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【映画評】 山本政志監督『水の声を聞く』、女優・玄理(玄里)東日本3.11、済州4.3

        (冒頭写真=outside in tokyoより)

「済州4.3」の体験者を母にもつ大阪市生野区生まれのヤン・ヨンヒ(梁英姫)監督
監督の母を主人公にしたドキュメンタリー『スープとイデオロギー』が完成間近という。どのような作品となるのか待ち遠しいのだが、その関連で山本政志監督『水の声を聞く』(2014)について考えてみた。

山本政志監督『水の声を聞く』は「済州4.3」と直接の関係ではないが、本事件を作品に挿入させることで、物語としての『水の声を聞く』をドキュメンタリーへの不意の変位を見事に描いている。
『水の声を聞く』を見直すことで、〝救済〟とは何かを問うてみた。

『水の声を聞く』のストーリーに触れています。

山本政志監督『水の声を聞く』yahoo映画

             (写真=yahoo映画より)

新大久保のコリアンタウン。若い女性ミンジョン(玄理ヒョンリ、撮影時は玄里)は女友だち美奈(趣里)の誘いにのり、小遣い稼ぎに、軽い気持ちで巫女を始めた。頃合いを見て辞めるつもりだったが、次第に救済を乞う信者が彼女の元に増え始めた。だが、彼女の周りに集まるのは純粋な信者ばかりではない。多額の借金を抱え、教団に逃げ込んできたミンジョンの父親(鎌滝秋)と、それを執拗に追うヤクザ高沢(小田敬)。ミンジョンをカリスマ巫女に仕立てようと企てる広告代理店の赤尾(村上淳)。そして様々な思惑を抱く人々。

ミンジョンの周りでは人々の欲望が絡み、思惑が見え隠れする。そして、宗教団体『真教・神の水』が設立されるまでになった。教団は彼女の手の届かないシステムとして動き始めた。後戻りできなくなる彼女なのだが、教団が巨大化するにつれ、多くの人たちが自分の元に救いを求めて来る重圧に耐え難くなり、それとともに巫女を演じることに罪悪感を抱き始める。
追い詰められたミンジョンは、ついには、信者の前で筋書きにはない告白をするまでになった。「わたしは偽の巫女である」。

だが、「偽物でも、わたしたちにはすがるものが必要なのだ」と、思ってもみない信者の反応にミンジョンの気持ちは揺れた。人々は何に祈り、いかなる救済を求めているのか。ここには、信じたい人、祈りたい人がおり、人と宗教との、抜き差しならぬ関係があった。そこに教団を巡る欲望が深く絡むことで、聖と俗とが渾然となった世界が展開されるのである。

世俗における「暴力支配」宗教における「心の支配」
「暴力支配」と「心の支配」を対置させたとき、そこに立ち現れてくるのは何なのか。

これは山本政志監督がこれまでに映像として呈示してきたことの延長上にあるのだが、本作品の背後にあるのは、3.11後の閉塞した鬱々とした空気である。山本監督作品においては、「暴力支配」はなにも世俗の占有ではないし、「心の支配」も宗教という聖なる領域の占有ではない。元来、〈聖/俗〉という分類は西欧的な分類であり、東アジアにおいては結界という境界概念があるとしても、西欧の教会堂という聖なる内部と、その外部である俗なる世界といった、西欧的二分法の明確な区分はない。とりわけ日本においては、明治以降の近代化(=西欧化)の中で、宗教の俗なるものが古層へと沈殿し見え難くなっているのであり、その流れの中で、〈聖/俗〉という二分法は、制度として仮構されたに過ぎない。

『水の声を聞く』は、これまでの山本監督作品と異にするという印象を受ける。だが、本作品で特徴的なのは、現代社会を、暴力支配と心の支配、そして救済を、多層な社会構造として呈示するのではなく、〈聖/俗〉という二分法が無効であるように、層という構造そのものが、日本においては成立しないのではないのか、ということであある。いわば、中心のない、いたるところ周縁という社会、あるいは、いたるところ離接点という世界が見えてくるのである。
いや、これは少し違うかもしれない。中心のようなもの、いたるところにある離接点を貫く存在としての擬似中心があるともいえる。本作品の場合、擬似中心となるのは〝水〟である。

