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小説「ファミリイ」(♯34)

 埼玉のアパートに荷物を引き入れ、まだ荷解きすら済んでいない引越し翌日のことだった。すっかり身に纏った京の人間の風情を抜くためにこれからの関東での新たな学生生活に向けて心機一転の気構えができ始めたころ、母親から電話が入った。

「お姉ちゃんがあんたのミクシィって言うの? あれを見たんだって」
「うん」
「あんたがK大学の大学院に行くことに怒ってて、大変なのよ」

四年前の姉の発狂と同じ事態が起きたのだ。しかし今度は、母はあのときのように自我崩壊を起こしたのではなく、半ば気怠そうに僕に状況を説明してきた。

「あんたはもう何もしなくて良いから、こっちで処理しておくからそのまま入学に備えなさい」
「うん、わかった」

母が滔々と語ったところによると姉は、四年前に生まれた長女と、二年前に生まれた次女との二人の子どもを抱えながら、

「まーくんのように、K大学の大学院に今から行きたい。行かないと納得できない」

と、年齢としてはもう三十に近いのに、さながら五歳児のようなことを喚き出したようだ。

 僕の心の眼の視界に立ち込めていた姉に対する羨望の念や尊敬の明るいピンク色の霧は、この事実を知ったことによって一気に消えてしまった。四年前に我が家に暴風となって大嵐を巻き起こした姉だが、それでも僕はまだ、姉は一家の中で一番常識人に近い存在だと思っていた。僕も確かに、きょうだい内にかけられた学費や生活での制限には僕に一番の自由があったように思われることは姉からすればそのような印象を抱いてもおかしくはないので僕は腑に落ちないながらも少しは同情もできていた。一緒に暮らしているころはどこか精密機械のように捉えていた姉にも人間的な感情があり、精神的に脆い部分があることを知って、むしろその一面だけ見れば好感を抱いたほどだった。

 しかし今回の姉の発狂によって僕は、姉もその精神に兄に次ぐほどの暗黒があると気づかされ、そこに母のような呆れではなく戦慄を覚えた。僕は、相対的に家族の中で一番、自分が一般世間に近い感覚を持った人間であることを知った。これは良いことではない。姉までもがまともではないということは、我が家族の精神形質はもともと特異なもので遺伝的に受け継がれていて、僕はたまたまその形質を受け継いだ度合いが少なかっただけで、僕もまた世間という名の水に浸透しない油であること、このような家庭に生まれついてしまった自分の運命への悔しさ、何の罪も犯していないその運命を背負っていく生きていくしかない孤独に押しつぶされそうになった。

 僕は、たった独りだ。家族の中で一番浮き世に近く、しかし決定的に浮き世には馴染めない。僕はたった独りだった。

 姉は完全に、僕たち家族とのつながりを切った。自らの子どもじみた無理な要求が聞き入られない代わりに、姉は我が家と絶縁し、結婚した夫の家である大阪の一族の一員として生きていくことを選び、それを両親に通告した。僕はそ子までの行程には一切関わらず、埼玉のアパートで入学を迎えるまでを待っていた。 

 姉を自らの行為で失った喪失感は一切なかった。それどころか姉に対して腹立たしいかぎりだった。姉の夫も、姉の言動に甚だ迷惑を被ったらしく、板挟み状態となり、夫としては嫁である姉を立てるしか選択肢がなく、姉の絶縁を尊重することしかできなかったようだ。母への姉の夫からの電話には具体的にそのような明言はなかったが、母は夫の焦慮と、姉に呆れながらも妻であり母であることとで敵愾心を抱けないそのやるせなさを声音から窺い知ったことを僕に伝えてきた。

 この夫は姉の言いなりであり、支配されている状況にあること、その光景が携帯電話を握る僕が見つめているアパートの白壁に液晶テレビのように浮かび上がった。姉とその夫は、近いうちでなくても十数年か二十年の後に離婚するのではないかと言う予感を抱けずにいられなかった。新たな出逢いに日増しに胸が高まるはずの寒さが癒えてきた弥生の下旬、携帯電話を切ると同時に姉の支配者としての光景が消えた僕の木造アパートの白壁の継ぎ目の木製の柱の淵の隙間から侵入する風によって、心地よいはずの暖かさが、僕の孤独と侘しさをせき立てた。

13.現在(2020年6月)

 東京の暑さもすっかりなりを潜め、神無月の終わりに差し掛かった。今日はかつて暮らした近畿地方に木枯し一号が到来したことを僕は毎朝、枕元で日課のように確認するスマートフォンのニュースサイトで知り、もう一つの故郷への望郷の念と共に、もう間も無く日本全国を包む冷気へと思いを馳せた。

