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小説「ファミリイ」(♯33)

 四回生に上がる直前の三月の終わりから四月にかけて、僕は東京で円滑に就職活動を行うために、実家に長期滞在をすることになった。このころ僕はテレビ番組の制作会社なども受験し始めていて、ようやくいくつかの会社の一次面接を突破し、二次、三次へと駒を進めていたのだ。そのほかのテレビやコマーシャルの制作会社の選考も並行して受けていったので合計二十日ほど滞在をしていた。映画サークルで定期的に開催していた上映会に関する雑務や、ほとんど単位を取得していたとはいえ、まだ所属しているゼミの研究発表や卒業論文に関する準備もあったので、四月の後半には京都に戻らなければならなかった。

 一旦京都に戻って就職活動を脳内から引き離し、通常の生活に戻って心を落ち着けていると、父親がまた僕にあらぬ言葉を、メールを使って投げてきた。
就職活動の進捗を聞いてきた父に、僕はまだどこからも内定が取れていないことを伝えると、父親は、自身の遍歴を棚に上げて、

「だから甘いと言ったんだ。映像は諦めなさい」

と返してきた。

 僕は当時使っていた二つ折りの携帯電話を床に叩きつけた。父にだけは言われたくなく、言う資格すら有しない強度が低く、地に足をつけると木目の下に広がる空隙を感じ取れるフローリングの床に跳ね返った携帯電話は、割れることもなく数十センチほど宙に浮いてまた着地した。その軌道はやけに遅く僕には見えた。一瞬の紅潮から目を覚ますと、僕はその身から離れたこの電話を再度取り上げ、すぐさま母親に送られてきたメールを転送した。やはり父は、母から咎められるのを恐れて母を同時送信者に入れていなかったので、僕はまず母親に周知をした。そして、母の携帯電話番号に電話をかける。つながらない。どうやら病院で勤務中なようだ。母の務める病院に電話をかけた。受付が機械的な声で電話に出て、母へと取次いでくれた。

 母が電話に出た途端、僕は自然と涙声になり、父が送ってきたメールの内容を怒気を強めにして伝えた。怒りに任せていたために自分でも発言内容がまとまっていず、支離滅裂であることがわかった。母は実物を見ていないのと職場であるために周囲の目に憚る必要があり、困惑の境にあった。

 父は家にいるときは始終PCを開いてソリティアやマインスイーパーをやっていた。もはや使用もしない旧型のウィンドウズのソフトや各種の解説本を棚に残しているギークだったが、僕は父のパソコンを居室の二階の窓から落として壊し、父の築いたパソコン遺産を全て処分してやる気になり、その意向を涙声混じりに母に伝えた。

「パソコンも何もかも全て壊しに明日帰るからな!」

と言い放ち、僕は電話を切った。虚偽ではなく、この電話を切って暫くは本当に翌日帰って、父から取り上げてやろうと考えていた。しかしもう暫く経つと、そのためだけに家に帰るということへの非効率性も現実的に頭をもたげてきて、京都にやってきた時に持ってきたドラムバッグを取り出すところまでいっていたが、ひとまずは保留し、態度を見てみることにした。母が諫めてくれていることを期待したのだ。

 「お前は甘い」なんて言葉がまさか父から出るとは想像だにしていなかった。しかも突然、なんの前兆もなく父は斯様なメールを送信してきた。この行動裏には父の中に精神病質があることを表している。兄の精神病は父方から受け継がれたものが大きい遺伝的形質だということ、に僕は気づかされた。この男にこれ以上近づくと、蟻のように弱々しい僕も蝕まれてしまう。僕は父に、自分の人生においてこれ以上何も期待せず、心の距離を億光年ほどにまで長大に広げることを決意した。

