランスロットの記憶を取り戻したんでしょう?」

「私も、あの時にリーズから詳しい説明を受けたわ。その時に好きな相手へと向かう好きという気持ちも、相手に関する記憶も失ってしまう呪術だと」

 何を言いたいのかを、聡明な彼女は皆まで言わせずに察してくれたらしい。

「もしかして、ランスロットは……当時の恋人であるグウィネスに対する気持ちを、彼女の婚約者に失わされて……だから、彼女を追い掛けなかった?」

「単なる憶測に過ぎないけど、ある程度の記憶の改竄もあったかもしれない。族長の息子なんだもの、それなりに魔力を持っているでしょう?」

「待って。そうしたら……グウィネスは、彼に付き合っていた当時の気持ちと記憶を、取り戻す事が出来るわ」

「そうよ。それだわ。だから、今付き合っている私が居ても、諦めないのよ。だって、その時には自分が一番に愛されていたんだもの。私にも誰にも、負けるはずがないと思っている」

 ラウィーニアはそれを聞いて、大きなため息をついた。

「なるほどね。グウィネスの無茶苦茶な要求も、それでなんとなく理解が出来たわ。別れた男に執着している訳ではなくて、彼女の中では彼女に恋をした記憶を失っているだけの現在進行形の恋人なのね」

「そうよ。記憶さえ取り戻せば元通りだと思っているわね」

 私が肩を竦めてそう言えば、ラウィーニアはちょっと面白そうな表情をしている。

「どうやって、戦うの? ディアーヌ。きっとグウィネスは未だにランスロットの事を自分の恋人だと、思っているわよ」

 幼い頃から良く知っている彼女は、こういう時に私が逃げ出すことなく、グウィネスと戦うという事をわかっている。

 どんなに美しかろうが、お金を持っていようが、恋は意中の人に選ばれた方が勝つ。だとすると、もし後々後悔したくないのなら、彼に選ばれる努力を惜しまなければ良い。

「私のやり方で戦うわ。だって、喧嘩を売って来たのは向こうだから。私は大国レジュラスに仕えるハクスリー伯爵の娘なのよ。彼女のように便利な呪術は使えないけれど、私のような立場の人間しか出来ない事もあるわ」

 取り急ぎ、必要な下準備を整えた私は親族特権でラウィーニアにお願いして取り次いで貰い、コンスタンス様からグウィネスとの対面の場を用意して貰うことになった。

 一応名目上としては、ラウィーニアと私を救ってくれた恩人を歓迎するための少人数での晩餐会だ。もちろん、氷の騎士ランスロットも出席する。というか、あの時に来てくれた筆頭騎士の何人かも全員来るようだけど、今回ばかりはラウィーニアはクレメントの名前は出さなかった。

 そして当日の晩餐室は、良くわからない緊張感が漂っていた。何とも言えない表情のコンスタンス様も、立場上私に対して何かを言う訳にもいかない。他でもない彼だって、部下に対してある女性との結婚を強いるなどという事は避けたかったはずだ。

「……良く来てくれた」

 王太子コンスタンス様は、この前の凶事の恩人である魔女グウィネスが侍従に案内されて部屋に入って来たのを見てゆっくりと立ち上がった。もちろん、身分的に下に当たる私たちも彼を立たせて自分が座っている訳にはいかないので、揃って立ち上がる。

 晩餐室に揃って居た彼女以外の全員が自分に対して一斉に礼を取ったものだから、グウィネスは驚いて固まっている様子だった。彼女の出身地である東の地ソゼクはこういった堅苦しい礼儀作法はないようだし、正装した王族や貴族が何人も自分に向かって礼をすれば驚き戦いても仕方がない。

 こうした場に出席するために、招いた本人となるコンスタンス様が用意するように命じたというベージュのドレスを身に纏っているグウィネスは、本当に美しくて等身大の人形のようだった。

 この人が自分の恋のライバルだと思うと、胸が苦しくなってしまうのも仕方がないと思う。恋愛という戦場で外見が良いというのはかなり有利だし。

 いつもより気合いを入れて着飾って来た自分だって決して彼女に負けてはいないとは思いたいけど、異性の容姿の好みは人それぞれ。ランスロットが、一番だと言ってくれれれば嬉しいけど。

