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短編小説「精励」(#2)全3回予定

 その日は、いつものように午前十一時に目が覚めた。男は毎日朝五時くらいに床につくのだが、このごろは毎日、徐々に暑くなっていくために非常に寝苦しく、深い眠りから覚めたというよりは、うたた寝に近い状態をずっと続け、暑さに耐えきれずに堪らず起き上がるというほうが近かった。疲れは取れておらず、この男の習慣となった、一時間ほどのスマートフォンのブラウジングと、横になったままの手淫を行い、この日もようやく活動する気が起きた。手淫と言っても芯から勃ち上がることのない形式的なものであり、相手が対女でなければやはりうまくはいかないものだ。しかし、その機会があったのは、一体何年前のことだろうか。

 ベッドから出ると、これもまた形式的な、一人暮らしを始めてから覚えた簡素な料理を作り、小腹を満たした。優柔不断なこの男らしく、食べたあとは気力を喪失し、またベッドに戻ってまどろみ始めた。しかし、暑さで当然寝つくまでには至らず、半ば投げやりな気持ちで、前日眠りに落ちる直前に決めたほどの強い意志はないものの、展示会に行こうと改めて思い至った。

 折角の行楽目的の外出なので、よそ行きの格好に着替えようとも思いついたが、家から歩いていける場所であるし、無粋だがあの展示会にほとんど客など訪れないだろうと思ったので、部屋着のままで出かけることにした。

 歯を磨いて顔を洗い、寝癖直しウォーターをばっと振りかけて髪を手櫛で整え、愛用している「グレゴリー」のウエストバッグを肩掛けし、男は重い鉄製の玄関扉を開いた。

 扉を開けて暗闇の世界から南中真っ只中の、最も光の強い時間帯の屋外に出ると、刺すような光線が目を覆い、同時に熱気に襲われた。三十代後半の身にはこの暑熱は滅法堪えるものだ。そのままエレベーターで九階から一階まで降り、そこだけ空調が効いている僅かな広さの共有部を出、重厚なガラス製の自動ドアを二箇所くぐって、屋外備え付けの駐輪場を抜けると明治通りに出る。

 正午の明治通りは、お昼休憩で昼食に出てきた近隣のお店やクリニックに勤務する人々や、自転車で買い物に来た高齢の主婦らが行き交っており、マンション前の歩道は狭いのでかなり危ない。これまでに何度か自転車と正面衝突しかけたり、追突されそうになったことがある。この日は幸い、人通りは多いものの、危ない目には遭わず、一路田端方面へと明治通りを歩き出した。これまでに数度通った道だ。大通りを道なりに歩いていさえすれば、駅までたどり着くのでもはや迷うはずもない。男は、まだ眠気が取れきっていないのと、折からの酷暑によって、飢えに苦しみながらもはぐれた飼い主の元へと帰ろうと歩き、そしてその道半ばで力尽きかけている野良犬のように、目も虚ろに、とぼとぼと、そして顔には倦怠感を浮かべて歩いていった。

 田端まで行く道は大部分が大通りなので、開放的なのは酷暑の中の救いではあったのだが、なぜか駅に近づくにつれ、道が狭くなっていく。田端新町のバス停留所を越えると道は二手に分かれ、右手に現れた道ではなく、真っ直ぐ進むと上野東京ラインの高架下をくぐり、向こう側へと抜けられる小さなトンネルに行き当たる。この鉄骨でできた黄緑色のトンネルが、築年数が経過しているのと、大通りを抜けてきたからこそのギャップとして醸し出される侘しさもあり、どことなく不吉な予感を漂わせる。

 そのトンネルを抜けて、半端な大きさの通りをしばらく真っ直ぐ進むと、どこまでも続きそうな山手線の高架が聳え立っている。これも年季が入っており、もともと白かった橋桁は劣化により灰色へと変色しているが、荘厳さは建設当時のまま保っており、誰も寄せ付けないような威を放っていた。事実、高架までの間には、通りに建っているマルエツのモール向けの駐車場が敷設されており、接近することすらできない。歩行者は、T字路を右折して高架以上の高さまで昇れる坂道を上がっていく事になる。その坂を上がりきると、モダンな作りのデッキが現れる。街路樹も植えられた気持ちの良いこのデッキを通っていくと、田端駅の入り口へとようやく辿り着く。明治通り側から初めて行く人間には、中々わかりづらい行程だろう。

 山手線の駅は、東京駅を始め、大きな通りに威風堂々に構えていることが多いが、この田端駅はとてもこじんまりとしており、まるで私鉄駅のようである。お目当ての高台文学村記念館は、駅を左手に通り過ぎ、タクシー乗り場から横断歩道を渡ると右手にあるパチンコ屋の、さらにその先の、向かいにひっそりと構えている。みずほ銀行の入ったビルに隣接する形で、近づいていくと、その楕円形をした建物は確かに道行く者に姿を現す。

