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「ホテル王将連続宿泊事件」について

こんにちは。

今朝は少し調子が悪くて、久しぶりになかなか起きることができず、11時近くまで布団の中で過ごしてしまいました。

ようやく頭も体も動き始めたので、やるべきことをやる前に、ウォーミングアップ代わりにまずnoteを書いておきたいと思います。

昨夜は、子どもの頃の夢をみました。
おそらく、3日間に渡って長々と父親のことを書いたので、記憶が呼び戻されたのだと思います。

どんな夢を見たのかと、とにかく夢か現実か分からないようなリアルなものでした。(どんな夢だったのかはあまりにも描写が細かすぎて、僕にしか分からないので、ここで書くのはやめておきます。笑)

僕の子どもの頃のことは「誰にも言えなかった父のこと」「誰にも言えなかった母のこと」で書いた通り、泥のような毎日でした。(「おかげでその泥によるパックが効いたのか、素敵な笑顔が手に入りました♪」ってうるさいわ!そんなええ泥ちゃうわ!笑)

その泥のようなエピソードの一つが「松永家ホテル王将連続宿泊事件」です。今日はそのことについて書き残しておきたいと思います。

そう。あれは小学4年生の夏休み、8月の熱い夏の日のできごとでした。(また入り方が昭和!古くてすみません!)

僕が小4の年と言えば、1985年(昭和60年)です。
この年は世間的にも大きな出来事が次々にありました。「KK(桑田・清原)コンビ甲子園優勝・運命のドラフト会議」「前年から続くグリコ・森永事件」「豊田商事会長刺殺事件」「日航ジャンボ機墜落事故」「阪神タイガース21年ぶりのセリーグ優勝、初の日本一(僕は掛布雅之選手の大ファンだったので狂喜乱舞でした)」それ以外にも「スーパーマリオブラザーズ発売」や「夏目雅子さんの死去」など、この年に何があったかと問われれば、すぐに四つ五つ思い出されるような出来事がたくさんありました。

しかし、世間の喧騒を他所に、僕にとって最も衝撃的な出来事だったのは、誰が何と言おうと「松永家ホテル王将連続宿泊事件」です。(誰も何も言うかー!)

僕が5歳の時に、我が家が福岡県北九州市小倉北区から大阪市浪速区に引っ越したことは「誰にも言えなかった父のこと」でも触れたと思います。

大阪市浪速区にあったその我が家は、団地が3つ並んだ地域の傍にある、5階建ての汚いアパートの1階にありました。

そこで父と母、僕と妹の4人で暮らしていました。

家に入るとすぐ目の前に狭い台所があり、その奥に6畳の畳の部屋がふたつ並んだ「ウナギの寝床」のような造りでした。ベランダは二層式の洗濯機を置くだけで精一杯でした。(タンスや家具を置くとキチキチで、とにかく狭い家でした)

そんなアパートの一室で暮らしていたある日、突然我が家に悲劇が訪れました。(まぁこれまでの暮らしを想うと、ある意味ずっと悲劇でしたが。笑)

遡れば、この年のいつぐらいからだったのか忘れましたが、僕の母と近所の人たちの折り合いの悪さ(特に大家さん)が激化しており、僕自身もとにかく住み心地が悪くなっていました。(近所の人にあいさつをしても露骨に無視されたり、母のことで嫌味を言われたりなど…)

そんな中、うちの部屋の排水管にトラブルが起こり、我が家と隣の家の床下が水浸しになり、床が腐って抜けるというトラブルが発生してしまいました。(その原因については間違いなく僕の母が悪いのですが、母はそれを頑として認めようとしませんでした。「大家さんが悪い」の一点張りでした。(前にも言いましたが、一点張りでカッコいいのははギャンブルだけです。ちなみにアツくなって一点張りをすると100%負けるので、皆さん気をつけてくださいね)

そして修復代に「200万円ほどかかる」という話になり「それを誰が持つのか?」ということで、うちと大家さんと隣の家で揉めに揉めてしまいました。(そりゃ大家さんからしたら、たまったもんじゃありません。僕から見ても100%母が悪いんですもの。僕は今でも大家さんの意見が100%正しいと思っています。笑)