「……お招き、どうもありがとうございます」

 そう感謝の言葉を口にしたグウィネスは、いかにも先ほど習ったばかりと言った様子のぎこちない礼を以て私たちに応じた。

「どうぞ、楽にして。晩餐の前に、少し歓談でもしよう……」

 そう言ったコンスタンス様は、部屋の隅に控えていた何人かの楽器を抱えた楽師たちに目で合図をした。

 優雅に奏でられる、弦楽器の柔らかな音が重なる。広い晩餐室の中で私たちは思い思いの位置へと移動して、話し始めた。

 王太子の直属の部下に当たる筆頭騎士の一人であるランスロットは、彼の護衛も兼ねているのだろう。黙ったまま動かずに、コンスタンス様の傍近くに控えている。無表情な彼の元へと足早に移動したグウィネスは、待ってましたとばかりに彼と何かを話し始めた。

 ランスロットの事は別に疑ってもいないし、彼と異性が少し話したとしても、別にどうこう思う必要などない。

 なのに、思わず眉を寄せてしまうくらい嫌だった。胸の中が、気持ち悪くなって締め付けられる。

 そして、私がクレメントと付き合っていた時には、ランスロットはこんな辛い思いをしていたのだと思うとやっぱり胸が痛んだ。

 恋の勝者は、敗者の気持ちなど知る由もない。でも、もし彼の気持ちがこちらにあるのなら、私は絶対に敗者にはならないと誓う。

「……グウィネスは、東の地ソゼクから亡命に近い形でこちらに来た時に、レジュラスがある程度の守護を与える代わりに、東の森を出ることや外部との接触を固く禁じられていたそうよ」

 本日も変わらずに見目麗しい我が従姉妹ラウィーニアは、何気なく私の傍に近付き意味ありげに微笑んだ。

「だから、ランスロットには今まで接触することが出来なかったのね。だけど、どうしてもと言うのなら、彼に会うだけでも……森を出ることだって、出来たはずでしょう?」

「海に出ていたというのに攫われた私たちの位置がわかったのは、グウィネスが探していたディアーヌに会っていたからだそうなの。だから、彼女を探す人物も誰かの居場所を特定出来る能力を持っていると考えられるわ。東の森では、それを撹乱するために、幾重にも色んな魔法を施していたそうよ。あの森で移動魔法が使えなくなっているのも、そのひとつだったみたいね」

「……今まで、どんなに会いたくてもランスロットと会えなかったんだから。会えた喜びは、ひとしおでしょうね」

 チラッと彼らの方を見た私とラウィーニアが二人で話していると、凛とした声が部屋に響いた。

「僕は、他の何を捨ててもディアーヌを選びたい」

 ランスロットは、彼女に対してはっきりと引導を渡したらしい。彼の前に居るグウィネスは、両手を握り締めて顔を歪めて悲しそう。

 けれど、選択は今まで彼が積み上げてきたもの、すべてを捨てることになる。

 彼は、その選択をいつか後悔するだろうか。今を生きる誰だって未来のことは、わからない。私も、後悔したくない。彼から、何も奪いたくない。でも自分は、身を引きたくない。

 だから、彼との恋を守るために自分に出来うる限り動くべきだと思った。

 もう……自分が傷つくのが怖くて、ただ怯えてるだけで。何も努力しなかったという後悔なんて、繰り返したくない。

「……ランスロット。私と付き合っていた頃の、記憶を失っているだけなんだよ。あの男、プルウィットが記憶を操る呪術をかけて……」

「もし、そうだとしても。今の僕には、もう必要ないものだ。グウィネス、人は時間が経てば変わる。僕は君と付き合っていた人間ではなくなった」

「……そんな。私は……信じていたのに」

 グウィネスは震えて悲しそうな声で、そう言った。失恋したことのある私にだって、彼女の気持ちは想像出来なくはない。

 無理矢理別れさせられた恋人に会いに来たら、彼にはもう違う恋人が居て冷たい対応。

 とても、辛い思いだとは思う。

「グウィネス。この前は、助けてくれてありがとう。私から、話をさせて貰って良いかしら?」

 静かに一歩踏み出した私に、その場に居た人から注目は集まった。グウィネスは肩をびくりとさせてから、こちらを振り向いた。

「……お嬢さん。こんな卑怯な事をした私を軽蔑するだろうね」

 ゆっくり一歩一歩近付いて行く私に、グウィネスは悲しそうに言った。

 彼女が悪人ではないことは、私にだって理解している。風呂や服を貸して貰ったし、とても親切にもして貰った。自分の恋人を奪おうとされていなければ、良い友人になれていたかも。