玄理が演じるヒロイン、巫女・ミンジョンの、まるで水の精を思わせるような端正な冒頭のシーン。山本監督作品で、これほどまでに清涼な始まりがあっただろうか。水槽に貯められた水に祈りを捧げ、水の声を巫女の口から信者に告げるシーンなのだが、たとえ小遣い稼ぎの軽い気持ちであるとしても、3.11後の社会においては、救済の声であるには違いない。後に、信者が「偽物でも、わたしたちにはすがるものが必要なのだ」と述べたように、〝水〟という、触れることはできるが形を持たないものへのスピリチュアルな畏敬を持つのは自然なことのように思える。
水が森の緑を潤し、樹々の緑から大気へと水分が流れ込み、地上に生きる生命を豊かにするという循環。その源となる〝水〟。そこに、三種の神器のような存在を見ていると言えるだろう。山本監督は、そこに明治以降の近代化・制度化された宗教ではない、古代のアニミズムを見るのである。それは、女優としての玄理の存在そのものと言ってもいいだろう。

アニミズムは世俗域でもなければ聖域でもなく、世界に遍くある。
人としての玄理は朝鮮半島に起源を持ち、日本で生まれ育ち、韓国でも英国でも教育を受けた普遍的な存在としての女優という意味で、水や森を思わせもする。しかも、山本監督作品はそのことに止まらない。監督ならではの飽くなき欲望を仕掛けるのである。それは、ミンジョンに、巫女と偽ることの忌避とそのことを受け止めることの重圧を露わにさせ、自らの救済を求めさせるのである。
救済とは、ミンジョンの出自をめぐる旅である。その中で、祖母が済州島出身の巫女(シンバン)であり、ミンジョンは巫女の血を受け継ぐものであることを知る。そして、祖母は、済州4.3事件(1948.4.3済州島で起こった島民による蜂起への弾圧・白色テロ。政府軍・警察により多くの島民が虐殺された。死者数は諸説ある)により、大阪に逃げ延びてきたのだということも。

山本政志監督『水の声を聞く』映画芸術

             (写真=映画芸術より)

この事件は本作品の本質から幾分外れるのだが、救済という意味においては不可分である。これは映画のサイドストーリーでは決してない。この事件を取り上げることそのものが、救済を主題とした本作品のドキュメントとなっているのである。

山本監督は『水の声を聞く』の3年前の作品『スリー☆ポイント』(2011)で、沖縄の基地問題に軽く触れたことはあったのだが、これほどまでに資料を読み込み、映像化したことはなかったように思う。済州島でのヨンドゥンク(1年に1回、神が一堂に集まるという儀式)のドキュメントと、この地でのミンジョンの修行。そして済州島の深い森。そこにあるのは、紀伊国の博物学者・民俗学者、南方熊楠を扱った未完の『熊楠KUMAGUSU』であり、山本監督の作品全てに、『熊楠KUMAGUSU』からの放射エネルギーのようなものを感じざるを得ない。

         (Wikipedia)南方熊楠について

さて、ミンジョンは真の巫女となるべく修行を積み教団に戻ってくるのだが、教団には、遮ることのできない欲望の手が入ることになる。ミンジョンは失墜し、宗教団体『真教・神の水』は他の手に陥ることになる。
誰もいなくなったマンションの一室。部屋の中央には水槽があり、その周りには擬似・森としての樹木の鉢植えが置かれている。それは、ミンジョンが、巫女として「水の声」を聞いた部屋である。見捨てられた水槽は幾分透明度をなくし、擬似・森も水分を失い始めている。終焉を告げるかのように、一枚の樹の葉が水槽に舞い落ちる。カメラは水面に浮かぶ葉を捉えると、葉に火がつき、小さな炎となる。何かが浄化されたようでもあり、奇跡のような救済でもあった。

信じるとは何か、祈るとは何か、救済とは何か。
人間の根元への山本監督の眼差しは、その先にある未完の大作『熊楠KUMAGUSU』へと向けられているに違いない。

(参考)ヤン・ヨンヒ(梁英姫)監督作品
『ディア・ピョンヤン』(2005)ドキュメンタリー映画
『愛しきソナ』(2011)ドキュメンタリー映画
『かぞくのくに』(2012)フィクション映画

(日曜映画批評家:衣川正和🌱kinugawa)

『水の声を聞く』トレーラーです


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