誰にも言えなかった父のこと(続きの続きの続き)
こんばんは。
昨日、一昨日と2日続けて長々と失礼しました。
父との思い出を残そうとnoteに書き始めたのは良かったのですが、まさかの全3回に渡ってしまいました。
さすがに今回の僕と父の話は誰も興味がなさすぎるのか、ほとんど誰からも反応がありません。笑
なので、絶対に今日でサクッと終わらせたいと思います。笑
でもですね。
今まで抱え込んできた自分の過去を開放することで、どんどん気持ちが楽になっています。(不思議なものです)
僕の自己満足で大変申し訳ありませんが、どうぞ最後までお付き合いくださいませ。
では早速、昨日の続きから…
【父に言われた8つのこと】
①「お前はワシの子やない!〇〇の子や!」
②「お前にワシの気持ちが分かるんか!」
③「お前に義理っていうものが分かるんか!」
④「なんや?ワシをどつくんか?やれるもんならやってみぃ!」
⑤「体育科なんか行って何の役に立つんや?高校なんか落ちてまえ!」
⑥「大学行くカネなんてあるか!行くんなら自分で何とかせぇ!」
⑦「オンナができたら責任の取れんことだけはするなよ」
⑧「オンナなんて世間にはなんぼでもおる」
(①~④までは昨日書き終えたので、今日は⑤から行きます)
⑤「体育科なんか行って何の役に立つんや?高校なんか落ちてまえ!」
これは中学3年生の夏、進路を決める時に言われた言葉ですね。
この時期にもなると、父との関係は最悪になっていました。
僕は小学生の頃から野球をしていたので、甲子園に出場することが大きな夢でした。でも、大した実力も私学に行くためのお金ももちろんなかったので、選択肢は公立高校に行くしかありませんでした。そこで、大阪の強豪校で府下のどこからでも進学ができる「大阪市立桜宮高校体育科」を受験することを決めました。(余談ですが、きっかけは中学時代の恩師が「お前にぴったりの学校がある。お前、汗かくんすきやろ?せやから受けてみいひんか?めちゃめちゃおもろい学校やで」と強く勧めてくれたからです。当時、大阪府下の公立高校で体育科があるのは、唯一「桜宮」だけでした。だから競争率は激しくて、体育科と言えども合格するためにはそれなりに学力が必要でした)
ある日、僕が合格を目指して必死に勉強をしていると、通りすがりの酔っぱらった父が僕の背中越しに「体育科なんか行って何の役に立つんや?高校なんか落ちてまえ!」という言葉を吐き捨てました。さらに続けて「どうせ高校行くんなら工業高校でも行って、手に職でも付ければええもんを…」と言い放ちました。
はらわたが煮えくり返るくらい悔しかったですが、その時僕はもう何も言わずに無視しました。(今思えば父の言う通り、工業高校に行って手に職をつけておいた方が良かったかなと思います。はい。すみません。ウソです。笑)
⑥「大学行くカネなんてあるか!行くんなら自分で何とかせぇ!」
これは高校3年生の秋、進路を決めた時に言われた言葉ですね。
高校時代、僕は父親と話をした記憶が全くありません。笑
父は相変わらずほぼ仕事の毎日で、たまの休みの日は必ずパチンコ、僕は部活で忙しい毎日のため、ほとんど家にはいませんでした。
起きている時間に顔を合わす機会も少なかったのですが、顔を合わせても全く口を利きませんでした。(母親のことを書いた時にも触れましたが、野球部の応援に母と妹はいつも来てくれましたが、父はもちろん一度も来たことはありません。「シンジラレナーイ!」です。古っ!)
そんなこんなで高校生活も佳境に入り、僕は福祉系の大学に進学すると決めました。そのことを母が父に行った時に言われたのが「大学行くカネなんてあるか!行くんなら自分で何とかせぇ!」という言葉です。
こう言われて僕は悔しくて、半泣きになりながら「おう!見とけ!好きにしたるわ!」と言い返したのを覚えています。
そして、昼間働きながら夜間に通える福祉系の大学を探し、愛知県にある「日本福祉大学Ⅱ部」を受験し、無事合格できました。(正直この時、「見返したる!」とかいう気持ちは全くなく「やっとこの家から出られる!」という晴れ晴れとした気持ちでいっぱいでした)
⑦「オンナができたら責任の取れんことだけはするなよ」
ん?なんか急にニュアンス変わりましたよね?笑
⑦と⑧の2つの言葉は、父から言われて…というか、父に言われたからこそ、ものすごく心に響いた言葉です。
高校時代、僕に彼女がいることを耳にした父が「オンナができたら責任の取れんことだけはするなよ」と僕に言ったのです。
高校時代に父としゃべった記憶は全くありませんが、この言葉を言われたのははっきり覚えています。(ほな、しゃべっとるがな!笑)
我が家には風呂がなかったので毎日銭湯通いだったのですが、行きつけの銭湯でたまたま会って、しかも洗い場が隣になり、頭を洗っている時に突然前フリなく言われました。(あまりにも衝撃的過ぎて「ケロリン」の椅子から滑り落ちました。はい。すみません。これはウソです)
僕の頭の中はエロい気持ちでいっぱいだったので「恥ずかしさ」と「確かにその通りや。オヤジの言う通りやな。気をつけなあかんな」という気持ちが入り混じって、何とも言えない気持ちになったのを覚えています。
さすがにこの時ばかりは「う、うん…」と返すのが精一杯でした。笑
⑧「オンナなんて世間にはなんぼでもおる」