「いいえ。恋愛に、ルールは無用だもの。だから、私も貴女と同じ事をしようと思うの」

「……同じことを?」

 グウィネスは、私の言葉に呆気を取られて驚いている。

 私は、それを見てにっこり微笑んだ。傍目から見れば虫も殺さぬような貴族令嬢だからって、そう見せてかけているだけで何も出来ない無能ではない。

 着飾るだけが仕事のような私たちにだって同じような立場の令嬢たちと嫌味の応酬をする事だってあるし、誰かが聞けば耳を塞ぎたくなるようなみっともない口喧嘩だってすることもある。

 人が集まれば、争いは付き物。

「コンスタンス様、私とグラディス侯爵家のランスロットは婚約を交わしました。そして、その事実は、明日発行の国営新聞にも大々的に掲載されるはずです。それは公的に動かし難い事実になり、両家の名誉のためにも解消は出来ない。ですから、命の恩人に対する報酬は、申し訳ないんですけれど。別のものにして頂けないかと……」

 私がしおらしい様子でそう言うと部屋に居た面々は、私以外は全員びっくりした表情になった。

 確かに貴族同士の婚約には、ある程度の期間を要し、貴族院に書類を提出してからそれが処理されるまでに時間がかかる。お役所仕事の悪いところだけど、彼らだってそれだけを担当している訳ではないから仕方ない事なのかも。

 けれど、私にはある奥の手があった。

「ディアーヌ嬢。それは済まない事をした。だが、その情報については、僕も初耳だったな。ついこの前まで、君とランスロットは婚約しておらずただの恋愛関係にあったようだが?」

 コンスタンス様は驚きつつも、少し面白そうな顔をしている。何も出来ない伯爵令嬢だと思っていた子が、自分の予想もつかない事をしたんだから当たり前なのかもしれない。

「ええ。特別に許可を頂きました」

 私がにっこり笑ってそう言えば、隣の控室からあるやんごとないお方が現れた。

 この演出は芝居がかって勿体ぶっていると言われても仕方ないけれど、登場方法はあちらのご指定なので、私には責任はないと思う。

「……コンスタンス。いくら婚約者を愛しているとは言え、王太子の立場にあるまじき失態だな」

「父上」

 顔色を変えたコンスタンス様は、慌てて上座を降りた。

 彼の出番の前口上を終えた私もさっと壁際に避けて、威厳を持って一歩一歩歩を進める王に頭を下げて礼を取った。

 この国の国王陛下は、もちろんコンスタンス様のお父様。美形の王太子様の父親は、若かりし頃はさぞや女泣かせだったのだと忍ばれる、レジュラス国王ドワイド陛下だ。

「ディアーヌ・ハクスリーとランスロット・グラディスは、儂が婚約の許可を出した。お前より上の立場の人間がな……そこな、東の地ソゼクの魔女よ。いくら王太子だとしても、この国の貴族院が定めた通りの手続きを経て婚約している男女を引き裂くことは罷りならぬ。諦めよ」

 私たち二人の婚約を急遽取り纏めるために貴族院を急がせるためには、強権を発動出来る存在にどうにか頼むしかなかった。グウィネスと約束した張本人のコンスタンス様に頼めば「自分に出来る限り努力する」という、彼の言葉を嘘にしてしまうことになるから。

 私も貴族なので、陛下に拝謁するに足る身分は持っている。そして、そちらの息子さんの不手際により、自分がどれだけの窮状に居るかを陳情することも可能だったという訳。

 この方法が上手くいかなかったら、また違う手を考えていたけれど。一番に考えついたこの手で上手くいって、本当に良かった。

 威厳を持ったドワイド様の低い声を聞いて、グウィネスは涙をこぼした。女の私でも、肩を抱いてあげたくなるような儚い様子に胸が締め付けられた。彼女の近くに居るランスロットも、きっと気持ちは同じだと思う。