そんなことがあり、結果追い出されるような形になり、突然その家に住めなくなって、出なければならなくなったのです。

あまりにも急すぎました。

さらに言うと夏休み期間中ということもあり、小学校の友達にも何もあいさつできずに引っ越ししなければならない羽目になりました。
(担任の先生にだけは電話であいさつをしたところ、先生がすごく励ましてくれたのを覚えています。井上先生、元気かなぁ…)

突然家を移らなければならなくなったので、これがまた本当に大変でした。両親の間では「西成に引っ越す」ということだけは決まったようでしたが、具体的にどこということはすぐに決まりません。

「取り急ぎしばらく泊めてくれるところを」ということで両親が探し、決めたのが、タイトルにある「ホテル王将」というところでした。

このホテルは新世界のすぐ傍にある「ジャンジャン横丁」というところから一本入った筋にあります。

そしてこの「ホテル王将」はおそらく、あくまでもおそらくですが「連れ込み宿(今でいうラブホテルのようなもの)」だったのです。笑

凄くないですか?

オッサンおばはん二人だけならいざ知らず、小学4年生の男の子(僕)と小学1年生の女の子(僕の妹)を連れたオッサンおばはんが、連れ込み宿でしばらく暮らしていたんです。(どうでもええでしょうが、この時確か部屋を二つ借りていました)

だいたい「ホテル王将」側も、よく部屋を貸したと思います。
さすが「王将」言うだけのことはありますわ。笑

経営者がうちの両親と知り合いだったのか何なのか分かりませんが、今やったら絶対無理やと思います。
一日二日ならいざ知らず、8月のアタマから終わりくらいまで住んでいたように思います。

とにかく長かったし、何故か僕一人だけ全身ダニに噛まれまくって悲惨だったのを覚えています。「ムヒ」で全身真っ白でした。(「ムヒヶ丘に、かゆみを止めて、池田池田模範堂~♪」っていうCMソング覚えてますもん。あと、何も分からないはずの小1の妹が、誤って流してしまった「日活ロマンポルノ」の映像を観て喜んでいました。僕は小4という微妙な年齢に差し掛かってきていたので、正直あの瞬間は死にたかったです)

そんなこんなでしたが、さすがにずっと連れ込み宿で子どもを過ごさせるわけにもいかず、父と母は家を探しながら父は仕事とパチンコ(こんな時ぐらいパチンコすなよ!笑)、母は僕と妹を連れてジャンジャン横丁、新世界、飛田本通り商店街、三角公園や萩之茶屋近辺、そして花園町駅前のイズミヤなど、無目的に一日中歩いて時間を潰していました。(母は途中のんきに喫茶店に入って、休憩がてらジュークボックスで次々に曲をかけてご陽気にしていました。僕はそんな母に「全部アンタのせいや!」とも言えず「むしろどんな神経してんねん」と感心させられました)

本当によく歩きました。僕と妹は母に連れられて、ただひたすら歩いていました。「KKコンビ甲子園優勝」の瞬間や「日航ジャンボ機墜落事故」のニュースは、あの時のあの界隈の景色とともに、僕の記憶の中に刷り込まれています。

その数週間後、無事ではありませんが西成区に新たな家が見つかりました。(2階建てで、2階部分が大家さん。1階が我が家というこれまたトリッキーな家でした)

しかし、9月1日からの登校は間に合わず、数日遅れての「大阪市立弘治小学校」への転校となりました。(小4の2学期から高3の夏までその家で暮らしましたが、結果、その家も母がトラブルを起こして出て行く羽目になったのです。もうホント、そんなんばっかりです。とほほ…。笑)

以上が僕の10歳の時に起こった「松永家ホテル王将連続宿泊事件」です。
(詳細については書き出すとキリがないので、この辺でやめておきますね)


あーっと!今日も長い!3200字超えてる!

ダメですね。。。

もっとコンパクトにnoteを書きたいものです。。。

長々と失礼しました。。。

そしてお付き合いいただき、本当にありがとうございました。。。

それではまた。。。

#日記 #家族 #メンタルヘルス #休職 #双極性障害 #躁うつ病 #毎日note #毎日更新






 
 


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