 次に就職活動のために帰省したのは、五月のゴールデンウィークを過ぎた後だった。帰省したその日、当時使っていた二階の姉の部屋にいると、仕事から帰ってきた母が入ってきた。僕は、就職が決まらなければ留年する意向を両親にメールで伝えていた。日本では就職できずに大学を卒業すると既卒扱いとなってしまって就職活動が不利になり、留年すると新卒としてまだ扱われるため、きっちり四年間で大学を卒業するよりも有利になるという奇妙な慣習があった。旧世代に生きていた両親は卒業しない方が就職に有利であることを知らないため、留年という言葉を出したときは大層驚いていた。残り八単位以下、ちょうど卒業論文さえ残しておけば学費は半分で済むし、通う必要も卒論以外ではほとんど無いので京都の家に滞在する必要もない。

母は留年の意を示した僕を宥め、なるべく最後まで就職活動を続けるように進言した。僕は、

「それでも決まらなければ留年するしかない」

と母に伝えた。このときはおよそ三日間ほど実家にいたが、その間に受けた選考はどれも手応えがあった。そして僕は京都に戻ったとき、ネットサーフィンをしていたら、浪人生のときに自分が落ちたK大学に映画や映像制作を学べる大学院があることを見つけた。純然たる興味を持った僕は、その大学の研究室の教授にメールを入れてみた。

 すると翌日に返事がきて、キャンパスに来るように進言された。当時僕が卒業論文を書くために所属していたゼミの教授と、その教授は友人関係にあることがこのメールの返信でわかった。僕はちょうどゴールデンウィーク明けに受けたテレビの大手製作会社の面接が最終面接まで進んだので、その最終試験のタイミングに合わせて上京する日程に合わせて、教授との面談も取り付けた。

 母に報告したところ、僕が四年前に門前払いを食らったK大学の教授に会うなど想像の範疇外にあったようで、狐につままれたような表情をしていたが、両親にとっては学歴が上がることは自分たちの鼻が高くなることも意味しているので、意外にも面談をすぐ許してくれた。もし大学院に合格したら僕は、さらに両親に数百万のお金を払ってもらうことになる。それで良いものかと思いつつ、僕は新宿のキャンパス近くの某所でその大学院の教授と面談に臨んだ。

 面談と言っても、大学近くの昭和からある年季の入った純喫茶で付き添いの講師と話をした程度だった。教授は白髪で身長が高く、黒いコートに身を包み、明治期のバンカラな学生がそのまま年齢を重ねたような風采をしていた。映画好きという浮世離れした、カルチュアに身を置く自分をひけらかすかのような身なりだったその男と何を話したかは一切覚えていないが、喫茶店を出たあと僕は研究室にそのまま同行した。八畳ほどの、デスクトップパソコンが数台と教授のデスクや機材が置かれていて通路は幅一メートルほどしかないその小さな部屋に通された僕は、先に入り回転チェアに腰掛けた教授から、

「君がもし応募してきたら入れてあげるよ」

と入学許可を申し渡された。ゼミの教授同士が友人関係にあるという縁は強固に働き、教授の推薦状があれば入れてもらえるという。

 僕は帰ってそのことを母に報告した。すると母は、進路が決まらなければその大学院への進学を薦めてきた。父の反応は聞いていない。それなりの大学で学を積んだ僕からすれば父はもう全くの会話の歯車の噛み合わない相手であり、父に言っても内容の三割も理解してもらえないのは明白だった。また父自身が子どものことをまるで親身に想っていないため、言ったところで大した意志を示さないのもわかっていた。それゆえ僕は、母の了解を得たことで両親の了解を得たと解釈した。

 制作会社の最終面接も突破し、僕は六月には大学院と制作会社、二つの道が選べるようになっていた。僕は、学生時代最後にして初めて京都をテーマにした、現地の寺社仏閣でロケーションを組んだ映画の撮影をしながら、就職してアシスタントディレクターとなるか、大学院で映像制作を続けるかを半年ほどかけて思案した。僕は、職業人になるのを遅らせて大学院への進学を選択した。