はい。さっきの⑦あたりからもう完全に話変わりましたね。笑
これは、高校卒業間近に言われた言葉です。
高校生活もいよいよ大詰めの時、すでに大学も合格していたので「あとは学費と生活資金を稼がなければ!」と意気込んでいた僕に、母が「おとうに言うて、仕事連れて行ってもろたら?」という提案をしてきました。
僕もその時は素直に「ほんまやな。それはええ方法やな」という気持ちになり、父に頭を下げてお願いしました。すると父は「わかった。その代わり楽ちゃうぞ。仕事やからな。段取り付けたるから待っとけ」と言ってくれました。
そうこうしているうちに、兵庫県の豊岡の現場に1ヵ月間泊まりこみで行く仕事が決まり、そこに父が行くので僕も一緒に連れて行ってもらうことになりました。(ちなみに父の働く姿を見るのはこの時が初めてでした。この時の詳細は割愛しますが、1ヵ月の給料約30万円と大学合格の祝儀に10万円、合わせて40万円ほど親方から頂きました。めちゃくちゃうれしかったです。そして何よりめちゃくちゃ助かりました。僕は進学のための準備や引っ越しの段取りがあるので、父より一足先にその40万円を大事に抱え込んで大阪に帰りました)
大阪に帰るとすぐ、久しぶりに彼女に会いたい一心(さきほど一瞬出てきた彼女です)で、僕はすぐに彼女の家に電話をしました。(当時は携帯もなく、家に電話をかけなければいけないという、今思えばなかなかのハードルの高さです)
でも、向こうのお母さんは「今、いません」の一点張り。次の日も、その次の日も「今、いません」の一点張りでした。(一点張りがかっこいいのはギャンブルだけです。こんなつらい一点張りはなかったです)
そんなこんなで、せっかく大阪に帰ってきたのに彼女と連絡が取れないまま、数日が経ちました。そして父も大阪に帰ってきました。
それからさらに数日たった、とある夜(20時くらいだったでしょうか)、桜宮高校〇〇部のキャプテン「S君」が我が家に一人でやってきました。「ちょっと話があるから、いい?」とこわばった表情で僕を連れ出しました。
もちろんこの時、僕は嫌な予感しかしませんでした。二人で今宮工業の裏まで歩いて行くと、Sくんは「まっちょび、ほんまごめん。俺、〇〇(僕の彼女)のこと好きやねん。そしてもう〇〇と付き合ってんねん。(中略)…そやから、まっちょび!俺のことシバいてくれ!」と言ってきました。(その時、僕の頭の中は真っ白です!!もはや絶望です!!!笑)
当然僕はS君を殴り飛ばしました。蹴り飛ばしました。そして半殺しにしました…。というのはウソです。妄想です。
僕はS君に「もうええよ。〇〇のこと、しあわせにしたってな」と、精一杯の言葉だけを残して、S君と別れました。(ヘタレ!僕ちゃんのヘタレ!笑)
高校生活の最後の最後に「さあ!これからようやく新たな人生が始まる!」という希望に満ちた瞬間に僕は完全に二股をかけられ、失恋したのです。笑(この時のショックから立ち直るのに、2年以上かかりました。涙)
S君と別れ、とぼとぼと家に帰り、半泣きでしょぼくれている僕を見て何かを察した父は、ため息をつきながら「シュンイチ、オンナなんて世間に出たらナンボでもおるからな。せやからな、シュンイチ、オンナなんて世間に出たらナンボでもおるからな」と、全く同じことを2回言ってくれました。(なんやねんこれ?一体これ、何の話やねん!笑)
とにかくここで言いたいのは「仕事をしている時の父」と「この言葉を言ってくれた時の父」はむちゃくちゃカッコ良くて優しかったということです。
この瞬間に、これまでの僕の「父に対してのわだかまり」がスッと消えたような気がしました。(失恋のショックは大きかったのですが、逆に父に対してこのような気持ちになることができて良かったです。何事も「失うものがあるからこそ、得ることができるものがある」ということなのかもしれませんね。あー素晴らしい。悔)
以上が「誰にも言えなかった父のこと」です。
父とはいろんないざこざや気持ちの行き違いがありましたが、今となっては何のマイナスの感情もありません。
育ててもらって、心より感謝しています。
以前noteに「誰にも言えなかった母のこと」を書きました。
本当は母が生きてさえいたら、その「誰にも言えなかった母のこと」の最後に「オカン、長生きしてや」と書きたかったです。
しかし、母は残念ながらもう亡くなってしまっているので、それは叶わぬものとなりました。(結局母に対して僕は一度もその言葉を言えぬまま、親孝行もできないまま終わってしまいました。母の死後、10年以上経った今でも大きな心残りとなっています)
だから、今回の「誰にも言えなかった父のこと」の最後に、これだけは書かせてください。
「オトン、これからも長生きしてな。俺はオトンの息子で、ほんま良かったと思っています。オトン、ほんまありがとうな」
と…。
ていうか、あちゃー!!!
4200字超えてる!!!
これはいけません。
長いにもほどがあります。
そして、いろんな意味で僕も限界が来たので、そろそろ終わります。
それでは最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
おやすみなさい。。。
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