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破れた恋に、火をつけて。〜元彼とライバルな氷の騎士が「誰よりも、貴女のことを愛している」と傷心の私に付け込んでくる〜 第二話

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

02 元彼のこと

 私のとても優秀な出来る従姉妹のラウィーニアは幼い頃に王太子妃候補の一人として選ばれた時から、毎日城に通い厳しい教師たちに囲まれて勉強漬けだった。めでたく候補ではなく、王太子妃となる事が決まった今でも、それは当たり前のように続いている。

 そんな彼女からランスロット・グラディスの訓練姿を一度見に行ってみましょうよと誘われたのは、彼と初めてちゃんとした会話を交わせた夜会から少し経っての出来事だった。

 あの後も彼から何通か素っ気ない手紙は来ていたものの。あの規模で大きな夜会となると、社交期だとしても毎週のように開かれているという訳でもない。そして、正式にお付き合いをしている訳でもない、まだ検討段階の未婚の男女が集える場所もそう多くない。

 だからこそ、少ない機会に合わせて皆尋常ではないほどに気合いを入れることになる。

 クレメントと付き合っていた頃には、そんなこと言われたこともなかったんだけれど。彼女はランスロットの事は、余程気に入っているのかもしれない。

「あら。可愛いじゃない。新しいドレス?」

 晴れて王太子の婚約者となった彼女のために、用意されている王族の住む内宮に近い部屋を訪ねれば、準備万端だったラウィーニアは早速城中にある訓練場へ行きましょうと私に素早く目配せをした。

 ラウィーニアが着ているドレスはすっきりとした、光沢のある灰色。黒髪が色っぽさを醸し出す上品で、とても彼女らしいデザイン。

「そう。この前に、いつものメゾンで仕立てたところなの」

 私が着ているデイドレスは、明るい黄色で目にも鮮やか。

 三人ほどの専属護衛騎士を引き連れたままのラウィーニアと並んで歩きながら、彼女がこちらに向ける意味ありげな視線は見ない振りをした。新しくて気に入っている様子のドレスを着ているからって、その人が気合いを入れているとは限らない。

「とても似合ってるわ。ディアーヌ。もう、王宮騎士団の面々は集まって訓練を開始している時間なのよ。団長も兼務しているコンスタンスは、気まぐれでお忍びに観戦しに行ったりもするから。私も何度か一緒に観た事があるけど、本当に圧巻よ」

「……圧巻なの?」

「ええ。流石はこのレジュラスの誇る、主力の面々だわ。訓練場が壊れないようにと筆頭魔術師リーズがいつも結界を張っているんだけど。実戦でもないのに、所属している騎士たちの魔法が余りに威力が強いから何度も何度も重ね掛けしないといけなくて、人使いが荒くて参るって、この前にぼやいていたわ」

「すごい……そうなんだ」

 私は、そう言ってから小さく溜め息をついた。

 我が国の王宮騎士団は主力と呼ばれているとは言え、実戦にと駆り出される事は少ない。何故かというと、彼らはこの国の切り札であり周辺国の抑止力となる存在だから、王が居る王都を離れる事はよっぽどの事だからだ。

 軍事国家である大国レジュラスに喧嘩を売るような国は少ないけれど、それは彼らが居るという理由も大きい。

 ラウィーニアがさっき教えてくれた訓練場は、広い城から出て詳しい特徴を聞いていない私にもすぐに知れた。大きな丸い円錐状の白い建物。何かを切り裂くような攻撃魔法の音が、中から聞こえたから。

「今日も、とても激しそうね。ディアーヌ。私達の観戦する場所は、絶対に大丈夫だとは思うんだけど……もし気分が悪くなって倒れそうになったなら、言ってね」

 ラウィーニアは歩きつつ、隣の私の顔を覗き込んだ。確かに、私はこういった戦闘を観戦するのは初めてだ。けれど、見ただけで倒れてしまうまでの戦闘……?

「そんなに……倒れそうになるの?」

「見れば、すぐにわかるわ」

 肩を竦めたラウィーニアに続いて、私は大きな訓練場の中へと歩を進めた。私たちが案内された場所は透明な硝子で前方が大きく開かれた、いわゆる貴賓席のような場所。

「……すごい」

 パッと見ただけなのに思わず絶句してしまうほどに、激しい戦闘だった。

 これって、単なる訓練だったよね。そう何度も聞いているけれど、実戦さながらに繰り出される攻撃魔法も凄まじく、剣戟の音が鳴り響き、余りに動きが素早くて目で追うのも苦労するほどだった。

