母と生協と幼い頃の私。

シリーズ「よみがえる過去の私」
~No.3~

母は、熱心な「生協の組合員」として子育て生活を送っていたような気がする。

小学校に入る前ぐらいの私の記憶。
我が家は、生協で主な生鮮食品を購入していたらしく。当時の生協は、ご近所さんで「班」を作って共同購入。
週に1度、生協のトラックで運ばれてきた食品類をレジャーシートの上に広げ、ご近所さんで集まってワイワイ仕分けして、各々の購入品を持ち帰る……
そんな風景が日常生活に溶け込んでいた。

幼心に印象的だったのは、卵。
50~60個ぐらいまとめて紙製の卵トレーに乗った状態で届き……
それを各自、購入した数だけ、新聞紙でくるんで持ち帰る。

2~3枚重ねた新聞紙を斜めに置き、角のあたりに卵を5個ぐらい並べる。そしてくるくると新聞紙を巻き、またもう1列、卵を5個ぐらいおいてくるくると巻く。最後に両端を折り畳むと、「卵10個パック新聞包み」のできあがり。

なんてエコ!!

母たちが品物を仕分けながらおしゃべりに花を咲かせている間に、冷凍品と一緒に届いたドライアイスで遊ぶのが楽しみの1つ。水遊び用の小さなバケツに水とドライアイスを入れると、ボコボコ白い泡と白いケムリ?のようなものが出てくる。それを眺めているのが、面白かった。

そんな風景の中で育ったので、今の「個別配送」というやつは、便利は便利だけど何とも味気ない。それが時代の要請であるとは言え、「個別配送」の普及により消えてなくなった地域コミュニティもたくさんあるだろうなぁ、と。

………………

母はただ配送の仕分けに勤しむだけなく、どうやら運営委員とか、そういうものもやっていたらしい。

よく「なんとかセンター」の和室に集まって、何やら新商品の味見会をしたり、食品添加物に関する展示物を仲間と作って、近所の公民館の展示会に出したりしていた。

「なんとかセンター」は、1階が生協の店舗、2階が集会室のような扱いの和室で、奥に本棚とおもちゃ箱があり。

今もありありとその本棚とおもちゃ箱が思い出せるということは、相当繰り返しその場所に足を運んでいたに違いない。

明らかに母の「居場所」は、その生協の運営委員仲間であり、「なんとかセンター」であり。そうした場があったからこそ、どうにかこうにか私・弟・妹の3人育児を乗り切れていたのだろうなぁ、と。

………………

生協では、よく生産地に足を運び、生産者に話を聞く日帰りツアーが開催されていた。

母と共に、よくそのツアーに参加していたような気がする。一緒について行くと、牛舎が臭かったり、畑を延々歩かされたりしたものの、たいてい美味しいものの味見をさせてくれるので、それなりに楽しんでいたように思う。

今も思い出せる匂いや風景があるということは、相当あちこち行ったのではないかな、と。

夏休みには1泊旅行があったりして、それも大いに楽しんでいた気がする。家族旅行にわざわざ出かけた記憶はほとんどないけれど、生協の生産地訪問とセットのツアーは、結構記憶に残っている。親子参加の合宿のようで、妙に楽しかったのだ。

………………

そんな風な母の姿を見て育った子どもは、なるほどこのように育つのか……と、直接いまの私の姿を知る人は妙に納得するかもしれない。

子育て期間中に、自分が没頭できるものとして「生協の組合員活動」というカードを持っていた母は、自分も楽しみつつ、我が子にも良い影響を与えていたように思う。

今、まわりまわって、私自身も生協の運営委員的なことに関わっていたりする。
故郷の大阪と、今住んでいる埼玉とでは、また全然違う生協であるようにも思うけれど……
目指すところや、関わっている人の心意気は、似たような感じで。

何かにつけて「そういうの、懐かしいなぁ」と思いながら関わっていたりする。

そんな姿をまた、うちの娘たちが見て育つ。
どんな大人に育っていってくれるかな……と。
こういうことも含めての、「子育て」なのかもなぁ、と思う。

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今の私を作る過去のエピソードをあれこれ書き綴る、シリーズ「よみがえる過去の私」は、このマガジンにまとめていっております。

明日は、「# とはだけで30本書くチャレンジ」で、何かしら書きたいと思います。

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