見出し画像

「ただの『絵』なんだから踏めばいいじゃない」と言われたら、私は踏まない

(2011年6月16日「松ちゃんの教室」ブログ記事再掲)

東京都の「10・23通達」を含め、一連の強制が「踏み絵」にたとえられることがある。

私の改革派的信仰理解からすると、何らかの図像やシンボルそのものに聖性が宿るとは考えないため、もし同じようなキリスト教の「絵」があったとしても踏むことに躊躇はない。

ただし、それはあくまで日常的な状況でのことであって、当時のように「踏み絵」が個人の信仰をあぶり出す制度としてあったならば、やはり踏まないだろう。「日の丸・君が代」だって、わざわざ法律化してご丁寧に罰則規定まで作られていなければ、それこそ「空気を読んで」立つぐらいはしたかもしれない。

しかし、現状はまったく異なる。かつて絵を「踏むこと」で信仰の放棄を表明させられたように、都教委の監視下にある今日の式典においては、「立つこと」そのものが、「お上」への服従と自らの歴史観、思想・信条の放棄を意味せざるを得ない。

その意味でも、一般論として「国旗・国歌にどう敬意を表すか」といった議論は、この際まったく関係ない。一部には、「公務員だから従って当然」「嫌なら辞めろ」という暴論がまかり通っているが、順法の精神を説くならば、それこそ憲法19、20条の理解が問われるだろう。

しかも、この間の判決の影響もあってか「内心で文句があっても外面上は従うのが、教員としての公的責務」的な意見もある。果たしてそうか。私が生徒だったら、口先で「実は反対なんだけど…」と言いながら「立ってしまう」教員の姿から学ぶことは、やはり強大な権力には逆らえないという無力感と、本音と建前を使い分け、「長いもの」には巻かれるのが利口だというオトナの論理でしかないだろう。

学校教育は、事あるごとに「違いを認め、個性を育む」と謳ってきたではないか。個人的な思いから「敬えない」「歌えない」という意見にも耳を傾けて寄り添い、それらを通して他者を尊重し、共生の道を模索することこそが教育ではないか。そもそも、立たずに歌わないのは「不敬」として、「日の丸・君が代」を自らの権威に従わせる道具に悪用していることこそ許し難い侮辱行為ではないか。

「敬語だって、内心尊敬していなくても社会常識として年上には使うじゃないか」「十字架だって、数々の歴史的殺戮を許容してきたキリスト教のシンボルじゃないか」という意見も聞いた。

ごもっとも。しかし、「敬語を使わないと罰する」とか「礼拝で十字架を仰ぎ、賛美歌を大声で歌わないのは不信仰」などと言われたら、私も異を唱えるだろう。少なくとも、戦争の最高責任者を免罪し、その一族による統治を願うような旗や歌だけはごめんだ。

「じゃあ、初めから公立じゃなく、キリスト教主義の学校に勤めれば?」

ごもっとも。しかし、このご時勢、私立校にも強制の波が押し寄せないと誰が保障できるだろうか。そして、公立校から相手を選ばずものが言える骨のある教師が一人もいなくなってしまったら…と思うと、これから我が子を公立校に通わせようとしている一人の親として寒々しい思いを禁じ得ない。

もちろん、立って歌う自由もある。キリスト者だから全員「不起立」が当然…とも思わない。立ちたければ立てばいい。苦渋の決断として「立って」いるキリスト者教員も少なくないはず。しかし、この世の権威や社会常識に迎合し、プロテストすることなく、マイノリティを排除する側に加担しているとしたら、そんなものはもはや「地の塩」ではあり得ない。

「ただの『絵』なんだから踏めばいいじゃない」
「ただの『儀礼』なんだから従えばいいじゃない」

そんな論理に誰もが黙従するような『茶色の朝』を、私は決して迎えたくない。キーワードは「強制から共生へ」。

最後に、5月28日付「中日新聞」コラムの一節を再掲したい。

 知事は、憲法に保障された「思想・良心の自由」の問題ではないとするが、もし起立が「国歌」への敬愛の念の表れだとすれば、起立を事実上、強制することは敬愛の強制になろう。だが、そもそも、キューピッドの矢でもあれば別だが、強制によって人に何かを「愛させる」など無理な相談。せいぜいが、クビを避けるため、その気はないが形だけ立つというケースを増やすだけだ。思いを拒む相手に銃を突きつけ、とにかく「愛してます」と口に出させる…。例えば、そんな行為に何か意味があるとは思えない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?