 けれど、彼はじっとして佇み動くことはなかった。

「何か、他の報酬ではいけないのか」

「……ランスロットは、私の恋人です。今は、気持ちも記憶も忘れてしまっているだけで、取り戻しさえすれば……」

 グウィネスは泣きながら、ドワイド様に訴えた。陛下は、難しい顔をしたまま低い声で言った。

「儂にも若い頃に覚えのある事だが、燃え上がった恋心も時が経てば忘れてしまうものだ。先ほど、そこな氷の騎士が言ったように、付き合っていた頃の彼は、もう今は何処にもいないのではないか。次の恋を見つける方が、建設的だと思うが?」

「そんな……」

 グウィネスが悲しそうに項垂れた時に、いきなり大きな窓が音を立てて割れた。

 割れてしまった鋭いガラスの破片が部屋中に飛び散るかと思われたけれど、室内だと言うのに強風が吹き、窓がある側の白い壁に幾つもの破片が飛び散った嫌な音がした。

 多分だけど、大きな船を動かせる程の風量を巻き起こす事の出来る人が守ってくれたんだと思う。

「……これは、これは。レジュラスの王城へようこそ。東の地ソゼクの族長の息子プルウィット・ハーディ。ちょうど僕も、君に会って話をしたいと思っていたんだ」

 飛び込んで来た男性を見て、背後に何人かの騎士を引き連れたコンスタンス様の面白げな声が響いた。

 大きなガラスを打ち破った張本人だと思われる褐色の肌を持つ男は、不機嫌そうな視線をこちらに向けた。私たちの前には、誰かの守護魔法なのか。透明な光る壁が出来ていて、虹色に輝いている。

 我らが王ドワイド陛下は、これからの成り行きを見たそうな素振りを見せたけれど、傍近くに控えていた誰かに早く早くと促されて部屋を出て行った。

 彼と王太子コンスタンス様二人に同時に万が一があれば、このレジュラスは終わってしまうので、いくら強い護衛騎士が居ようとも賢明な判断だと思う。

「グウィネスを返せ。それは、俺の女だ」

 とても威圧的な物言いで、その男は言い放った。

「我が国の元大臣のファーガス・ジェルダンを唆したのは、君だよね? 本人から、証言は得ているよ。真犯人である君の名前を、なかなか出さなくて……随分と、痛く辛い思いをさせてしまったようだが」

「グウィネスを返せ」

「君は僕の婚約者に記憶操作をして、落ち込んでいる隙を何を狙うつもりだった? 魔女グウィネスの身柄と交換条件にでも、するつもりだったのか。レジュラスへの宣戦布告として、取っても構わないよね? 僕も……喧嘩するのは嫌いではないんだ。ヘンドリック、やれ」

 コンスタンス様より短く攻撃を命じられた風の騎士の仕業で、光る風の刃がプルウィットへと向かう。けれど、彼は易々とそれを避けて、より表情を険しくした。

「グウィネス。帰るぞ」

 何度も何度も繰り返す高圧的な言い方で、部屋の隅に居たグウィネスに言った。彼女は顔面蒼白で、震えている。

 予想だけど、グウィネスが幾重にも守られた東の森を出たので彼女の位置を割り出したのだと思う。

 だけど、この王城にまで彼が来るとは誰も予測してはいなかったんだとは思う。王宮騎士団を前にして、グウィネスを連れ出せるなんて、きっと誰も想定してもいなかった。

「……成程ね。単身でこの城に乗り込んでくるだけの能力は持っているのか。僕の言葉が君の耳に届いているのかはわからないが、グウィネスは君が嫌なようだよ。嫌がっている女の子に対して、無理強いは良くないのではないかな?」

 コンスタンス様は、あくまで平静に声を掛けた。追いかけ回しているグウィネスに心から嫌がられているという事実は、この彼にとっては特に指摘されたくはなかったのかもしれない。

 怒りを露わにしたプルウィットの身体からぶわりと黒い靄が舞い上がり、部屋の中に立ち込めた。

 私も光る壁に守られては居たけど、まずいと咄嗟に思った。あれは、絶対にこの前に見た記憶を操るという呪術の発動したものだから。

 けれど、強い恐怖を感じたのは、ほんの一瞬だった。

 すぐさまプルウィットの大きな身体は、透明な棺のような何かに閉じ込められ、黒い靄は彼と一緒にその中から出て来ることが出来ない。

 あっという間の勝敗に唖然としている人たちの中で、ランスロットの淡々とした声が響いた。

「恐らく、あの男の放つ呪術を防ぐには、黒い靄を身体に取り込まなければ解決です。あの時も、出来ればこうすれば良かったのですが……」

 ランスロットがそう言っているのは、きっとラウィーニアの襲われた時の事だ。私は、一瞬の恐慌から我に返り、ほっと大きく息をついた。

「グラディス。よくやった」

 上司であるコンスタンス様に褒められ、ランスロットは軽く礼を取った。プルウィットは、悔しそうにガンガンと何度も氷を叩いている。大きな身体をして、力も強そうなのに氷が破られる気配はない。

