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【映画評】 フィンランドのニューウェーブな8ミリ映像作家〈パシ・スリーピング・ムルマキ〉に関する4つの覚書@イメージフォーラム・フェスティバル

(写真は『眠り(SLEEPING)』=イメージフォーラム・フェスティバルから)

パシ・スリーピング・ムルマキは70年代から80年代にかけ、誰かに依頼されるでもなく、パンク的構造を8ミリフィルムで量産したフィンランドの映像作家である。
彼は1950年生まれだが、ここ数年で現代美術家たちに「再発見」され、ベネチア・ビエンナーレでもその作品が紹介されている特異な経歴を持つ映像作家である。

彼がヘルシンキのパンクなライブ会場に機材を持ち込み上映した10作品が、《イメージフォーラム・フェスティバル2017》の「ニューフィルム・インターナショナル」部門で上映(ただしデジタル上映)された。
わたしは4作品しか見ることができなかったが、記録にとどめておきたい衝動を覚えた。

以下、4作品についての覚書だが、わたしにとり、まったく予備知識のない映像作家であることから、ファースト・インプレッションをそのまま記した。


『りんご(OMENA APPLE)』 2分(1976)

テーブルの上に一個のリンゴがある。
りんごは不意に中空に浮遊し、しばらくして金槌のようなもので叩き潰される。
再び、テーブル上に一個のりんご。

いま、とりあえず「一個のりんご」と名づけたのだが、りんごは確かにそこに在るけれど、それをりんごという、他と差異があるかのような固有性を明示するかのように名づけてもいいのか、わたしを不安にさせる。だからといってリンゴのようなものともいえないし、ただ、「それは浮遊するイメージ」と述べるに止めておくべきだったかもしれない。いや、浮遊そのものが幻想なのかもしれないし、ただイメージがあるだけだともいえる。


『身ぶり(ELE)』 3分(1981)

黒いマスクを着け、全身黒ずくめのひとりの男が公園のベンチに腰掛けている横からのショット。
「ひとり」、と書いてしまったが、果たして、本当にひとりなのだろうか。
フレーム内には「ひとり」、であるにすぎないのかもしれないのに。
映画にはフレーム “内/ 外” がある。そして、「男」と書いたのは、黒いマスクを着け、全身黒ずくめの人間は「男」に違いないという、わたしの先入観にすぎない。
わたしはフレームの外部におり、決してフレーム内に干渉はできないのだから、「ひとり」であるとか「男」であるとかは確認不可能である。だから、とりあえず、「ひとりの男」がベンチに腰掛けているイメージをわたしは見ている。
ひとりの男は何かを見つめているようように思える。しばらくその状態が続くのだが、不意に動作の予感を覚える。すると男は、目の前の一本の細いポプラの木にゆっくりと右手を伸ばし、木を掴む。
身振りは、それで完了する。非の打ちどころのない完璧な動作であった。そのことだけは確実であると思う。


『眠り(SLEEPING)』 2分(1979)

『りんご』『身ぶり』と大きく作風が異なる。
『りんご』『身ぶり』は映像の即物性が印象的だったが、『眠り』にはフィルムというマテリアルに刻印された夢の残虐性という、人間の本性と残像のようなイメージが現れる。
眠った人の閉じた瞼、そこにナイフ。ブニュエル『アンダルシアの犬』(1928)をオートマティックに想起するが、『眠り』のイメージは腐食したようなフィルムに呑み込まれ、眠りは変異する。
変異は制御不能で、意識のコントロール不能性も、人間の本性、あるいは意識の深層性からくるかのようだ。


『セルロイド上の5つの穴(FIVE HOLES IN CELLULOID)』 2分(1980)

暴力性、残虐性という意味で、『眠り』と等質なイメージ。
だが、
イメージの即物性という意味では『りんご』『身ぶり』と等質である。
バン、という銃声音が5回。銃声音とともに、8ミリフィルムのマテリアルにアニメーションのような空洞(撃ち抜かれた穴)が穿たれる。
言うまでもないことだが、映画における物語とは、ショット(shot=引き金を引くこと)の積み重ねで立ち現れる時間のことだ。
時間は本来的に連続なのだが、映画はその連続性が保障されているわけではない。ショットとして現すことで時間の連続性も現れる。しかもショットとは、時間の暴力的な切断を前提とするのだから、これは命の切断でもあるのだ。だから、物語るには、自己に向けても他者に向けても拳銃の引き金を引く(shoot)ほどの覚悟を必要とするということなのだ。
『セルロイド上の5つの穴(FIVE HOLES IN CELLULOID)』を見る行為は、物語の発生の瞬間に遭遇することと同値なのである。

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わずか4本のパシ・スリーピング・ムルマキ作品なのだが、豊かなイメージとの予期せぬ遭遇は新鮮であった。
フェスティバルのパンフレットによれば、1950年生まれ。パンクやアンダーグラウンドシーンで活躍する短編映像作家。熱狂的な8ミリファンの保守的な価値観に激しく反論し、〝ニューウェーブ・カルチャー〟としてマニフェストを発表した、とある。
フェスティバルで上映された他の6作品も見ておくべきだったと、後悔しきりである。

(日曜映画批評家:衣川正和🌱kinugawa)


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