 私たちが入ってきてすぐに丁度彼らは休憩時間に入ったのか、全員が所定の位置へと戻って行く。

「私も、初めて見た時は驚いたもの。あら。お目当ての氷の騎士は……着替え中かしら?」

 ラウィーニアが見た方向には、王宮騎士団でも有名な筆頭騎士三人が集まって居た。いつもなら、そこに他の二人……ランスロットやクレメントも居たはずだったんだろう。

 ラウィーニアは、訳がわからないという様子で首を傾げて困り顔だ。如才のない彼女がこうして不思議そうにしているという事は、彼女が私に見に行こうと言ったランスロットは、この訓練場には来ているはずなのに今この場所にいないと言うことになる。

「あの……私が、ちょっと見て来るから。ラウィーニアは、ここにいて」

 なんとなく、ざわざわと胸騒ぎがした。良くわからない形容しがたい勘のようなもので、虫の知らせがしたと言っても良い。

 ひどく、悪い予感だ。

 ラウィーニアの応えを聞く前に、部屋を出た私はさっき上がってきた階段を下りて、そこで聞き覚えのある低い声に辿り着くことになる。

「……俺のお古の女と、ようやく仲良く出来ているようで良かったな。まあ……先に目をつけていたのは、確かにお前だったけど? ディアーヌは外見は可愛いかも知れないけど、俺が話しても肯定するばかりでつまらなかった。あんな女と、良く付き合えるな」

「もう二度と、ディアーヌ嬢に近づくな」

「……あー? そんな事、言って良いのかよ。別に俺は、言ってやったって良いんだぜ。俺がディアーヌと付き合ったのは、ランスロットに嫌な思いをさせたかっただけだってな。また傷つくだろうなー?」

 付き合っていた事実をあげつらうような言葉に、ランスロットは苦しそうな声で返した。

「……お前の事が好きだった過去の思い出は、綺麗なままで居させてあげて欲しい」

 クレメント……本当に、私が思っていたより中身が酷くて驚いた。彼が放った最低な言葉に傷ついているかと言われれば、否だ。

 私の初恋は今ここに完全に終わりを告げ、なんなら彼との思い出全部全部、暖炉に焚べて火をつけたいくらい。

「ちょっと! クレメント! そんな脅しなんて、通じないからね!!」

 剣呑な様子で対峙していた二人はここに居るはずのない私の声を突然聞き、本当に驚いた顔をした。

「ディアーヌ?」

 呆気に取られた表情のクレメントが、私の名を呼んだ。出来る限り、心の奥底から湧き上がってくる侮蔑の気持ちを余すところなく視線に込めて睨んだ。

「本当本当。私も、偶然だけど聞いてしまったわ。これは大問題よ。王宮騎士団を統括するコンスタンスに、炎の騎士の騎士らしからぬ非道な悪行について。お知らせしなくては、いけないわね」

 いきなり血相を変えて飛び出した私を追いかけてここまでやって来たんだろうラウィーニアは、のんびりとした声で言った。

「ま……待ってください。俺は……」

 騎士らしく凛々しく端正であると言えるクレメントの顔は、目に見えて青ざめた。

 いくら国を守る要となる筆頭騎士で仕事さえ出来ていれば、ある程度の行いは許されるとは言え、王太子であるコンスタンス様もこれを聞けば眉を顰めるだろう。

 人に悪印象を与えるには、持ってこいな非道なる行い。

「貴族が権力を持つ理由はいくつかあるけれど、良識を持ち不届き者を裁く事も含まれているわ。女性を弄び、遊び道具にするようなクズの下手な言い訳など、何ひとつ聞きたくもないわね。クレメント・ボールドウィン。これからもこの国に仕える騎士の一人で居たいなら、もう二度と、ディアーヌの前に姿を現さない事ね。もう、二度とよ。私の言葉が聞こえたかしら? もし……その何もかもが足りないお気楽な頭では、理解が不可能なら。もう一度、ゆっくり言ってあげても良いわよ」

