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モンゴルの世界ー①チンギス・カンのつくった組織

人類史上最大の版図を誇ったのは、19世紀半ばから20世紀初頭の大英帝国である。産業革命によって加速した資本主義と、列強間競争による植民地政策の加熱があわさって、その勢力を急膨張させた。

第二位が、13世紀から14世紀のモンゴル帝国。地続きの領土としては史上最大で、東は満州を含めた中国全域、西はキエフを越えてポーランドのあたりまで、その勢力圏はユーラシア大陸のほぼ全域を覆った。地球上の陸地の17%を支配し、領域に含まれる人口は1億人を越えていたと言われる。

この時期、なぜモンゴルが急膨張したのだろう。モンゴル以前にも、匈奴や突厥など、広大な領域を支配した遊牧帝国は存在した。しかし、中国やイランなどの農耕世界、あるいは長江流域や東南アジアなどの湿潤地域まで統合した帝国はなかった。この時代のユーラシア全域で、統合に向かうなんらかの力学が働いたのだろうか。

モンゴル帝国拡大の歴史は、言わずとしれたチンギス・カンの大遠征から始まる。だが、今回はその英雄譚に依らずに、ユーラシア統合の必然を考えてみたいと思う。

モンゴル帝国の版図の変遷

遊牧民とオアシス民の共生

近代以前の歴史の大局は、気候変動とそれにともなう人間の移動によって説明できる。紀元3世紀あたりから地球の寒冷化が進み、それによって引き起こされた人間の移動によって、世界は大変革期に入った。東では、匈奴と漢という二大勢力の枠組みが崩れ、三国時代を経て、周辺部族による国家が乱立する五胡十六国時代へと突入。西では、フン族の移動からゲルマン諸部族の玉突き移動現象が引き起こされ、西ローマ帝国が滅んだ。

その後の中央ユーラシアでは、大局的に見ると、モンゴル系、トルコ系の遊牧民による国家が短期間に興亡を繰り返すことになる。アラブ世界では7世紀にイスラム教が起こり、とてつもない速さで勢力を拡大するが、やがて分裂状態に入り独立王朝が乱立する時代に入る。

のちのモンゴル帝国拡大の礎となるのが、この時代に築かれた軍事力を持った遊牧民と、通商を支えるムスリム系オアシス民の共生関係だ。大英帝国もそうだったように、軍人と商人が手を組むと強力な膨張力が働く。農耕民は自分の土地を守るために壁を築きがちだが、商人にとって国境は少ない方がいい。関税を取られることなく、より遠い地域との交易が可能になる。遊牧民支配者にとっても、オアシスは富と物資を得るための源泉となる。こうして、突厥やウイグルと呼ばれる遊牧国家が勃興し、シルクロードに沿って巨大な勢力を広げた。通商を担ったのは、主にイスラム化したトルコ系やソグド系の商人だった。

モンゴル前夜

10世紀に入ると、中国の東北部で遊牧社会と農耕社会のふたつを抱え込んだユニークな国家が誕生した。彼らはキタイと呼ばれ、中国では契丹と表記された。キタイは徐々に勢力を南に広げ、中国本土の燕雲十六州を支配するに至る。だが、彼らは唐を建国した拓跋国家にように完全に中国化することはなく、遊牧世界と農耕世界の間に立ち、二つを抱え込みながら勢力を広げていった。

さらに、遊牧草原であったところに城郭都市をつくり、そこに定住民を住まわせ、自分たちの中で草原とオアシスを複合させた。こうして、牧畜、農耕、通商が一体となった国家を作り出した。

やがてキタイは、東北アジアに住む女真族が興した金によって滅ぼされるが、金は多くのキタイ人を政権の中に取り込み、彼らの国家運営を踏襲した。さらに別派が西方に移動し、中央アジアにカラ・キタイという国を立ち上げた。こうして温存されたキタイ人が、のちのモンゴル帝国建設において重要な役割を担うことになる。

モンゴル前夜を迎えた12世紀から13世紀初頭の中央ユーラシアを見ると、地域単位、種族単位の国家が乱立し、大きな統合体はなかった。金は遊牧民どうしが連合を組まないよう、互いに争わせたり、一方を支援したりしながら絶えず干渉を繰り返していた。だが、その金も成熟期から爛熟期に入り、徐々に手綱がゆるみ始めていた。

チンギス・カン登場

アメリカとモンゴルの研究チームは、中央モンゴルに生育するシベリア松の年輪から過去1100年間の気候状態を分析した。その結果、チンギス・カンが初めて権力を掌握した当初は厳しい干ばつ期だったが、その勢力を急拡大した治世後半は過去1000年で最も湿潤な時期だったことがわかった。

この調査から推測すると、干ばつによって草原が減ったことで、集団をまとめて他国へ攻め入り、生活圏を広げる必要性が出てきた。そして集団を統合した後に気候が湿潤化に転じ、軍も馬も潤って帝国の拡大を促したというストーリーが浮かんでくる。だが、気候変動だけではいまひとつ根拠に欠ける。他の集団にとっても条件は同様だし、一度統合したからといって危機が去れば、分裂の慣性が働きそうなものだ。なぜチンギス・カンのモンゴルが、あれほど版図を急激に広げることができ、死後もある程度の間、統合を保つことができたのか。