 呆気ない幕切れに、言葉が出ない。

「空気穴は?」

 完全に、この状況を面白がっている誰かの声が聞こえた。ランスロットは、プルウィットを閉じ込めた氷の棺にゆっくりと近付いて肩を竦める。

「狭いとは言え、空気は当分保つ。短時間ならば、死にはしないだろう」

「はー……流石氷の騎士。血も涙もないな。まじかー……この季節に氷の中とか、寒そう」

「自業自得だ」

 切り捨てるような冷たい視線と言葉は、氷の騎士らしい。私の前では決して見せない、ランスロットの冷酷な顔だった。

 ガンガンと内部から氷を叩く大きな音が聞こえるけど、あの中に閉じ込められて黒い靄も出すことも出来ない。何の脅威もないのなら、別に恐れることもない。

「残念だな。僕は友好関係を築きたかった」

 本当にそう思っているのか甚だ疑問なことを口から出してコンスタンス様は、グウィネスが居る方向を振り返った。

「魔女殿。それでは、交換条件と行こうか。色々と事情があって、こちら側レジュラスも東の地ソゼクと事を構えたい訳ではなくてね。だが、族長の息子とは言え、許し難い事をしてくれた。よって、僕はこの彼の族長の息子の身柄と交換に、東の地ソゼクの族長に幾つかの要求を呑ませるつもりではある。その条件のひとつに、君の解放を織り込もうと思うんだが。どうかな?」

「……私の、解放?」

「そうだ。君が今まで何処にも行けなかったのは、この言葉の通じない野蛮な男プルウィット・ハーディの存在のせいだろう。君は、僕の婚約者とその従姉妹の二人を救ってくれた恩人だ。何にも縛られない自由を、必ず約束させよう。族長はどんな条件だろうが呑むと思うよ。どんなにバカなことを仕出かす息子でも、親だけは可愛いだろうしね」

 グウィネスは、コンスタンス様の淡々とした提案に涙を流して頷いた。確かにあの乱暴そうで言葉も通じそうにないプルウィットと婚約を定められていたとしたら、私だって嫌で逃げてしまうかも。同情の余地はあると思われた。

 騎士たちは、氷に覆われてしまったプルウィットの周囲に集まりこれをどうしようかと相談しているようだ。

 自分がこれ以上ここに居ても仕方がないと判断した私は、先に廊下に出ていたラウィーニアに手招きされて、部屋を出ようとしたところでグウィネスが私を呼び止める声に振り返った。

「お嬢さん、悪かったね。私も、ランスロットに直接こうして会って、振られて目が覚めたよ……もう終わってしまった恋に縋りついていても、悲しいだけだ」

 グウィネスは切なそうにそう言った。私もそれには、彼女と同意見。

「私は、謝らないわ。絶対に。何があっても、ランスロットは譲らないから」

 きっぱりと言い切った私に、グウィネスはころりと表情を明るく変えて笑った。

「……私も……あの時に、そうすれば良かった。そうしたら、今も彼と一緒に居られたかもしれないね……」

 遠い目で過去を思い出すような彼女に、私は肩を竦めた。

「そうかも。もし、そうだったとしたらね。でも、ランスロットは今は私の婚約者だから。また誰かが何かを言って来ても、きっと返り討ちにするわ」

「お嬢さん、強いね」

 私の言葉を聞いて、グウィネスは大きな声で笑った。本当は明るくて魅力的な人なんだと思う。ランスロットが過去に好きになった人だから、当然なんだろうけど。

「私も、今まで知らなかったんだけど……人って失恋しては、失敗しては強くなっていくみたい。だから、貴女ではなくても誰でも。ランスロットが取られそうになったら、何度だって同じことするわよ」

「……もうしないよ。私は頑張るべき時に、何も頑張らなかった。自分には何も出来ない仕方がないと言い訳をして、誰かとぶつかることからずっと逃げていたんだ。こうして、思い通りにならない現実を受け入れるよ」