「いいえ。申し訳ありません。ライサンダー公爵令嬢。仰せの通りに致します」

 ラウィーニアは殊更優しい声で言ったのだけれど、それがプライドの高い彼には耐え難い事だったんだと思う。苦い表情で跪き一礼をして、クレメントは去って行った。

「ディアーヌ嬢……僕は……」

 ランスロットは、立ち尽くす私に遠慮がちに声を掛けた。

「どうして……言ってくれなかったの!?」

「貴女を傷つけると、思った。君は、彼に恋をしていたし……ボールドウィンは、あの時まで別れる気はないと言っていた。傷つけたくはなかった」

 ランスロットは、わかりにくくはあるものの。苦い顔をして、辛そうに言った。

「私。そんなに弱くないわ……それに、もっと早く言ってくれたら……」

 私はそこで、言葉を止めた。そうだ。さっきの話を思い返すと、あのクレメントが私に声を掛けて来た理由はきっと、この彼。ランスロットが、私に興味を持ったからだと思う。

 なんてことはない。

 このところ心配していた事は、もう起こっていた。一年前の社交デビューの時に、私は既に二人の争いに巻き込まれていた。

 美しいはずだった初恋はどこか遠くに奪い去られ、もう跡形もなく何も残っていない。

◇◆◇

 あんなとんでもなくみっともない出来事が、他でもないこの身に起こったと思えば。どうしても真っ黒で鬱々とした気持ちに満たされたりは、する。

 ベッドの上で温かなで柔らかな毛布に包まれ猫のように丸くなり思い出すのは、いくつかの良かったはずの思い出と、それを上から真っ黒にして塗り潰すようなひどい真実。

 止めようもない涙がどれだけだらだらと身体の中から流れていっても、それはどうしても心の中から消せなかった。

 何日も何日も。今がいつだったかも、わからなくなるほどに。

 ライバルへの嫌がらせに一年を使うという意味のわからない最低な元彼のお陰で、ただのだしに使われた私は衝撃を受け流せずに自室に篭もり切りになった。

 気が利く従姉妹のラウィーニアが何かしら良いように言ってくれたんだとは思うけれど、末子の私に甘い父母も何かと口うるさい心配性の兄も部屋には顔を見せない。

 もうそれで、良かった。

 きっと、皆これを聞いてしまえば心配はしてくれているだろう。城で文官を務める頭脳派の兄は、まともに剣を扱ったことも無いのに、この顛末を知れば、クレメントに決闘を挑みに行くかもしれない。

 彼にあっさりと、瞬殺されてしまいそうだけれど。

 私は大きな傷を負って、外敵から身を隠し巣の中でじっと身を潜める野生の動物のように。何もかもを、遮断していたかった。

 何か優しくいたわるようなことを言われれば、その人が悪くないと頭ではわかっているのに。あなたに何がわかるのと、八つ当たりをして傷つけてしまいそうで。

 誰にも会いたくなかった。誰にも。

 封も切らない手紙は、執事のチャールズが何も言わずに定期的に部屋へと入り机の上に積み上げた。

 その手紙の差出人の名は、なんとなくはわかっている。だからこそ、今は読みたくなかった。きっと、私には理解し難い。何か言い訳のようなものが、それらには書かれているんだろう。

 下手人クレメントは私の心の中で火炙りの刑に処すべきだとは、思った。

 もちろん。それなりに教育を受けているので、こんな……何の関係もない誰かから見れば、全く大したこともない。小さな色恋沙汰で、そんな刑が執行される訳がないのもきちんと理解してはいる。

 けれど、私の中では、ある意味では被害者であるランスロットも許し難かった。クレメントの非道な真意を知っていたなら、彼に騙されていた私にすぐに真実を教えてくれれば良かった。

 彼に恋に落ちてしまうより、その前に。私を傷つけたくなかったなんて、彼の欺瞞でしかない。

 きちんと最初から全部を話してくれたら、こんなにまで傷つかなくて済んだ。

 そうしたら、こんなに。こんなに。世の中の全てを壊してしまいたいくらいにひどい思いに、ならなくて済んだのに。

 もう誰も。何も。許したくなんか、ない。

◇◆◇

 私がじっと息を潜めて部屋の中に閉じこもっている間に、華やかな社交期は終わりに近づき、暑い夏はすぐそこまで来ていた。

 その頃になると、流石にぐちゃぐちゃな様相を呈していた心の中は大分整理が付いて片付いてはいた。

 良識ある誰かに優しく話しかけられれば、きちんと会話が成立するくらいには。

「ディアーヌ」

「何処にも行きたくないし、誰にも会いたくない」

 ゆったりとした寝巻き姿のままベッドに転がり、寝癖も整えていない私は憮然として言った。

 いつものように私の様子を見に来てくれたラウィーニアは、仕方なさそうにふふっと笑った。部屋に入って来た彼女はいつも通りに一分の隙もない完璧な貴族令嬢で。こんな格好では何処にも行けない体たらくの無様な自分との対比を思うと、つい泣けて来る。

「……とは言ってもね。一生ベッドの上で生活する訳には、流石にいかないでしょう? ねえ、急だけど私。コンスタンスと、海辺の街に婚前旅行に行くことになったのよ。世継ぎの王太子の結婚式をするとなれば、準備や来賓の接待なんかで、当分はゆっくりなんて出来ないから。私がディアーヌも一緒に連れて行きたいと言ったら、彼も是非来て欲しいと言っていたわ。コンスタンスもディアーヌと一度話してみたいと言っていたから。そろそろ外に出て、海の綺麗なところで少しでも気晴らししましょうよ。最低男のことなんて、もう忘れてしまいましょう」