 映画も撮り終えて編集を済ませ、十二月にサークルの定期上映会にかけ、概ね高評価を得た。十一月頃から上映会の準備と同時並行で僕は卒業論文の執筆に取り掛かっていて、上映会が終わると本格的に取り組むようになった。人より秀でた文章を練り上げることができる僕は、映画サークルで監督と同時にシナリオも書いていたその構成力も発揮し、二万字近い文章にも詰まるところなく、わずか二週間程度で書き終えることができてしまった。

 他のゼミ生や友人たちが弱音を吐いている中、僕の方は、冬季休暇はもはや何の感慨も抱かなくなった実家に戻り、ぼんやりと過ごすことができた。その短い冬の二週間は、大学生になって一番の静かな刻で、その静寂と我が古びた木造戸建ての接木の隙間から入ってくる風はまるでこの後に訪れる嵐の予兆であるかのように僕の脚に氷の筋を張るかのように吹きつけた。心なしか、りょうまの吠える声が普段よりも一段階大きく、警笛を吹き鳴らしているかのように聞こえた。

 上映会の直後に大学院の入学試験は終え、教授の言葉に嘘はなく僕は推薦状の力で楽々と合格を取っていた。冬休みが明けて大学に戻ると、降り立ったキャンパスに既に自分の居場所は無いかのような心地がした。入学前に友人たちから散々に聞かされた京都の排他性も僕は一切感じることが無かったが、この折に来て初めて僕は、京都という土地の持つ外様を寄せ付けない盆地の厳しい寒さと共に他所へと追いやろうとする不寛容さを、ここ十数年の間に建てられたばかりのキャンパスの無機質なコンクリート建築からその身に受けた。このような新しい建造物ですらこの地に根を下ろせば色に染まり、出て行こうとする人間を一刻も早く追い出そうとせき立ててくる。それは一年と九ヶ月暮らした、二条駅近くにあるマンションも同様だった。

 一月に帰ってきたとき、ほど良く片付いた七畳半の1Kは、家主である僕が留守にしている間、他の誰かが占有していたような名残すらあり、そしてその人物こそが今の家主であり、部屋と台所とを繋ぐドアを開け、その境目に立つ僕は旧家主であって、「早く身辺整理をして出て行って欲しい」と要求されているように思われた。

 卒業論文の口頭諮問は楽々とこなし、二月に春休みに突入すると、やることが一切なくなった。

 新しく進学することになった大学院は埼玉北部にもキャンパスを持っていて、山間に人工的に切り開かれたような平野にあった。周囲を囲う林は神秘的で、未知の霊獣に出逢えそうな期待すら起こさせる、自然豊かで広大な学び舎だった。都内中心部にある、商業地に無理やり押し込んだような、狭い通りを二万を越える学生がたむろする本キャンパスとは趣が全く違っていた。

 学生たちは本キャンパスと埼玉の奥にあるキャンパスを行き来することになると聞いていたので、僕は埼玉県南部の、両キャンパスとの中間地点にアパートを借りて生活することにした。家賃は四万八千円ほどで2DKであり、今までで一番広かった。両キャンパスへの利便性も意識したが、四年間一人で生活をしておいて、今さら親と同居する生活には戻れそうもない、というのが大きな理由だ。そのアパートへの引越しが三月の半ばに設定されていたため、家具をその部屋に持っていく関係で、丸々一ヶ月間はまだ京都に残っていなければならなかった。

 引越しまでの期日が来る間、僕は1ヶ月もの間、来る日も来る日も唯々ネットサーフィンをし、たまにランニングをして残り僅かな京都生活を、どこに行くでもなく、自分を町の外に追い立てる狭い1Kに蟄居していた。ほとんど誰とも会わずに三月を迎え、僕はついに古の我が国の中心から去り、情緒溢れる地方に別れを告げて彩の国へと居を移した。そしてそのときに、ついに事件が起きた。

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