 その頃の詳しい経緯は私にはわからないけど、グウィネスには過去に後悔があるみたいだった。

「……これからはもう、自由よ。嬉しい?」

 私が彼女にそう聞けば、グウィネスはにっこり笑って頷いた。

「嬉しいね。絶対ランスロットより、良い男を捕まえてやるさ。そうしたらお嬢さんに、見せびらかしてやるよ」

 そして、グウィネスは、私にぎこちない礼をしてくれた。恋のライバルは潔くて、一番泣きたいだろう時に明るく笑った。素直に、彼女が凄いと思う。

 そうして去って行くグウィネスの後ろ姿を見送っていると、背後から聞き覚えのある低い声がした。

「ディアーヌ」

「クレメント、仕事しなくて良いの?」

 絶対職務中だと思うのに私の元へと歩いて来たクレメントは、私の疑問には答えなかった。

「おいおい。俺との関係を、利用しただろ? 国営新聞が、跡を継ぐ訳でもない貴族の婚約を報じるなんて珍しい。俺とランスロットがそこそこ知られたライバル関係にあり、俺と別れてすぐにディアーヌがランスロットと婚約するということを利用したな?」

 クレメントは苦笑しつつ、そう言った。彼が想像した通りなので、私は肩を竦めて頷く。

「内実の知らない人が私たちを見れば、そう見えることはわかっているし、私とランスロットが正式に婚約を発表する時は時間を空けたとしてもどうせ同じ事になるわ。それに、こんな何の利益にもならないどうでも良い話、半年経てば誰も気にしていないわよ。これまでのこと、全部許してあげるから。これについては、クレメントももう何も言わないでよ」

 私がそう言うと、クレメントは皮肉げに笑った。

「おいおい。お前。本当に……俺と付き合ってたディアーヌ・ハクスリー? 偽物じゃなくて? 逞し過ぎるだろ。俺と一緒に居たときはもっと、可愛くて大人しくて……兎みたいだったのに」

 確かにこの事態が彼と付き合っていた時に起きていたとしたら。その私なら、きっと身を引くしかないと諦めていた。

 王太子からの要請で、恋人が仕事を失うことになるのなら、別れることを受け入れていた。自分から、何も言わずに身を引いていた。万が一の希望に賭けて、勇気を出して王様に陳情なんて出来なかった。

 だから。

「ねえ、クレメント。私ね。付き合ってた時、貴方のこと本当に大好きだったわ。酷く嫌な終わり方ではあったけど、付き合っていた時は……すごく楽しかったもの」

 私が彼を見上げて、そう笑ったらクレメントは赤い目を細めた。

「……俺も。俺も、お前が好きだったよ。ディアーヌ。それに気がつくのが、本当に遅すぎた。俺はお前と別れたことを、これからずっと後悔し続けるだろうな……幸せになれ」

「言われなくても」

 そうして、私たちは二人で笑い合った。付き合っていた頃のように。

「待ちました」

「ごめんなさい」

 数多くの兵士たちがようやく駆けつけて来たその部屋を出て、二人と話していた私を急かすことなく待っていたラウィーニアに私は素直に謝った。

 勝負に挑むかのように双方共に気合を入れて新しいドレスを着たりとお洒落はしてきたものの、どう前向きに考えようにも今夜の晩餐会は中止にならざるを得ないし、城にある彼女の部屋に一度帰った方が良さそう。

 もう用意も済んでしまっているであろう食事の件については、また落ち着いた頃合いにでも誰かに聞けば良い。

 私たち二人は、肩を並べて広い廊下をゆっくりと歩き出した。多数の人が話し合う騒めきが遠くなる。

 レジュラス王城は、何個かの尖塔のある作り。たまに窓から見えるあの塔の先には、誰が居るのかと想像したりもする。きっと、物置きになっていて誰もいないんだろうけど。

「ねえ……私。彼らの話を聞いていて思ったんだけど、グウィネスは本当にずっとランスロットを想っていたのかしら。だって、彼女はあの呪術を解くことが出来るんでしょう? 何故、今まで何もしてなかったの?」

 ラウィーニアは、その部分に引っ掛かったようだった。確かにランスロットに私を思い出せてくれる薬を作ってくれたのは、彼女だ。いくら再び里に帰される危険があろうとも、それを出来たのは彼女だろうに。

