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『デッドエンドの思い出』吉本ばなな 2024年⑭

その人独自の趣味や強迫観念をまがまがしいものとしないでつきつめていけば、どんどんどんどん楽になる感じがして、それから私はそういう、まるでむだっぽい考え事をする自分を恥ずかしく思うのをやめた。

『あったかくなんかない』

何も分かってないのに、分かっているように書いたり言ったりすることは、自分を蝕んでいくものなのだと思う。自分でも気付かないうちに、少しずつ、少しずつ。

吉本ばななは、わかっていることしか書かない人なんじゃないかと思う。それはそれで、苦しいことが、きっとあるのだろうけど。私には、まだそれができない。違うことをしてしまう。

この本の中で二度、"のび太とドラえもんがどら焼きを食べながら漫画を読んでいるところ"、が幸せの風景として選ばれている。私も、これは間違いなく幸せの風景だと思う。

私の中の、幸せの象徴の景色って、なんだろう。
父母がきまぐれに手入れしている実家の庭とか。
祖母の住む団地の、4階から見下ろす公園や木々、山々の景色とか。自分の机に座って作業をしている早朝、だんだんと空が明るくなっていく様子とか。好きなものだけがいっぱいに並んだ食卓とか。

一番心に残った「あったかくなんかない」の中に、この前読んだ、『ミトンとふびん』で好きだった文章に呼応しているような箇所を見つけた。

そして、カフェにすわって人々を見ていることは、川の流れを見ているのと全く同じだということを知った。(中略)
そして、私は知った。
川の恐ろしさは、時の流れのはかりしれなさ、おそろしさそのものなのだと。

「あったかくなんかない」

天から見たら、あそこで酔っ払っていた私たちはかわいかっただろうなあ。考えられないくらい愛おしいんだろうなあ、と神の気持ちを感じる。人間って夜空に輝やく星の粒々みたい。夜景を構成するきらきらした光みたい。

「情け嶋」

吉本ばななにとって、一つ目の山だという『デッドエンドの思い出』で、おそろしいものとして描かれている川。人々の流れの象徴、清濁併せ飲んで、いろんなものを飲み込み、なかったことにしてしまう川。
二つ目の山『ミトンとふびん』では、酸っぱいことと甘いことの連続である生活を営む人間が、星粒や、夜景を構成する一つ一つの光として描かれている。

自分だけかもしれないが、下流に押し流された川の流れが、きらきらした光になって星空や夜景に変わっていくイメージが浮かんだ。さまよっていた魂が成仏したみたいな。ああ、よかったなぁと思ったのだ。

『あったかくなんかない』は、家族について書かれた箇所も印象的だった。家族のはらむ"もろさ"に恐ろしくなることが、私にもあったからだ。

遠くに見える家のオレンジ色の明かりは、あったかそうに見えるし、それこそ幸せの象徴ともいえる。でも、あったかそうに見える場所が、心や体を温めてくれるとは限らない。

ほんとうにあったかい場所は、誰かがいなくなっても、何もなかったかのように続いていったりはしない。(会社とかは、誰かが欠けても毎日回っていかなければいけない側面もあるけれど)
「あったかくなんかない」に描かれた、家族とか家の持つ残酷さが、なんだか響いてしまったのだ。

けれど家族とは、もろさを抱えたものなのだよな、とも思う。だからこそ愛おしいし、切ない。

それでも。家を失おうと、家族を構成するメンバーが変わろうと、きっと幸せの象徴の風景は、崩れ去ることなく宝箱の中に積み重なっていく。



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