チンギス・カン、幼名テムジンの半生は、ほとんどが伝説の中にあり、確かなことはほぼわかっていない。血脈でいうと、そこそこ名門の出自ではあるが、特別有力というわけでもない。意外なことかもしれないが、その後の戦歴を見ても特別戦闘指揮の才能に恵まれていたとは言えない。テムジンのリーダーとしての資質をうかがえる有名なエピソードがある。モンゴル部族の指導者にのしあがる分岐点となった戦いで、竹馬の友であるジャムカと争った。結果はジャムカの圧勝におわり、テムジンは敗走。だが、ジャムカは捕虜にした牧民たちを手ひどく扱い、それに憤慨したジャムカの将士たちはいっせいにテムジンに帰属することになり、大勢は一気に逆転した。この後、部族を越えて統一指導者に選ばれるテムジンにはどういう資質があったのか。突出した能力を持つ者よりも、部族の利害を調停できるバランス能力こそが求められたのではないか。遊牧世界全体が統一の機運に満ちていた時に、組織指導者として最もみんなの合意が得やすい人物として、テムジンが浮かび上がったのではないかと想像できる。

チンギス・カンのつくった組織

1206年の春、テムジンはクリルタイを開いてモンゴル諸部族の長となり、チンギス・カンと名乗った。国のことをモンゴル語で「ウルス」という。「ウルス」とは元々「人々、部衆」を指す言葉で、人間の集団すなわち国であるという考え方を示す。即位後まず行ったのは、人間集団としての「モンゴル」をつくることであった。

チンギス・カンは功臣たちを千戸長に任命し、その千戸長によって十戸長、百戸長が指名され、組織化された。千戸長は軍事指揮官でもあり、行政官でもあった。こうした十進法体系に基づく組織づくりを「千戸制」と呼ぶが、これ自体は新しいものではなく、遊牧国家にとって匈奴以来つづく伝統的な仕組みだ。チンギス・カンは、各部族ごとにつくられた牧民組織を解体し、自分を頂点に厳格に統制された組織を再編成したのだ。

もうひとつ注目される制度に「ケシク」がある。ケシクとは君主を輪番で護衛する親衛部隊である。千戸長、百戸長などの子弟がケシクに選ばれ、その従者たちもあわせると1万人を超えた。ケシクの仕事はチンギスの護衛のほか、遊牧宮廷の維持管理や、軍馬、鷹の世話、食事の調達と配膳、移動野営の取りまとめなど、チンギスの生活全般にわたった。常にチンギスと生活をともにし、さまざまな薫陶を受けた。ケシクにいた者は、チンギスを中心に強烈な連帯意識を持つ特権集団を形成した。それは近衛軍であり、動く中央政府であり、幹部養成機関であった。さまざまな部族の有力者子弟にその門戸が開かれ、人種、言語、生活習慣が異なる若者が加わり、モンゴル武人へと育っていった。

もともと「モンゴル」とは一部族の名称に過ぎなかったが、こうした過程を経て、「モンゴル」とはチンギス・カンによって統合された「大モンゴル国」を支える支配者層全般を指す意味となった。これは「ローマ」という言葉に近い。ローマも一都市国家に過ぎなかったが、それを越えて、ローマ的生活文化を支える有力市民全体を指す言葉となっていった。モンゴルと聞くと強大な暴力による征圧をイメージしがちだが、実際には各部族の有力者が進んで加わったケースが多い。モンゴルでは出身や血統による差別は少なく、宗教を問うこともなかった。自分の能力を頼りに立身出世できるチャンスがあり、ケシクはそうした人々を連帯する中枢組織となった。

遠征プロジェクトの進め方

挙国一致で行う遠征は、国家を挙げた一大プロジェクトである。まずクリルタイで、ある地域への遠征が提案される。参加者は自分の組織へ持ち帰り、それぞれの希望や意見がまとめられる。ふたたびクリルタイが開催され、遠征の具体案が決まっていく。それを元に中枢部が作戦計画を立てる。ブレインはウイグルやキタイ、ムスリム商人や漢人など多様な種族によって構成された。そして、戦士だけでなく家族全員が遠征を目標に準備を進めていく。このプロセスに少なくとも2年がかりで取り組む。

ポイントは、君主による独断でもなく、作戦が中枢組織によるブラックボックス内で決まるわけでもなく、あくまで全員で合意を積みあげながら取り決め、全員が同じ計画のもとで動いていくことだ。ここには遊牧民の集団移動生活からくる特徴が色濃く現れている。一見まどろっこしく感じる合議制だが、これがモンゴルの強さの秘密である。

このおかげで、緻密な計画を全員で共有し、一糸乱れず動くことができる無類の組織力を誇った。各部隊が数百キロ離れて行軍しても、あらかじめ決まった地点にきまった時間に合流することができる。定められたシナリオ通りにてきぱきと他国を制圧していく。およそ蛮族と呼ばれるイメージとはほど遠く、モンゴル軍は完璧に統制されていた。

残された世界

チンギス・カンは、金を攻略後、西へと矛先を向け、中央アジアからイランを支配していたホラズム・シャー国へと侵攻する。瞬く間に攻略した後、休む間もなく西夏へ攻め入り、そこで陣没する。まさに戦いに明け暮れた人生であった。

その後に残されたものは、東西にまたがる広大な領土と、それを征服した「モンゴル」という多部族混合の統合組織であった。急拡大した遊牧国家は、カリスマ没後に分裂することが少なくない。残された者たちの課題は、この広大な帝国をどう維持し、運営していくか。いわば創業から経営の時代へと入り、二代目オゴデイから、グユク、モンケへと引き継がれていく。

そして五代目のカーンとなったクビライによって、ユーラシアは新たな世界へと書き換わっていく。次回は、クビライが描いた新たな世界設計図とはどんなものだったのかを見ていきたい。


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