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[027]働き方をふりかえる(改題)


こんばんは、まっちゃんです。


あれも書きたい、これも書きたい、なんて思い耽っていたら、最初の投稿用で昨年末に書きしたためた文章が出てきて、読んでみたら今と状況が変わらないことを書いていたのでかなり残念な気持ちになりましたが、今週はそれを転用することにしました。

昨年の秋も体調を崩していて、本当にもったいない1、2年を過ごしているなと感じ、どこにぶつけていいかもわからない怒りにも似た感情に襲われているわけですが、書くことで少し心を落ち着けておこうと思います。
(それでは、ここから再掲部分となります)

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2019年、「不調」のシーズン

2019年は走馬灯のように過ぎていきました。

もったいない、というのが最初に抱く感情ですが、そう感じる理由のひとつに「多忙」があると思っています。

しばしば、「忙しいのはありがたいことだ」という言葉を耳にします。

仕事があることを大事に思うこと、そしてひいては、毎日平穏に生活が営めること、こういったことの貴重さは毎日感じる時は確かにあって、人並みには噛みしめている方なのだと思います。

しかし、忙しいかどうかは本人が決めることではないだろうか、とも思います。(この際の問題提起は控えますが)

なんにせよ、今年(2019年)の正月から師走の今まで「多忙」な毎日を過ごしてきたわけで、そのせいか、シーズン通してずっと体調は芳しくなかったし、いつになく体調を崩しやすかったシーズンでした。

メンタルでの不調がフィジカルにも影響したシーズンでした。


そんな精神的不調、肉体的不調に陥り、正直万全なシーズンにできなかったのには、いくつかの細かい原因があると思います。それらをここで書いておくことによって俯瞰し、整理しておきたいと思います。


3つの「多忙」原因が不調を呼んだが…

不調を呼んだ原因として「多忙」を挙げましたが、どのように「多忙」な職場であったか、少し整理してみることにしました。

〈たぶんこれが不調を呼んだ…?〉
 ①組織改編による弊害
 ②人間関係
 ③インプットが多すぎた


①組織改編による弊害」についてですが、春に大きな人事異動があったものの、年度変わりの直前に行われたために部署内外での情報共有、引き継ぎなどが全社的にままなりませんでした。

年度始終はどこの部署も超がつくほどの多忙でしょうが、新体制での(2019年)4月の記憶はもはや消し飛んでおり、暦どおりの勤務にもかかわらず休日出勤したGWの最終盤のあたりしか、春先の記憶はありません。

そもそもGWまで出勤せざるを得なかったのは、前年度から自分の部署が一人減員されたことが最たる原因で、かつ、新体制の2/3が他部署から異動してきたメンバーだったことも大いに関係がありました。

この組織改編がどのような意図をもって行われたかは察しがついていましたが、組織におけるこの部署の重要性から見ればびっくりするほどの冷遇と言えました。
(今となっては、意図的に冷遇できるようなそんな賢い組織でもないと確信しました)

案の定、この部署での慣れない業務や減員からくる業務過多によって、いわゆる“DL入り”になった同僚がおり、もとより人が足りないところ、いよいよフルメンバーで戦えない状態から“撤退戦”の雰囲気が部署内に漂ってきているわけです。

驚くことに、これはまだ夏を迎えた時点での状況でした。


②人間関係」については、改めて言及する必要もないと思いますが、ほとんどの職場でこれに悩み、これに憂い、そして苦しんでいる人がたくさんいることでしょう。

コミュニケーションや組織経営、教育の観点を整理すれば一定の答えくらいは用意できるでしょうが、カンフル剤、特効薬といったものがなかなか見つからないのは、もはや世の常みたいになっているのが現状です。

それも、人間は十人十色。他人の思考回路から飛び出すビックリするような発言は、もはやそれが日本語なのかどうか考え込んでしまうほどに、自分にとっては難しく感じるときは多くあって、コミュニケーションや人間関係は多様で、複雑で、取り扱いに時間も労力もかかるものです。

とはいえ、時間や労力をかければ必ず解決するものでもなく、クリアーな答えは誰も持っていません。
こればかりは、自らが直面した個別具体的なケースと相談しながら逐次、当事者たちが考えていくしかないのだと思います。

「フツーに考えれば○○するでしょう…」というありふれた考えが目の前の相手に全く通じなかったとき、その原因のひとつとして「世代の違い」であったり、「地域の違い」が挙げられるのかもしれません。

