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【ショートショート】 ある朝起きると

 人生には、ひどく嫌なことが続く時期がある。

 いつからだろう。私は、何となくそういう薄暗い時期に入ったことを感じると、眠る前にそっと祈るということをするようになった。

 毎日毎日やってくる真っ暗な夜に、繰り返し繰り返し祈り続けるようになると、それはだんだん習慣になる。

 気がつくとそれは、眠りに繋がるルーティンになっていた。

 夜、灯りを消した部屋でベッドに入り、目を瞑るその少し前。
 暗闇の中で天井を見つめ、深呼吸をしてからぎゅっと目を閉じる。そうして、胸の内で祈るのだ。


「目が覚めたら、人間以外になれますように──」


 それ以降、私はときどき、朝起きると人間以外の何かになっていることがあった。

 現実逃避にも似た、夜の祈りが呼ぶその非現実を、不定期に自分の身に起きるその不思議を、私は自分の祈りが要因だとわかっていたため、何の疑問もなく受け入れていた。

▪︎

 ある朝、起きると私は猫になっていた。

 不慣れな四つ足を、自宅の見慣れた柔らかいクッションの上で伸ばしてみる。思ったより伸びて、自分の体ながらびっくりした。

 そのまま前足で顔を洗い、あくびをして、しなやかに床に降り立つ。

 部屋の中で、最も日の当たる窓辺に行き、そこでそっと横になって微睡む喜びを知った。

 太陽の光の動きに合わせて、その身を少しずつ移動させていく。
 ただひたすら、全身に世界の明るさを浴びて、夜になる頃には太陽の匂いに包まれていた。

 しかし、猫のままで生きるには、あまりにお腹が空く。
 私は猫として、何を食べていけばいいのかわからなかったのだ。

 脅かすもののいない、あたたかい場所で眠る時間の幸福は知ったけれど、それだけでは空腹を満たすことはできなかった。

 おかげで私は、猫として生きることは向いていないことを自覚した。くうくう鳴るお腹を抱えるようにして丸まり、我慢をして眠ることにした。

▪︎

 次に起きると、私は花になっていた。

 ベランダにある、植木鉢の中でうんと深呼吸をする。
 心地よい風がこの葉を揺らす音に、そっと目を細める。

 猫のときほど、空腹は感じない。なるほど、これが光合成というものかと一人で笑う。

 しかし、花のままで生きるには、あまりに退屈だった。
 私は花として、自分の足で動くことができない現状が苦しくなったのだ。

 通り雨で湿った土の香りが、ふわりと心を満たす幸福を知ったけれど、動けない苦しみを埋めることはできなかった。

 おかげで私は、花として生きることは向いていないことを自覚した。ベランダの床から、歪な形の星空を見上げて、そっとため息をついた。

▪︎

 その次に起きると、今度は馬になっていた。

 見たこともない、視界いっぱいの緑の絨毯の上で思わず立ちすくむ。ああ世界はこんなにも、広い。

 試しに思い切り走ってみると、ぐんぐんと世界が後ろに流れて行った。
 その感動と面白さに夢中になって、土の上をひたすらに駆けまわる。お腹が空いたら草を食むといいし、丘をくだった先にある木陰には豊かな水辺もあった。

 馬として生きることは、私になかなか向いているのかもしれないと、初めて私は少し安堵した。

 草原を存分に駆け巡った後、程よい疲れと共に木陰に座り込み、風で大きくうねり波打つ草原に思わず見入る。

 そのとき、まるで海のようだと思いながら、この気持ちを共有する仲間がいないことに気がついた。

 世界の広さを実感すればするほど、私は自分の孤独を思い知った。

 草原を駆ける自由の大きさは、何にも変え難いものだという幸福は知ったけれど、その孤独を癒すことはできなかった。

 おかげで私は、馬として生きることも向いていないかもしれないと自覚した。その夜は、疲れた身体がじんわりと草原に溶けていく夢を見た。

▪︎

 その次に目を覚ますと、私はくじらになっていた。

 朝も夜もない、深くて暗い静かな海の中をゆったりと泳ぐ。
 その感覚の何とも言えない心地よさを、思わず鼻歌にして誰かに歌った。

 遠い誰かに向けたその歌は、広い海でもよく響く。ふとした瞬間、歌うたびにどこかからその歌への反応があることを気がついた。

 自分が伝える思いに、誰かしらが反応をくれるという幸福は、私の孤独を優しく癒した。

 深く潜ったり浅瀬を漂ったり、歌ったり。私はくじらとして、その生き方を大いに楽しんだ。

 海はあまりに広すぎて、仲間に直接会うことはなかなかできなかった。
 けれども、ごく稀にすれ違い大きな命を見たおかげで、私は自分の大きさを客観的に知ることもできた。

 満足した気持ちは、私の胸に灯りを灯した。波の音すら聞こえないほどの、深い深い海の底に、誰かの歌が響き渡る。

 私はその中でそっと目を閉じる。そうすると、どこからともなく「私」を呼ぶ声が聞こえる……。

 そっと目を開けると、そこには見慣れた天井があった。

 こうして私は、自分が望み祈れば、何にだってなれるということを知ったのだ。

 そっと身を起こすと、窓の外はもうすっかり明るかった。


(2030文字)


=自分用メモ=
自分の「幸福な想像力」に救われる夜は、間違いなくある。そんなことを思い返しながら書いた。眠る前は、できることなら自分に幸福をもたらす夢を祈りたい。
体言止めや言い切りの形を多めに入れるように心がけ、その効果を探った。

これを読むあなたが、来週もゆったりと泳ぎきれますようにという祈りを込めて。

六月も最終日。今月も、お疲れ様でした!

感想等は「こちら」から。どんな一言もありがたく拝読いたします。

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