「でも……」

 愛するラウィーニアの従姉妹の事だからとは言え……王太子殿下に気を使わせてしまって申し訳ない気持ちには、一応なった。

 それに……やんごとなき身分である彼が移動すると言うことになれば、もしかして。

「ねえ。この手紙の山は、やっぱりまだ読んでないの? こんなに、沢山……話だけでも、聞いてあげたら?」

 机の上に折り目正しく積み上げられ、少し突けば崩れそうな封を開けていない手紙の山を見て、ラウィーニアは大きく溜め息をついた。

 もし、謝罪の手紙をこれでもかと数を出して、罪が赦されるのなら。もし何かの後悔がある人なら誰だって、きっとそうしている。

 けれど、許す立場にある私の気持ちを決めることが出来るのは私だけのはず。

「一年も……一年もあったのよ。ラウィーニア。クレメントと付き合っていた私に彼が真実を話す気になれば、その間に幾度の機会があったと思う? あの人に好きだよと言われて、浮かれて。最初から、全部騙されていたのに。バカみたいに……私……」

 また、心の中にある暗い穴の中に落ちてしまいそうな私の肩を軽く何度か叩いて、ラウィーニアは隣に座った。

「ねえ、お願い。聞いてディアーヌ。あれから少し時間が過ぎて、貴女も少しは落ち着いたと思うんだけど。傍目から見ても、デビューしてすぐに、美形の騎士に言い寄られて。自分でも、ひどく浮かれていた自覚は、あったでしょう? 本来の自分を押し殺して無理してでも、彼と一緒に居たかったのよね。あんなに純粋に恋をしている目をしている女の子に、君は騙されているから早く目を醒ませと……彼が言えなかった気持ちは、私も理解出来るわ」

「ラウィーニア……でも」

「……聞いて、去年の社交界デビューの日。私の記憶が間違っていなければ、ランスロット・グラディスは遅刻して来たはずよ。私はコンスタンスのパートナーとして会場入りしていたけど、王族の彼は開始のダンスをデビュタント達と踊らなければならなかったでしょう? 私はその時間暇だったから、我が国の誇る美形騎士達でも観察していようかと思っていたんだけど……彼は、何故か遅れて来ていた」

 ラウィーニアは、意味ありげに笑った。私はそれを聞いて、彼女が何を言いたいか察せずに首を捻る。

「ランスロットが、遅れて来た……?」

 社交界デビューのために会場入りしたデビュタント達は、まず王太子や他の王子達とダンスを踊るはず。そうして、思い思いに歓談したりダンスしたり。私は第二王子ハリー様と踊った後は、まだ婚約者が居ないのでパートナーとして一緒に来ていた兄と一度ダンスを踊って。

 その後すぐに、あのクレメントに声を掛けられたはず。

「きっと、クレメント・ボールドウィンの嫌がらせの一環でしょうね。もし、ランスロットが、あの時、社交界デビューしてようやく求婚者を募ることになる伯爵令嬢のディアーヌに声を掛けようとしていた事を、彼が事前に知っていたとしたら? 彼を遅刻させるような、何かを仕掛けるなんてしごく簡単なはずよ。だって、階級も一緒の近い同僚だもの。何かを仕掛けようと思えば、どうとでもなるわ」

「最低……」

 本当に、最低だった。

 でも。確かにランスロットは初めて私と話した時に、失恋は辛いものだとそう言っていた。死にたくなるくらい、何もかもが無意味に思えるような、辛い思いをしたと。

「自分を嫌っているクレメント・ボールドウィンと一緒に居たディアーヌを見て、彼は絶望したでしょうね。そして、彼に恋をしてしまったディアーヌを見て、傷つけたくないと願った……ランスロットは、どんなに誘われても誰とも踊った事もないのを知っているでしょう? 誰とも、一度もよ。そんな彼が、貴女とは踊った。ディアーヌ。辛かったのは、貴女だけではないわ。どうか、わかってあげて」

 諭すようなラウィーニアの言葉に、心は揺れはした。何日も何日も泣き暮らす中で、彼の立場であればと何度も考える機会はあり。

 そして、さっきのラウィーニアの言葉で、いろいろなものが繋がったように思えた。

「……その婚前旅行って、誰が護衛に来るの?」

 尊い御身の王太子が、堅固に守られた城を出て遠出をするなら。凄く強い護衛が付くはずだ。例えば、筆頭騎士の誰かとか。

 遠慮がちにそう言った私の言葉を聞いて、ほっと安心したような息をついたラウィーニアは、私の頭を撫でて笑った。

「さあ……誰かしらね。でも、コンスタンスは私のお願いなら聞いてくれるから。同行する私の従姉妹が、自分の気に入っている騎士を指名すればきっと叶えてくれるでしょうね。行動も制限される窮屈な王族なんだもの。そのくらいの私情は許されるはず。彼らは仕事で護衛に来てくれるとは言え、美形の騎士は目の保養だもの……ディアーヌ。貴女の好きな騎士の名前を言えば良いわ」