所得の格差によって生育環境が違うだの、ウチの地域ではおせちは大晦日から食べるだの、そんな無数の要素から成り立つ生活様式、文化形態、慣習がこの狭い島国にはいっぱいあるわけです。

そう考えれば「フツーに考えれば○○するでしょう…」という考え方は、いかに相手頼みの脆い考え方であるかを思い知らされることになります。


乱暴に割愛しますが、②は上司(世代)との言葉、文化、時代背景、思想……といった多くの違いによって生まれるお互いへの理解(これには、言葉の使い方、間の取り方など広く含まれると思います)の不一致にとてつもないストレスを感じることが今年は随所にありました。


③インプットが多すぎた」は文字通り、新しいことを覚えすぎ、詰め込みすぎ、ということです。

私は脳科学とかその手の専門家ではないので、断定的なことは言えません。しかし、おそらくヒトという生き物は一定期間に記憶できるデータ量、その記憶情報を引き出す速さ、その情報を元に次の行動に移ることなど、これら全体に対する「容量」みたいなものは決まっていると思います。

脱線すると、この③は①(組織改編による弊害)によって生じる「プライベートに使える時間の減少」や「余裕・ゆとりのなさ」などの精神的にシビアな状態を原因として起きていたのではないかと私自身、秋になったあたりで気づき始めました。

①でもう一つ付け加えるなら、一度インプットしたものを何度もアウトプットするコスパのいい業務形態、業務量では残念ながらなかったことも原因としてあったと振り返ることができます。

仕事とプライベートの両面で、少しずつジワジワとアウトプットの機会を逃しながら、一方で職場では”一度きりの業務”が増えていき、もしかしたら丁寧にやらなくてもいいかもしれない仕事を馬鹿丁寧にやらなければならない日々が半年以上も続きました。

「“丁寧にやらなくてもいいかもしれないかどうか”を考えるのがこれからの仕事のやり方だ」との言葉は百も承知で、上司の指示をハイわかりました!で流して進める仕事はもはや仕事ではなく、作業だと感じている点では私も同意です。

ただ、ある種メディアや世間話を通して耳に入ってくるこの、”自分で考えなさい”言説は、“丁寧にやらなくてもいいかもしれないかどうか”を考える余裕が、ある一定以上担保されていてはじめて成立するような気がしてなりません。
(これは2020年になっても変わらない考えです)

極端な話、戦時下の東南アジア、緑生い茂る見知らぬ島でいつ連合国の空襲や銃撃に遭うかも判らず、泥水をすすりながら餓死寸前でも猛然と邁進する日本兵が「否、これは丁寧にやる仕事でありますッ」と言って正常な判断ができるのだろうかと感じてしまいます。

当時の日本兵のように、死と隣接した峻厳な状況に追いやられているわけではないと思いますが、一方で同僚を”DL入り”もとい労働災害に追い込むような事案が発生し、全体の2/3が業務ハジメマシテのビギナーになった右往左往部署で、“丁寧にやらなくてもいいかもしれないかどうか”を考えている余裕はない(と、当事者としてビシビシ感じている)し、こと現代においてこの状況は、割と”死と隣接した峻厳な状況”と言って差し支えないように思えます。

つまり、頭の中の”容量”に少しでもスペースを空けて、CPU部分に熱を帯びさせないようにじっくり稼働していくこと、そして、アウトプットの時間を取るように努めなければならないことが肝要だと痛感したのです。


すべてつながっている

ここまで整理して判ったのが、①も②も③も、すべて相互に関係している原因だということです。

そしてこの記事で私が一番警鐘を鳴らしたい点は、このようなシビアな状況に置かれても「当事者は気づきにくい」という点です。

半年以上、この新体制で仕事にあたってきて、少しゆとりを持てたこと、そしてたまたまそのゆとりを持てたことでゆとりを持とうと思えるようになったこと、そのほんの偶然ともいえるポジティブな連鎖によって、客観的に自分を見られるようになったのが、この(2019年)秋から師走にかけてでした。

誰もできなくても絶対に誰かがやるでしょうし、敗戦間近で一人の日本兵がどう行動しようが戦争には負けるのです。

そんなカンタンな判断も不能になるくらい、追い詰められた「当事者は気づきにくい」ことを、軽く考えすぎなのかもしれません。


「働き方改革」なんて言葉だけが独り歩きする2019年、あまりいい思い出はありませんでしたが、自分のための2020年を迎えるべく、ここでいったん立ち止まり、「不調」とオサラバしたいところです。


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