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私の成分 社会人スタートから2020年まで

沖縄で3人の育児をしながら、
半分主婦・半分フリーランスとして活動中の まーちです。

現在は、司会・研修講師・司会チームの運営、
フリーランス育成の講師として
オンラインSCHOOLを主宰しています。

受講生さんの実績

・4ヶ月で売上4倍になった建築士さん
・念願の自宅サロンを開業したアロマセラピスト
・お金のブロックが外せて売上UPした空間心理の講師
・初めて連続講座の依頼が来たメンタルトレーナー
・予想外のアイディアが商品化された士業の方
・やりたい事が決まって起業の決心がついた美容部員さん

今でこそ、SCHOOL生さんと共に、
順調な日々を過ごしていますが、
全世界が変わった2020年。インタビューを受けた当初は、
司会業も企業研修の仕事も9割減ってしまい、、、

どう進んでいいのか、日々葛藤の時間でした。

そんな最中に受けたインタビュー記事が
PC内に残っていたので、忘備録のような私の成分をnoteに書きとめます。
フリーランス歴20年。子持ちアラフォーママの
フリーランス的続け方。よかったらお付き合い下さいね。

個性という色が求められる時代で
何にも染まらず無色のままで、生きていく

彼女には色がない。
ラジオの聴取率が日本全国で1位の沖縄で、
そのキャリアの大半を 「ラジオの中の人」として生きてきたとは、とても思えない。

Mystory インタビュアー談

無色透明なまま、40歳という節目を迎えている。
個性・タレント性・光・オーラ...。そういうものが求められる世界 に身を置きながら、何者にも染まることなく、
ただ金城真知子として在るには、余人が想 像しがたい「何か」がある。
色はないが「何か」があるのだ。

Mystory インタビュアー談

1,新卒を諦めかけた頃、偶然つかんだラジオの仕事

幼い頃から質問魔だった。
両親の仕事場、学校の先生、話を聞いてくれる大人には手当たり次第に、子供らしい素朴な問いをぶつけては困らせた。

といっても、本当は困らせたかった訳じゃない。。。

「真知子」という名前のせいなのか「知性」に惹かれ「知る」と嬉しくなって「もっと深く知りたくなる」

だからこそ、新しい事に出会うたび「なんで?どうして?」と、頭の中に疑問符がうまれてしまう。

その体質は、大人になった今でも、たいして変わっていないようだ。


大学卒業時、時代はのちに就職氷河期と呼ばれる時代。

文系で4大を卒業した女子には厳しい時代だった。

トライした企業から不採用の連絡が続き、新卒での就職を諦めかけていた頃、母親が「まだテレビとラジオで募集してるみたいよ~」という勧め。

学生時代、アナウンサーを志した事は一度もなかったのだが「沖縄中を取材する」という内容に興味を惹かれ、某TV局の報道キャスターとラジオカー審査に応募してみる事にした。

その当時しゃべりのスキルも無く、いわゆる「業界色」がしない22歳の女性が珍しかったのか、諸先輩方の器の大きさなのか、何とか、ラジオカーリポーターとして「使ってみる」ことにして頂いたのだ。

2,ラジオカーリポーター時代


以来そこから5年間「ラジオカーリポーター」をやった。

リポーターどころか社会人としても1年目。
右も左もわからないどころか、天井と地面の違いも分からないほど目が回った。

またラジオカーリポーターのクセに「車酔い」をする体質だったこと、すっかり忘れていた、そういう意味でも目が回っていた。


リポーターとは言え、車の運転から機材の設置。
取材先とのアポ取りや事前の打ち合わせ…。

全部自分でやる。それを1日3本。しかも生放送。当然、失敗は続いた。


恥ずかしくて、悔しくて、ボロボロになっても、また数時間後には別の現場でリポートがある。気持ちを切り替えなくてはいけないのに、それができない。

「どうしたらうまくなれますか?」と周囲に聞いても、丁寧に教えてはもらえない。
「今日のリポートどうでした?」と尋ねても
「ああ。ごめん、ちょっと今日は聴いてなかった。」とフィードバックがもらえない。

外から戻って、局に帰っても社員の方は、別の仕事や打合せに忙しく、私にかまっていられる人は殆どいない…。

家に帰って、親きょうだいにぺちゃくりお喋りするのが大好きな女の子だったのに、この頃は毎日、泥のようにベッドに倒れ込み、眠った。

普通、会社の新人がこういう状態に陥っていたら、上司や先輩の誰かが指導してくれるのかもしれない。

ただ彼女の周りは違った。「教えないことが普通」な世界なのだ。そういうと語弊があるかもしれない。
ただいわゆるタレント業で生きていくとはそういうものらしい。

「椅子の数」は決まっていて、わざわざ自分の椅子を奪うかもしれない相手を「育てる義理」などないのだ。事実彼女の雇用形態は「業務委託契約」であってラジオ局に就職しているわけではなかった。

つまり社会人1年目から「プロとして自立・独立」しなくていけない世界に身を置いた。以来彼女は今まで一度も「就職」はしていない。彼女が生きてきたのはそういう世界だ。

MYstory インタビュアー談

3.未来が描けない

そんな自分を見かねて、
「まちこは将来何がしたいの?」と気にしてくれる先輩やディレクターもいた。

通常ラジオカーリポーターというのは、タレントの登竜門的仕事。

その後、冠番組を持ちたいとか、平日の帯番組を担当したいとか、テレビに軸足を移したいとか…。

この業界で生きていれば、そういう確固たる願望や理想の自分を持っているべきなのだ。

でも、自分にはそれがない。


「この先、私はどうしたいんだろう」自分から発信したい事も見当たらない。存在感のある先輩方や、個性と彩り豊かな同僚を見つめながら「私の特色って?」自分の空っぽさに落ち込んでしまう。。。そんな日々。