 婚約したてのお熱い二人と一緒の馬車に乗る勇気は、私にはなかった。独り者の疎外感しか、そこには存在しないことがわかっていたから。

 美麗な容姿を持つ王太子のコンスタンス様は、彼の姿を見た誰もが想像する通り礼儀正しく紳士的。初めて美形の王太子をそっと横目で見る訳ではなく、きちんと目を合わせて会話したけれど、彼は自己紹介を終えたと同時にとある自分の部下の行いを詫びた。

 別にあの事はコンスタンス様が悪い訳でもなんでもないのだけれど、確かに彼が上司で監督責任が行き届かなかったと言えばそうなのかもしれない。名目上とは言え、代々の王太子が我が国レジュラス主力である王宮騎士団の団長職に就いているはずだから。

 こうして少し話しただけなのに、現王太子が婚約者ラウィーニアを愛していることは、本当に良く分かり過ぎるほどに分かった。彼女を愛する一人の従姉妹として、非常に喜ばしい限り。

 コンスタンス様に、目的地まで二人と一緒の馬車に乗るかと誘われた。

 それを礼儀正しく丁重にお断りして、私はいくつかの先頭を行く小さな馬車へと乗り込んだ。王太子なのでお忍びの遠出とは言え、目立たないようにしながらも厳重な警備が敷かれているようだ。

 馬車の中から小さな窓で外を覗き込めば、周囲を取り囲むように進む馬に乗り、国民に名の知られた騎士も何人か居たりした。

 もちろん、その中の一人は私が指名した誰かも。

 栗毛の馬に乗っているランスロットは、あちらが物語に出てくる主役の王子様ですよと誰かに紹介されても全然驚かない。むしろ、あの人が主役ではないとしたら、誰なの? となってしまう。

 同じ美形とは言え、王太子殿下は婚約者と熱愛中だし。王宮騎士団の灰色の騎士服も同系色の外套も、どこか冷たくも見えるほどに端正な顔を持つ彼に良く似合っていた。

 彼の外見は、本当に素敵な騎士ではある。目の保養で、存在に感謝さえも。けれどそれで、傷ついた私の過去の何もかもが消えてしまう訳でもない。

 この前に聞いたラウィーニアの話からすれば、最初ランスロットが私に興味を持ち、それを知ったクレメントが先んじて嫌がらせで声を掛けた。別れた後のあの様子からしても、あのバカと付き合っている間も色々とランスロットは嫌味を言われていたんだと思う。

 当時の私は確かにクレメントの事を好きだったから。彼は何も、言い返せなかったのだろう。

 その一年もの間。ランスロットはどんな事を、思っていたんだろう。

 どんなに誘われても断る、誰とも踊らない氷の騎士。彼はそう、呼ばれていたはずだった。

◇◆◇

 王都からそれほど距離が離れていない海辺の街ヘルセンの空気は、水分を含んで重たく湿っていて潮の香りがした。

 私はこのヘルセンへは初めて訪れたのだけれど、早朝に出発して夕方には一行は到着することが出来た。ある従者の話を小耳に挟んだところ、警護上の問題で高級宿屋を貸し切りにすることになるらしい。宿屋の中は関係者以外立ち入り禁止で毒見役も何人か連れてきている。さすがは、王太子殿下。圧倒的な権力とは、かくも恐ろしいもの。

 一介の伯爵令嬢でしかない私は、完全に近い将来に王太子妃となるラウィーニアのおまけだ。

 海は近いし、私には別に狙われる理由も見当たらない。警護を頼む必要もないかと考えて、一人で宿屋の前にある白い砂浜へと向かった。きっと贅沢な部屋からは、美しいこの景色が一望出来るんだと思う。

 砂浜を歩くにはとても向いているとは言えない踵の高い靴を履いたままでは、歩き難く重たい。靴を脱いで、裸足になって足を進めれば海岸の乾いた白い砂はさくさくと良い音を立てた。

 青い海の向こうには、小さな鳥が何羽か飛んでいる。止まり木もないのに、疲れた時はどうするのかなと良くわからない心配をしてしまった。

 正式に婚約を済ませたコンスタンス様とラウィーニアの二人は何日間かをこの街でゆっくりと過ごした後に、何もかもを定められた多忙な日常に戻るみたい。ゆっくりとして、寛いで欲しい。

 自慢の従姉妹であるラウィーニアには、良いところが沢山ある。真っ直ぐな黒髪は美しくて目を引く美人だし、誰もが唸るようなお洒落なセンスの持ち主で、何より抜群に頭が良い。でも、私が彼女の中で一番凄いなと思っていたのは、どんな困難にも諦めない努力家なところだ。