「その理由は本人たちにしか、わからない事だけど……グウィネスは、あの時に動いていればと後悔していたようだから。もしかしたら、それと何か関係あるのかもしれない」

 ゆっくりと歩くラウィーニアは、宙を見てここではないどこかを思い浮かべるかのようにして呟いた。

「もし、私がグウィネスだったら……どうしたかしら。私には呪術を解くような薬を作ることは、出来ないし……恋人だった人は、私への気持ちを忘れているんでしょう? もう一度、最初からやり直せば良いのかしら……」

 完璧な答えなんて一生考えても出なさそうな事を、ラウィーニアは深刻そうな顔をして悩み始めた。

「……恋を、もう一度最初から始められるって考え方もあるわよね。だって、一度自分を好きになってくれたんだもの。記憶を失ってもその人本人であることは変わらないんだし、順調にいけば好意は持ってくれるんではないかしら」

「だけど……恋の始まりって、きっかけが一番大事でしょう。婚約者候補だった私も記憶を失ったコンスタンスと、もう一度やり直せと言われても……今と、全く同じ関係にはならないと思うもの」

「コンスタンス様とラウィーニアの二人が辿り着く先って……そうそう変わらないような気もするけど……」

 コンスタンス様は、どんなことがあったとしてもラウィーニアを溺愛して離さないことは絶対に間違いない。私の隣をゆっくりと歩く従姉妹を見た。見た目も美しくて聡明で、いつも機嫌良く微笑んでいる。彼女の言葉の本当の真意など、すべてを見透すことの出来ない私にはわかるはずもない。

「ディアーヌとランスロットの二人の経緯を近くで見て聞いていて、私もコンスタンス以外と恋をしたらどうなるのか。この前に、少し考えたわ。私たちは奇跡的に幼い頃の初恋が続いているけれど……未来には、何が起こるかなんて誰にもわからないもの」

「……ラウィーニアが、コンスタンス様以外と恋するのは難しそう」

 コンスタンス様が美形で何もかもを手にしているという王太子様だからあの人より魅力的な人を見つけるのが難しそう、という理由だけではない。

 ラウィーニアのことを彼が何より愛しているのは、近くで見ているこちらがむずむずして恥ずかしくなってしまうらいに伝わってくるから。彼の元からは、きっと一生離れられないと思う。

「心変わりは、人の常よ。ディアーヌ。彼の気持ちが三年後も今と全く同じだとは、誰にも確信をもって言えないわ」

「もしそうだとしたら、私はランスロットに、心変わりされないように頑張ることにする。もし、それで彼に未来で捨てられるなら、何の後悔がないと思うくらいに。そうしたら……きっと次も、良い恋が出来ると思うの」

「絶対に、捨てませんよ」

 背後から出し抜けに聞こえたランスロットの声に、ラウィーニアはふふっと私に微笑んで片手を振って先に進んで行った。

「ランスロット。お疲れ様。さっき、確かに凄く格好良かったけど……なんか、圧倒的に強過ぎて、あの人がちょっと可哀想になった」

 先ほどの呆気ないとも言える戦闘の幕切れに対して、私は素直な感想を言った。

「どうして。僕が、ディアーヌを捨てる事になるんですか」

 無表情だけど、ランスロットは静かに怒っている。短い付き合いの私にも、わかりにくい彼の感情が理解出来るようになってきた。

 こうして、少しずつだけど彼をだんだんと知っていくのかもしれない。

「……グウィネスは、過去を後悔してた。自分は頑張らないといけないところで頑張らなかったって。どういうこと?」

 ランスロットは、私の疑問を聞いて大きく息をついた。

「あの頃の僕たちは……結局は、何も考えていなかったんです。若く無鉄砲だった僕と、婚約者から逃げたかっただけのグウィネス。何度か、彼女に言った事があるんです。逃げ回るのではなく、腹を割って話し合った方が良いのではないかと。彼女は、一族には絶対にわかって貰えないの一点張りで。あの男が来た時に、僕は全てを捨てて海を渡り追いかけてくることの出来ない遠くへ逃げようと言いました。だけど、グウィネスはそれを嫌がった。彼女との事を思い出そうとすれば、何もかもを拒否されたという事実が頭を占めるんです。自分は……最後に、彼女には求められてはいなかったと」