それでも仕事が嫌いなわけではなかった。
むしろ、ラジオカーリポーターという仕事が大好きだった。

この狭い沖縄の中だけでも、自分が知らない人や仕事やお店や生き方が溢れていて、それを「取材」という形で話を聞きに行けることは喜びだった。


取材先に思い入れが強くなるとどうにか「音」でここの良さを伝えたい!と強い衝動にかられ、パン屋さんの「窯に火を入れる音」や「鳥がさえずるやんばるの空気」を伝えるために、朝晩問わず時間を使って、取材・収録に行った。


そういう取材対象者への想いの部分…。一見すると効率の悪い不器用な部分が珍しがられて、徐々にスタジオでの仕事も担当番組も順調に増えてきた。


経験も実績も積んで、仕事の幅が広がってきた…別の局からも声をかけてもらい、夕方、仕事帰りの車中で聴いてもらえる番組も担当した。

自分の中にある沖縄の風景をショートストーリー仕立てで伝える番組は、声だけではなく物語も書かせてもらい、多く人に評価してもらえた。

そんな頃、夫と出会い結婚し、出産。2年をおいて第二子も授かった。

陰で応援してくれていたディレクターやスタッフさんからは
「もったいない。結婚はいつでもできる。仕事は一度止めると戻らないよ。」と心配する声も頂いた。

4,ウェディング司会者へ


事実、2人目の出産した後はレギュラー番組は0になり、副業的な位置付けて続けていたウェディング司会の仕事が、たまに入る程度になっていた。

子どもを育てながら20代のように時間をたくさん使う働き方はできない。

そこで自分のキャリアをしっかり見直すための塾に通った。
自分を内省し、他人の俯瞰視点を受け入れ、ポツンと見えてきたが「ウェディング司会」だった。

思えばリポーター1年目の素人同然の自分に、友人が披露宴の司会を依頼してくれた。それ以来どんなに環境が変わっても続けているのが「ウェディング司会」の仕事。

自分自身が結婚・出産を経て、

改めて家族とは夫婦とは何か?
その中で披露宴とは何か?
新郎新婦に喜んでもらえるには?
そこでウェディング司会ができることとは?という問いに向き合っていった。

ラジオカーリポーターの頃、大好きな取材先のためにはどんな時間も惜しまずに熱中できたように、新郎新婦に寄り添い、この二人の良さを伝えるにはどうしたらいいか?

そんなことを考えながら、準備をするようになった。

すると、司会当日はメモやエピソードで溢れ、裏方さんやスタッフさんとも連携しておきたいことも増え、どんどんのめり込んでいった。


ウェディングの主役はあくまで新郎新婦。
「この人たちを引き立てるための脇役が私」
この立ち位置がとても心地よかった。

5,司会チームをつくる

ただ一つ困ったことがあった。
ウェディング司会という仕事も、終わったあとのフィードバックがない。

司会者は1人で披露宴会場に行き、終わったら1人で帰る。

もちろん新郎新婦からその後ご連絡頂くことはあったが「あそこはああすればよかった…。」という後悔を口にするわけにはいかない。

それでも自分が司会者としてスキルアップしているのか?何か改善点はないのか?そういう場欲しい。仲間が欲しい。と思った。

第3子の出産を機に、県内のフリーアナウンサーやラジオ仲間でウェディング司会の勉強会を始めた。

またそれが高じて「沖縄の披露宴の選択肢を増やしたい」という想いで、司会者共同のWEBサイトを自作し、統一されたブランドでありながら新郎新婦が自分に合いそうな司会者を選べる仕組みも作った。

一緒に高め合う仲間が出来た事は、何よりの喜びだった。

6,コロナ渦、そして、これから

気づけば40歳を迎えていた。

末っ子も3歳になり「お母さん業」もまずはひと段落ついた。

そこで2020年が訪れた。

予定されていた披露宴のスケジュールは軒並み「延期」「中止」に書き換えられた。。。焦っていない。と言えば嘘になるかもしれない。

でもどこか冷静でいられるし、この状況を楽しみに捉えている自分もいる。

22歳の右も左も天井も地面も分からない自分が、以来20年近く、フリーランスとしてここまで生きてこられている。

「半年後の仕事がどうなっているかわからない。」なんて、むしろそれが日常だった。

だからあまり怖さがない。

むしろ昔とは違って愛すべき家族がいるし、いつの間にか随分周囲に助けてくれる先輩・友人・後輩が増えているから安心さえしている。

相変わらず、自分が中心に立って「これがしたい!」と声高に叫べることは、正直、まだ見つかっていない。どこまで行っても脇にいて「その人」の「何か」を引き立てたい。

そう思っている。自分独りでできることなんか限られている。

それでも大好きな誰かを引き立てることができたなら。
そのためなら時間も熱意もありったけの自分を込めて、また応援したい。そういう想いだけは、何にも染まらず持ち続けよう。

MY STORY インタビュアー 小宮さん


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