 ラウィーニアは初恋をした王子様のために、来る日も来る日も勉強漬けだった。年の近い従姉妹だった私は、彼女の努力をずっと近くで見ていた。誰もが遊びたい盛りに、良く我慢して聞き分けよく厳しい家庭教師の言う通りにしていたと思う。

 頭の良い彼女は、きっと幼い頃から正確に状況を理解していた。自分達二人がお互いに好き同士なだけでは……血筋や感情という頼りない理由では、コンスタンス様の一存では自分を選べないとわかっていた。

 誰もが彼女ならばと認め五人の候補の中では一番の、完璧な公爵令嬢である必要があった。国の頂点に立つ存在となる王妃を目指すと言うことは、そういうこと。ただ寵愛されているだけでは、国を治める重責を背負うことになるコンスタンス様の治世の助けにはならない。

 そんな恋する彼女を見て、私もあんな素敵な恋が出来たらと思っていた。誰の前でも恥ずかしくない、きらめくような美しい恋だ。

 でも、今思い返せるのは憧れて破れて裏切られた、ひどい初恋。それしかない。

 世間には、もっともっと辛い思いをしている人が居るなどというお為ごかしなど、なんの慰めにもならないことなど聞きたくない。その人は私ではないように、私はその人ではないから。私の傷も、私にしかわからない。

「……ディアーヌ嬢」

 強い海風に攫われてしまいそうな声が、聞こえた。

 もちろん。私はその声の持ち主には、心当たりがあった。護衛に入れて欲しいと多忙なはずの彼をご指名したのは、私だから。

「ランスロット様」

 銀色の少し長い髪が湿った風にたなびき、彼の整った顔に纏わりついた。いつ見ても、本当に羨ましいくらいに綺麗な顔をしている。私に名前を呼ばれた彼は、距離を置いて佇んでいた。まるで、近寄るなと忌避されることを恐れているように。

「……手紙を返して貰えないのは、無理もないと理解してはいます。貴女には、何の言い訳も出来ないことをしました。傷つけて……」

「待ってください……今は、謝らないで。まだ、許したくないから。それより、私は話がしたいんです」

 落ち着いた口調でそう言えばランスロットは、首を傾げた。

 あそこまで落ち込んだ原因の、原因を作ったのは彼だ。この場で激しく罵倒されても、おかしくはないと思っていたのかもしれない。

「話ですか?」

「そう。二人の争い……というか、私の見たところだと、クレメントだけが自分勝手に貴方をライバル視しているみたいですけど。それに巻き込まれた者の権利として知りたいです……ランスロット様は、私が社交界デビューした夜会に、遅刻しました?」

「……はい」

 ランスロットは、目を逸らしわかりやすく項垂れた。どうやら、聡明なラウィーニアが睨んだ通りの展開だったようだ。

「あの時に、私に声を掛けようとした?」

「そうです。本当に迂闊でした。騎士団の詰め所でボールドウィンではない、同僚と貴女のことを話しました。今夜の夜会で、やっと声を掛ける事が出来ると」

「それを盗み聞きしたあの人が、私に声を掛けた。でも、それならすぐに教えてくれれば……」

「……本当にすみません。あの会場で二人で一緒に居るのを見た衝撃が強くて、気がつけば二人は完全に付き合っていました。それからは、知っての通りかと……」

 失恋した時の衝撃は、この前経験したばかりの私は生々しく思い返せるほどに理解していた。その衝撃を受け気がつけば時間が過ぎ去っていたと言うのも、理解出来なくもない。

「私は、あの事を絶対に納得はしません」

「その気持ちは、理解出来ます。もう僕も……」

「でも、ランスロット様の辛かった気持ちがわからないとは、とても言えない……私は、今も二人に怒っては居るんですけど」

「……はい」

「ランスロット様の事をもっと知りたいとは、思います。貴方が、私とクレメントが付き合っていた間。貴方が誰とも、踊らなかった理由も」

 風と波の音しか聞こえない沈黙がその場に降りて、彼は氷を思わせる色の目で私をじっと見つめている。

 近い立場にある彼らの間で、あっさりと乗り換えたと思う人が居ればそう言えば良い。もうベッドでただ丸まっている間に、名前も知らない誰かから、非難を受ける覚悟は出来た。

 恋愛は、きっと誰かを傷つける。誰かの恋が実れば、誰かの恋は破れる。誰もが納得出来る結末など、絶対に存在しない。

 だとしたら私だって、これほどにまで一途に思い続けてくれた人に、世間体みたいなくだらない理由で何も応えないという訳にはいかない。二度目の恋になるか、ならないか。それは、わからない。