 三十六歳の大人の暮らす家としては狭いこの六畳の部屋のベッド脇にかかった水色のカーテンを開けると、差し込んでくる日はまだ暖かく、正午にもなるとそれは熱気すら感じさせた。不快は不快だが、この東京ももう数日の差で寒気に覆われていくことを思うと、この昼時の不快もまたどこか愛おしく感じられる。加齢で抵抗力が落ちてきているからであろうか、昨年から僕は春だけではなく秋も花粉症とアレルギーに悩まされるようになった。その影響と毎日この狭い家に籠もりながら仕事しているという空間的閉鎖性が相まって、ここ一ヶ月ほどは、起床後と就寝前の何もしていない時間に猛烈な希死念慮に襲われる。

 僕はやはり、この東京という都市での生活は合わないようだ。この街はどうも、急流のようにしか僕には思えない。その先には必ず大きな滝があり、生き急ぐ無数の泡沫たちはその大瀑布があることも知らず、奈落へと進んでいる。この東京という都市は、僕のような気の弱い、人並み以上に稼ぐ能力があるわけでもない人間にとっては大変、窮屈な都市だ。

 ネパール人の恋人とは、引っ越してからも一度も会えていない。正式に恋人と思っているわけでもないが、彼女は定期的に「I love you」と書かれたLINEメッセージや恋人に送られるようなハート付きのスタンプという画像を送ってくる。僕もそれに対して彼女と同じように愛のメッセージやスタンプを返すので、それだけ見れば本当に恋人同士のようだ。だからこそ、「愛」というよりも「情」が彼女にはある。希死念慮に捉われたときに、唯一心のそれを打ち明けられる情が。

 しかし、生まれ育った土壌の違いは、同じ畑に入れてもその二種類の土は意志を持っているかのように、混ざらず、かといって離れていこうともしない。彼女に会いたいが、肉体的なつながりは求めていない。ただ僕に、僕が彼女に対して捧げているような情を、彼女に捧げてもらいたい。でも、同じようにこうも思う。

 はたして、情を捧げてもらったとして、ましてや肉体関係を持ったとして、この希死念慮から僕は離れられるのか。いや、きっと離れられない。仮令(たとい)、有名女優と交際し結婚に至ろうとも、全てを終わらせられる死への誘惑はますます募り、僕は自分の身体が今よりも衰え、顔に刻まれた皺は深くなり、若さを完全に失った暁に、自死するであろう。その衰えの自覚はそんなに遠くない未来にやってくる。

 唯一、肉体と美貌の衰えを感じても気丈に生きていく術があるとしたら、それは、肉親から注がれる無償の愛だ。今、僕は、捨ててきた両親に会いたい。母だけではなく、なぜだか父にまで最近は会いたいと思うようになってしまった。この大都会の片隅に捨てられた、猛犬に見つけられればすぐにでも中から折れそうな木製の箸は、なんとか今日も発見されずにやり過ごす毎日を送っている。もう僕の心は、一杯だ。逢いたい。今、母と父に逢いたい。

 いつもより早めに起きることができた土曜の昼下がり、僕は希死念慮から逃亡するために、この文章を綴った。

14.大学院時代(1)

 大学院に進学した僕が味わったのは、東京というメガロポリスの途轍もない厳しさだった。僕は大学時代に映画の方でインディーズながらもそれなりの業績を出したことで、他にも自主映画祭入賞者がずらりと肩を並べるこの大学院でも埋もれずに実作を重ね、実績を積んでいけるものだと思っていた。修士課程に在籍するこの二年間で、プロになるか、プロになれないにしろ地上波のキー局や映画会社へクリエイターとして入社し、こう年収と輝かしい未来は自分に約束されていると思っていた。

 しかし、僕はプロになるどころか、入学をした研究室の中ですら埋もれてしまうことになる。僕は東京を甘く見ていた。たった四年間、されど四年間。京都という地方都市でのゆったりとした時の流れの感覚は僕の身体に染みついていた。エンターテインメントもアートも産業も、全ての物事がミニマムだったが、僕の力なんて所詮そのミニマムな環境でしか通用しない程度のものだった。東京という全国の叡智が結集し、どの物事を取ってもそこに携わる人口が多く、質も最高峰ときているこの町では、僕の力ではとても列強たちに太刀打ちできない。この町はどこへ出歩いても、人は眉を薄っすらとすぼめ、1.5倍の速さで歩いている。