 すべてを捨てて覚悟を決めて逃げようと言ったけれど、彼女はそれを喜ばなかったとしたら……その恋は終わったとしても、仕方ないことなのかもしれない。

「そうして、グウィネスは大人しくあの人と東の地ソゼクに帰ってしまうこととなり……二人は別れたのね」

「……僕はその頃には、若く何の力も立場もなく無力でした。だからこそ、次こそは何があっても、愛する人を守り通せるように強くなりたいと思った……ある意味では、当時に勝てなかったあの男に感謝もしています」

「ランスロット……彼女への気持ちを、思い出したい?」

 私がそう聞けば、ランスロットを首を横に振った。

「彼女を好きだったという過去の事実は、確かに何があっても変わりません。嫌がっていた人間から解放され、幸せであってくれればと……思います。ですが今の僕が、愛しているのはディアーヌなので」

「グウィネスは、ランスロットの手を振り払ったことをずっと後悔していたのね……」

 彼女はあの時に、頑張れば良かったと嘆いていた。でも、それは次に活かすしかない。時間は決して戻らないから。

「生きていれば、後悔は付き纏います。絶対に間違いがなかったと、言い切れるような選択は難しい。僕も……ディアーヌの社交界デビューの日に、時間を巻き戻したいと何度も願いました」

 彼の水色の目は、まるで透き通る氷のよう。それが温められて解けたら綺麗な涙になって、だからこうしてこぼれ落ちるのかもしれない。形の良い頬を滑り落ちた一粒の涙に、私の目は吸い寄せられてしまった。

「あの……勝手に、婚約してごめんなさい」

 そう言えばこれって謝って済む事なのかなと思いつつ、上目遣いで私は言った。そう。先ほど私がやったことに対して驚いていたのは、婚約したお相手であるランスロットも含まれていた。

 どうにかして事前に確認しなくてはと思っていたけれど、物凄く多忙な彼と連絡が取れなくて時間がなかったから。下手な言い訳にしかならないけど。

「いいえ。頼りになるディアーヌの機転のおかげで、僕は騎士を辞めなくて済みそうで助かりました……兄のサインですか?」

 私文書偽造を被害者ご本人にお許し願えたようで、私はほっと胸を撫で下ろした。

「そうなの。当主のサインと一緒に、貴方の名前も書いて貰ったわ」

「全く問題ありません。可愛くて大人しそうな雰囲気のディアーヌが行動的過ぎて、驚きましたけど」

「……どうしても、ランスロットを取られたくなかったし……貴方にも、大事な仕事を辞めて欲しくなかったから」

 ランスロットにぎゅうっと強く抱きしめられて、彼の匂いを大きく吸い込んだ。

「すぐに、結婚します?」

 その言葉に、目を見開いて驚いてしまった。この国の貴族は一年ほどの婚約期間を経て結婚するのが、通例だから。

「しても良いなら」

 ランスロットに言われてすぐにそう口から出てしまったのは、仕方ないと思う。多忙な彼が帰って来る家で、待っていたい。一緒に居る時間を、出来るだけ増やしたい。

 そう願うから、多くの人は結婚するのかもしれない。少なくとも、私はそう。

「それでは、出来るだけ早くしましょう……ハクスリー伯爵は、どう言われていました?」

 婚約成立のために貴族院に提出する書類には、ハクスリー家の当主であるお父様のサインは必須だ。

「すぐに婚約を許してくれないと……」

「なんて言ったんですか?」

「結婚しても……孫に会わせないって、言ったわ」

 そうしたら、ランスロットは嬉しそうに笑った。彼にはいつもこうして笑っていてくれたら良いとは思うけど、彼の職業柄難しいのかもしれない。

「それは……嫌でしょうね。僕もディアーヌと同じ可愛らしい薄紅色の目を持つ子どもに会えるのが、楽しみです」

 私はランスロットに似た子が良いとは思うけど、それはお互いに思っているのかもしれない。

「ねえ。ランスロット。前から不思議だったんだけど、私のことをいつから知っていたの? 社交界デビューの時より、前なんでしょう?」

 その事を聞きたい聞きたいとは思ってはいたものの、色々あったから今の今まで聞きそびれていた。本当に、物凄く短期間の内に色々とあったもの。

 そうして、彼が私を見つけてくれた時のことを、ようやく知ることが出来た。

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