 初めての恋ほどには、純粋になれない。でも、彼のことは知りたい。大きく揺れる気持ちに、決着をつけたかった。

 それから数日、私たちはヘルセンで楽しく過ごした。海は綺麗だし、新鮮な海鮮料理は本当に美味しい。海の街での生活に、連れてきて貰っただけの私はとても満足している。

 とある理由で結構な長い間、部屋に籠もっていたことを、この光溢れる場所で人生にある貴重な時間を無駄にした事を反省した。

 これからは何かに落ち込んだとしたら、旅に出ることにする。旅先って、どんなに嫌な事があったとしても、新しい驚きや刺激に溢れていて、心の中に嫌な事を占める割合はだんだんと小さくなり、世の中にはきっともっと良いことは沢山あると思えてしまう。

 大昔から、傷心旅行って言うもの。こういう事かと、我が事で納得してしまった。

 何かとお忙しい立場の騎士ランスロットには、何と言っても王太子の護衛という大事な任務がある。従姉妹のおまけである私と、何かを話す時間はなかなか取れなかった。

 私に甘いラウィーニアは、連れてきている護衛はランスロットだけではないんだからコンスタンス様にお願いすれば良いって言ったんだけど、それはなんか嫌だった。

 何かを言えば簡単に通る、至上の存在であるからこそ私情が叶うのも程度があるかもしれない。だから、王となるのなら帝王学を学ばねばならないというのは、必要なのかもしれない。私を捨て公のため、自分の人生を捧げる。それは別に彼の選んだことでも何でもなく、ただ王家に産まれたからという理由で。本当に、大変な立場だと思う。つまらない恋愛沙汰で、彼の持っている特権を行使させたくはなかった。

 話をする時間なら、旅行から帰った後でもこの先たっぷりとあるはずだもの。

「ディアーヌ!」

 自分用に用意して貰った部屋に備え付けのテラスでのんびりと寛いでいた私は、ラウィーニアが呼ぶ声に顔を上げた。

「ラウィーニア? どうしたの?」

「せっかくだから、少し街に出ましょう。ほら、早く用意して」

 ラウィーニアは、何を興奮しているのか頬を紅潮させてそう言った。

 旅先の宿屋と言うこともあり、一応は私も部屋の中に居ても誰かに見られても大丈夫な状態ではあるけれど、その慌て振りが理解出来ずに首を傾げた。

 ラウィーニアの勢いについていけていない私がのろのろと立ち上がれば、急いだ様子の彼女は私がここに持って来たドレスが入ったクローゼットの中をためつすがめつ吟味しているようだった。

 そして、すっきりとしたラインの深い青のデイドレスが気に入った様子の彼女は、それを小走りで持って私に差し出した。

「早く、これを着て」

「……何かあったの?」

 彼女の押しに負けてそれを受け取りつつ、微妙な表情をすることは誤魔化せない。ラウィーニアはにっこりと笑って頷いた。

「大有りよ。コンスタンスの現在の護衛騎士は、ランスロットなの」

「……いつも、そうではないの?」

 尊い御身の彼には、最高の護衛が付くはず。王宮騎士団の筆頭騎士であるランスロットがここに来ているのは、そのためであるはずだ。

「そうなんだけど……まあ、その辺りはもう良いわ。せっかくの機会だから、コンスタンスが街も見てみたいから外出しようとさっき言い始めたのよ。さあさあ、着替えて」

 釈然としない思いのままで私は黙って頷いて、彼女の言う通りにすることにした。

◇◆◇

 私とラウィーニアが階段で宿屋のロビーに降りれば、彼女が早く早くと急かした理由が理解出来た。人待ち顔の美男子二人。しかも、絶対に私待ちだった。今護衛しているのはランスロットだから、としか聞いていなかった。早く言って欲しかった。

 美々しいコンスタンス様とランスロットがそこに二人並んでいるだけで、注目を集め絶対にお忍びにはなり得ないような気もする。けれど、護衛の彼は王太子様の仰せには逆らえない立場なのだと思う。

 それに、愛しい婚約者と少し街歩きをしてみたいと思っても、仰々しい護衛を引き連れていかねばならないコンスタンス様の気持ちを考えると切ない。

「ディアーヌ。ここ何日か会えなかったけれど。快適に、過ごせていた?」

 挨拶もそこそこに、我が国の王太子殿下であるコンスタンス様は私に話し掛けてくれた。代々続く王族のみが纏うことの出来る後光が差しているのを感じるようなカリスマ性を持つ彼を、出来るだけ避けていた自覚のある私は曖昧に笑う。

 別に彼が嫌いとか、そういう訳で避けていた訳でもない。話しやすく頭が良い機転も利く人で、割と好きな方だ。けれどラウィーニアとセットになってしまうと、独り者が勝手に傍に居るのが居た堪れなくなるだけ。彼は別に何も悪くない。