 新宿駅の構内で僕は何度も通行人に弾き飛ばされ、よろめき、そのままこの都会の地下に潜む巨大な沼が地上に染み出したぬかるみに足をとられ、そのまま引きずり込まれていきそうな心地になった。考えてみれば大学院時代からが、僕の東京への畏怖の始まりだった。一度離れて、帰ってきたものだけが実感できるその圧力、排他性、競争。この街に生きる人々は経済ピラミッドの頂点を目指し、数限りない情報の石で築かれた無数の階段を駆け上がらんとする。一つの階段には何千もの人々が殺到し、上がりながら闘争し、負けた人々は地上何十メートルもの高さから一気に落とされる。一度は頂点が見えた人でも、ひとたび競争に負けて大地に叩きつけらればもはや再起は不能。東京ではこんな出来事が非常に早いサイクルで起きている。昨日まで我が世の春を謳歌していた人物が、明日は奈落に堕ちる。本来は異常事態なのだが、この町ではこれは多忙な日常生活の些事として受け入れられる。東京人は堕ちた人間のことなど気にも留めず、同じ日に同じ階段で起こる別の闘争劇に積極的に加わり、血生臭い日々を送っているのだ。

 僕は大学院の研究室で諸先輩方から疎んじられた。同級生は彼らが出す実績という煌びやかなコーティングが施された絹の糸に絡めとられ、僕は孤立した。映画という芸術はたった一人では生み出すことができない。一本の映画を作るには監督だけではなくカメラマン、照明、録音、編集、プロデューサーなどそれぞれの役割を担う人員が必要だが、あまりに口下手で感情表現の苦手な僕は、同輩たちが絹糸に絡めとられたせいでスタッフを集めることができなかった。研究室では毎年映像企画コンペティションがあり、そのコンペティションに受かった映像企画には制作費が援助される制度があった。

 僕はそのコンペに企画を提案してみたものの、制作仲間を集めることができないという事情で、企画を進行させることができなかった。東京に来るたびに感じさせられる不気味な圧迫感、大学時代のように思うようにいかない映画制作に対する焦慮、深い孤独。これらが黒く重い球体のような形をとって僕の身体にのしかかる。いつしかそれは僕の中に脂身となって固着され、僕の体重は増加の一途を辿っていった。

 意気込んで埼玉に借りたアパートも、映画を作ることができないのでただの金食い虫と化してしまった。元々埼玉の奥地に撮影で行く機会は入学前に想像した以上に少なかった。それでも企画さえ通れば、撮影後に千葉の実家に帰るよりは体力的に有利なので、月々五万の家賃を払う価値があった。しかし東京に置き場所をなくした僕には、誰も自分を知る者がいない埼玉の小さな町で、トラックが地面を通過する際に発する大きな震動にたびたび酔わされる不快、どこから侵入したのか、ゴキブリが毎日のように出没する不快に睡眠を妨げられ、心労は究極に達した。斯様な陰鬱とした場所にはもう住み続けることはできない。ただし、実家に帰るとまた灰色の暮らしが待っている。そして両親にも、僕がほとんど授業に行っていないことが露見するであろう。

 しかし僕の鬱屈は収まるどころか火柱のように燃え上がり、アパートの屋根を突き抜けて天空へと昇りそうなほどにその火勢を増していく。居場所を変えなければ鎮火はしそうにないほどの気鬱は、結局僕を、アパートとの契約を解消する行動へと至らせた。灰色の家にまた僕は、帰る。当時二十四歳だった僕は、もしサラリーマンにでもなっていたら実家に帰る以外の選択肢が取れたかもしれない。しかし未だ学生である僕の経済力では、別の家を独力で借りる余裕はない。アルバイトをして日銭を稼ぎながら踏みとどまる胆力もなかった。

 両親に退去の意向を告げたが、怒られはしなかった。父はもう僕の行動には口を挟まず、無感動・無関心を装う何時もの悪い癖を発揮する。男として、乗り越えるべき父としての強靭な精神を僕に見せ、僕を咎めたてでもしてくれれば、まだ僕は自己を省みられたかもしれないのに。父は、あいつは自分に関わりのないことならたとえ息子であったとしてもどうでも良いのだ。「父の背中を追って」とか、「大きな父の背中」といったよく聞くフレーズは、僕はそんな欲を迸ら、ときに非情なまでに冷徹だが大きな愛を感じる背中を見たことがない。そして未来永劫、見ることがないだろう。

 引越して僅か四ヶ月、八月に僕は、実に四年半ぶりに千葉県の地元へと帰還した。埼玉から東京を通り越して千葉へ帰還したことで、東京の激流を感じることはなかった。しかし、四年半ぶりの両親と魔物と化している兄との築三十年を過ぎた、傷みと各所が軋み荒廃した家の中での生活は僕をあらゆる面で苛立たせ、僕は唯一信頼できていた母とも衝突してしまうことになる。

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