 先達から試練を課せられたかのように一度は拒絶され、結局再度やってきた場所。男は、

 「また休みだったらどうしようか」

などと不安を抱きつつ、入り口へと向かった。事前にウェブサイトで調べた開館スケジュールからすると、今日は開いているはずだ。

 やはり、開館していた。男は勇み足で玄関ドアの前まで進み、自動扉をくぐった。

 実は、記念館が見えた途端、男は再び、背中にあの亡霊のような存在を感じていた。

 「ようやくここにやってきたのか」

と、彼の男は、男の訪問を待ち侘びていたかのようだった。姿形は一切見えず、声すらも聞こえないが、空気からそれを感じられたのだ。

 「今から俺が見てやるよ」

男は、偉大な人物に対して不遜な言葉を心の中で返し、建物の中へと踏み込んだ。

 入ると、複数の先客がいた。左手の小さなテレビの向かいに数脚並んだソファに、七十代以上の、地元民と思われる男女が数名、腰掛けており、映像に見入っていた。その映像の中には、動く芥川龍之介の姿があった。芥川が、住んでいた家の縁側に腰掛けて家族と談笑している映像で、その鋭い縦長の輪郭と、楽しそうなのに全く笑顔を見せず、辺りを警戒しているような冷徹な視線は、誰もが知っているその後の運命を予兆しているようだった。その死の一因になったと世間では言われている、自分の分身という幻覚に、それが真のことかどうかはわからないが、大きな悩みを抱えていたこと’窺い知れる。画面にその顔のアップが一瞬映っただけで、男は多くの情報を受け取った。尤も、背後にいる彼奴は何も言ってこないが。

 展示会は無料だったので、館内の受付らしきこじんまりとした窓口には女性が立っていたが、男は気にすることもなく横切った。そして、ロビーに展示してあった芥川龍之介と太宰治の等身大パネルをスマートフォンで撮影する。それから、展示室の入り口前のガラスケースに目を留めた。

 ガラスケースには、芥川の自筆草稿が納められていた。それは、芥川の遺稿『續西方の人』の複製だった。初めて見た芥川の字は、男性の筆跡としてはかなり小さかった。ひらがなはマス目のちょうど真ん中に米粒を置いたかのように、判別しづらいほど微小に書かれている。しかし、カタカナはひらがなよりも大きく、「クリスト」という字が活き活きと表されているのもまた確かだ。ひらがなとカタカナのこの大きさの差異は何を意味するのだろうか? 漢字は、これもまた特徴的で、芥川のそれは横に長く、草書体のように見える。しんにょうは上の点がなく、「レ」の上に角度をつける部分を90度にしたように書かれてあり、どこか現代の女子高生が書いたようにも見えた。

 男はこれまで、パソコンのなかった時代の、それも大正期のような時代の作家は、原稿用紙にマス目いっぱいの大きさで角張った字を書き、その用紙そのものが一個の芸術作品として成立してもおかしくないほど美しく硬質なものだとばかり思っていたが、どうやらそれは、全く男の見当違いだったらしい。芥川の字体が芸術作品として成立しないわけではないが、硬質さの欠けたその字体からは、この作家が人並み以上に繊細な気質の持ち主であったことがわかりすぎるほどに窺えた。

 この展示会は「芥川龍之介と共に歩んだ家族の物語」と銘打っているだけに、この『續西方の人』の解説文には、芥川の長男・比呂志の言葉が付されてあった。

 比呂志は、自宅の二階書斎で、芥川が、この『續西方の人』の最後の部分を書いている姿を目撃していたという。そしてそれが、この息子の記憶にある父の最後の姿であったようだ。

 男は、ガラスケースから展示室の方に目を向けた。展示室は左右二つの部屋があり、それぞれ展示内容が違うようだ。男は、左の、電球色の強い、オレンジがかった部屋へとまず入っていった。


 その部屋には、芥川の妻・文との出逢いから、家を持ち一家の長としてこの田端の地でどのように生活をしていたか、その家父としての姿が、遺してきた原稿を追っていくと浮かび上がる形になっていた。

 芥川は、二十七歳のときに文を娶ったが、その前に恋をした女性がおり、この恋は相手側に袖にされ、「夜通し泣いた」ほどのひどい失恋に終わっている。しかし、その経験が『羅生門』という作品に昇華されたことで作家として俄かに注目を集めた。芥川にとってこの失恋は人生を変える良い契機となったはずであり、文との結婚は作家としての成功を決定づける出来事であったはずだ。このとき、芥川は前後不覚のない順風満帆な人生を送っていたと思われる。では、なぜ、何が彼をあのような結末に駆り立てたのだろうか?

