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震災で問われたもの~キリスト教メディアの視点から(3) 「信心」が目を曇らせる時

「中外日報」2014年7月23日~8月8日に寄稿した連載全6回。

引き継がれる奴隷の知恵

 震災直後に『福島原発人災記――安全神話を騙った人々』(現代書館)を著した文芸評論家の川村湊氏が、戦後日本の「被爆=被曝」体験から生まれた文化現象を解析した本がある(『原発と原爆――「核」の戦後精神史』河出ブックス)。同氏はその中で、原爆を〝神の摂理〟と説いたカトリック医師の永井隆について言及し、原子力の問題が「きわめて情緒的」にとらえられた精神的背景には、『長崎の鐘』に代表されるような「学問的でも科学的でもないイメージの先行」があったと指摘する。

 「そうした信仰心の強さこそが、原爆投下の責任や、その罪悪をうやむやにして、〝復讐するは我(=神)にあり〟として、それらの犯罪者、責任者を免罪し、釈放してしまうことにつながってしまったのではないか。つまり、永井隆は、キリスト教的な博愛の精神で、人々の頭の上に原爆の火を落としたアメリカを擁護しただけではなく、その後のアメリカの原子力の一元的な支配によって、『世界』そのものについての覇権を握ろうという野望を結果的には受け入れてくれる使いでのある思想なのだ」

 人知を超えた大災害と、それに端を発する「人災」としての原発事故を宗教的言説で説明し、納得させようとする誘惑。震災後に説かれた教説や神学が、原発を含む諸々の構造悪を存続させるための「使いでのある思想」になり下がってはいないか。

 さかのぼること18年前。当時、福島大学経済学部教授だった清水修二氏(同大副学長)が、『差別としての原子力』(リベルタ出版)ですでに同様の警鐘を鳴らしている。地域振興のため、潜在的危険と引き換えに原発を誘致し続ける過疎地の論理と心理に踏み込み、原発推進のメカニズムを説き明かした同著。当時、双葉郡楢葉町の町長が第二原発の運転再開に際して「信じるしかない」と発言したことを引用しながら、著者はこう指摘する。

 「ここでは原発は科学の次元を超越してほとんど『信心』の問題になっています。『信じないこと』によって不安な毎日を送るよりも『信じること』で安穏な日々を暮らすことのほうを選ぶのが庶民の知恵なのだとしたら――それは奴隷の知恵でしょう」

 教会の葬儀で歌われる、「はるかにあおぎ見る」で始まる賛美歌がある(『54年版』488番)。これをもとに、世界産業労働者組合(IWW)の指導者であったジョー・ヒルが作った替え歌が、「牧師と奴隷」である。20世紀初頭のアメリカで、酷使される貧しい労働者たちに「現世では苦しくても来世で救われるように祈りなさい」と説くキリスト教への痛烈な皮肉を込めた。

 邦訳(藤崎健一訳)ではこう歌われている。「牧師が厳かに 天国を語るとき/俺たちは腹がへる/そこで 牧師が猫なで声で/お待ち もうすぐだ 天国へ行く日が来る/働け 我慢せ 死んだら あの世で食べられる」

 戦争、原爆、ハンセン病、格差と貧困、大震災――。苦悩する民衆に「あきらめ」と「なぐさめ」を説き、不幸な現実を改善しようとする動きを牽制したかつての教会の歴史は、今も脈々と引き継がれている。

(「中外日報」2014年7月30日付)


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