「こちらに共に連れて来て頂いて、本当にありがとうございます。良い気分転換になって、凄く快適に過ごせています」

「……いや。この僕も美女に囲まれれば、やはり気分が良いからね。いつもは、難しい顔をした大臣達と雲を掴むような面倒な政治の話だ。本当に、うんざりするよ」

 コンスタンス様は肩を竦め、彼の少し後ろの位置に護衛として控えていたランスロットに目配せをした。彼は仕事上の事を伝達していますと言わんばかりに、淡々とした口調で私に向かって言った。

「ディアーヌ嬢。本日の設定は、男女二組でお忍びの貴族が街歩きをします。僕以外にも、護衛が数人が姿を隠して見えないように付いて来ますが、貴女もそのつもりで居て下さい」

「男女二組……」

 それを聞いて、ぽかんとした。コンスタンス様とラウィーニアは、どう考えても恋人同士だ。今この時も、見つめ合い目と目で語り合っている。

 と言うことは、ランスロットの担当は私になる。

「そうよ。せっかく、ここまで旅行に来たんだもの。買い物だって、ゆっくりと楽しみましょう」

 ラウィーニアは、コンスタンス様の腕を取りながら笑った。微笑み合う愛し合っている二人。寂しい独身者の私には、目の毒でしかない。

 これはどう考えても、色々とあった私のためだ。名目上は王太子の気まぐれとは言え、多分話したくても話せない私とランスロット二人のために、コンスタンス様が気を使ってくれたのだと思う。

「どうぞ」

 ランスロットは、短く言って私に手を差し出した。

 彼にはそれは、仕事の一環のはずだった。久しぶりに触れた指先は、やはり震えているようだった。これ以上ないくらいに平静な表情に見えるのに、緊張をしているのかもしれない。

 それを知り、何だかむず痒くなるような気持ちになった。

 こんなにも素敵な人が、自分の事を好きなのだと実感してしまうと何だか不思議だった。そういえば、社交界デビューの時に彼は私に声をかけるつもりだったと言っていたから、もし彼が見初めてくれたのならそれより前になる。

 私は彼と沢山話をして、これから不思議に思っていた事を知っていくつもりだった。

「ありがとうございます」

 礼を言ってその手を取り、寄り添って先を行く二人に続き私たちも宿屋の大きな入り口を出た。室内に慣れていた目には、明るい外は辛い。外には眩しい光が溢れていて、私は思わず手を翳した。

 街歩きとは言っても護衛などの都合もあるから、これから決められたルートを少し歩くことになるのだとランスロットは歩きつつ説明してくれた。

 小さな子どもが歩く私たちの隣を、何人か笑いさざめきつつ飴のついた棒を持ったままで走って通り過ぎていく。

 ランスロットは、王太子の護衛騎士だ。ラウィーニアは、彼が守るべき存在ではあるけれど最優先される対象ではなかった。

 だから、私はその時に彼が咄嗟に取った行動について、間違ったなんて絶対に思えない。

 子ども達が私たちの隣を通り過ぎたその瞬間、何かの魔法が発動したのは、何の心得も魔力も持っていない私にでもわかった。

 ぶわっと昼日中の道に一気に溢れる、もやもやとしたどす黒い煙のようなもの。

 ランスロットは動揺することなく冷静に素早く飛び上がり、先を歩いていた王太子殿下その人を庇うようにして動いた。

 もし、彼やその他の誰もが思った通りに、狙いが王太子コンスタンス様だったなら、何かしらの対処出来ていたはずだ。それだけの辛く厳しい訓練を受けていて、だからこそ彼は王宮騎士団の筆頭騎士一人だと呼ばれていた。

 でも、本当の狙いは違っていた。

 彼の婚約者である、ラウィーニアに黒いもやもやとした煙は真っ直ぐに飛びかかり、彼女は悲鳴をあげて目を瞑り道に体を伏せた。

 意表を突かれた形になったランスロットは、その黒い何かがラウィーニアを襲い掛かろうとしているのを見て自分の身をもって彼女を庇った。吸い込まれるように黒いものは身体に取り込まれ、彼はゆっくりと前へ倒れた。

 ただその悲劇を見ていることしか出来なかった私は、恐怖の余り大きな悲鳴を上げたのかもしれない。ラウィーニアが、私を慌てて抱き締めたから。

 ランスロットが倒れていて、どこからともなく現れた数人に彼は宿屋に運ばれた。そこから先は、実を言うとあまり覚えていない。

 その後すぐに私にとってはどうしようもなく、衝撃的なことが待っていたから。

「……申し訳ありません。貴女は誰ですか」

 ベッドで体を起こした彼は、無事なことに喜んで涙を流す私に対し、まるで初対面の誰かのように接した。

 思わず背筋が寒くなってしまうほどの、冷たい水色の視線を向けて。

「……嘘。なんで」

 そう。あの妙なものが身体に入り込み倒れて目を覚ましたランスロットは、何故か私の事だけを綺麗に忘れてしまった状態になっていたから。

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