 男は、左から時計回りに展示物を見て行った。『地獄変』などの有名作品と並んで解説文に記されている、芥川の知られざる亭主としての生活。その父親としての芥川は、なんら世間一般の朴訥なそれと変わらず、凡庸な家庭生活を送っていたらしい。家族で海水浴に行ったとき、息子にいいところを見せようとして遠浅の海で潜ろうとしたところ、勢い余って海の底に顔を打ち付け、そのせいで上の歯が欠けてしまったこと、そしてそれを死ぬときまで治療せずにそのままにしておいたこと。関東大震災が起きたとき、一目散に庭に飛び出し、乳飲み子を抱えて後から出てきた妻に、

「赤ん坊が寝ているのを知っていて、自分ばかり先に逃げるとは、どんな考えですか」 

と嗜められたこと。その後、火災から逃れてしっかり家族と避難しているところ。この芥川龍之介という男は、家庭では威厳の一つもない駄目親父だったようだ。

 展示物を読み進めていくごとに、芥川の精神の変調が家族との生活にも徐々に現れてきたことがわかってきた。芥川は睡眠薬を常用するようになり、目に見えて執筆速度が衰えていく。妻の文によると、「題を書き、名前を書き、一行を書き終えない原稿用紙」が数多重ねられていたという。

 しかし、晩年になると徐々にまた多作になっていたとのことだ。このあたりは大作『豊饒の海』をしっかり書き終えてから市ヶ谷駐屯地に向かった三島由紀夫にも通ずるところがある。この作家の迷い筆は死への決断がつかなかったことの顕現であり、対して、晩年の多作は死に対するどこか霧の晴れたような割り切りの顕現だったのではないだろうか。

 ここで、男が先ほど初めて草稿を見たときに感じた、これまでの認識のずれに対する文からの直接の言及があった。芥川はやはり、もともとは原稿用紙のマス目いっぱいに文字を書いていたが、晩年になるにつれて文字が小さくなっていったのだという。これを、神経の弱りの表れではないかと文は分析しているが、男もやはりそうだろうと思った。そして、最初に文字の不自然な小ささに着目した自分はやはり、目の付けどころが良い、と文士としての自分の素質に些かの自惚れも感じた。

 ここで男は、この展示室を出、右側にあるもう一つの展示室へと入って行った。ここは、芥川龍之介を個人崇拝していた太宰治に関する展示が中心となっていた。

 男はかつて太宰治の『人間失格』の令和版を書いて出版したほど、太宰の同名小説には深い共感を示していた。ただ、実際のところ、太宰に対してそこまで詳しいわけではない。男と太宰は、物事の考え方に異同は少ないものの、文体は全く異なり、太宰の個性に関心があるだけで、作品単体にそこまで興味があるわけではなかった。

 太宰に関する展示は、隣の部屋の芥川とその家族についての悲喜交交が混じった展示と比べて、ほぼユーモアだけで構成されていた。太宰も自死しているが、その最期と『人間失格』という書籍の印象から、その性格は、かなり繊細で弱気な人物、というのが世間一般の見方であろう。そして男もこの太宰という男のキャラクターを、そう捉えていた。

 しかし、この展示から見えてくる太宰治という作家は、尊大で嫌味ったらしい人物であった。その憎らしさは、男にとっては十分に許容できるもので、もし自分の周囲にいても別に気にならないが、人によってはこの男の冷笑と皮肉に満ちた性格を許容できない人間もいただろうと男は考えた。

 太宰治の創作物が展示されていた展示室で一番に目に入ったのが、芥川賞の選考委員・佐藤春夫に送られた、芥川賞落選についての不平を書き連ねた手紙である。この手紙は黄ばんだ巻紙に書かれており、その長さは4メートルにもる。壁の一面の大部分をこの手紙だけで埋めてしまうほどの言い知れぬ迫力があった。太宰治は芥川龍之介の外見や髪型、写真に映る際の姿勢すら模倣するほど彼を敬愛していたことから、設立されたばかりの芥川賞の受賞を熱望していたのは有名な話である。
 
 だが、まさかこんな、わざわざ毛筆で大仰に、巻物に認めるほどの執着があろうとは。しかも、その内容は、神経質な彼らしい怒気の炎が紙から立ち上らんほどに籠められているのではなく、袋小路に追い込まれた鼠が「命だけは助けてくれ」と追いかけてきた猫に向かって哀願しているような内容だった。

 男は、太宰からすれば同じ土俵にすら立てていないのに、この作家に対してどこか憐憫を抱かずにいられなかった。それと同時に、この手紙を送られてきた当の本人である佐藤春夫が、さぞかし傍迷惑に感じていたであろうことにも同情を覚えた。弱く、何事にも覇気がなく、だからこそ当時の、敗戦国の絶望と騒乱の中にあり、日本人の誰もが将来に不安を抱いていたあの当時の世に、諦観をもって冷静に事の推移を見れていたと感じてばかりいた太宰が、恥晒しとも思われかねない行為に出ていたとは。

 男がもし、太宰があの巻物に筆を入れている現場に遭遇したら、こう声をかけていただろう。

 「斯様な手紙を書くからお前は賞に推薦されないのだ。獲りたいのであれば今すぐその紙と破り、巻物ごと火に焼べてしまえ」

と。


読んで頂き誠に有り難う御座います! 虐げられ、孤独に苦しむ皆様が少しでも救われればと思い、物語にその想いを込めております。よければ皆様の媒体でご紹介ください。