【ショートショート】 教室の白
この教室で、白山の横顔を一番見ているのは、間違いなく私だ。…多分。
白山の隣の席になって、そろそろ1ヶ月経つ。
窓の外を見るようなフリして、さり気なくその横顔を見ることが、随分上手くなったと思う。
そろそろ席替えのタイミングだ。もうすぐこの席を離れることになる…。考えると、1ヶ月かけて白山と取ってきたコミュニケーションがイマイチ実り切らないままなことに気がつき、何だかしょんぼりしてしまう。
起きていても、寝ぼけているのかと思うくらいの緩慢な動きで、お世辞にも綺麗とは言えない字を眠そうにノートに書く。
ときどき、ノートの隅によくわからない落書きをしたり、堂々と机に突っ伏して眠ったりする。その場合、眼鏡はしっかり外して机の右隅に置く。いつものことなので、眼鏡を外して右隅に置いたのを視界の端に捉えると、「あ、寝るな」とわかるくらいにはなった。
まつ毛は長め。居眠りをしているときの無防備なその寝顔は、いつも私の気持ちを何となくざわざわさせる。これもいつもの、こと。
右の耳たぶに、小さなホクロがある。始めて見たときは、ピアス穴かと思って二度見してしまった。白山とピアスは、私の中で真っ直ぐに結びつくワードではなかったからだ。
そういう何の変哲もない「日常」を、ただ彼の横で過ごせることが、いまの私にとってなかなか有意義な時間なのであった。
ちなみに今は、左手で頬杖をつきながら眠そうにしている。眼鏡はまだしたままだし、ノートも…一応とっているらしい。
いつ何時、「ノート見せて」と言われてもいいように、私は一応いつも起きてしっかりノートはとっている。白山のおかげで、授業中の居眠りは格段に減った気すらする。別に見せてなんて言われたこともないのに…恐るべし、白山。
…カタッ
突然、半分居眠りをしていたはずの白山が、ノートを真剣に見つめ始める。何事かと見守る。もちろん、見ていないような顔をしながら。
いつになく真剣な、白山の視線の先にいるのは…。
…虫?えっ、何?虫、なんで?
蟻と思しき小さな虫を、手のひらに匿うような動きをしている白山に、私は思わず「見ていないような顔」をすっかり剥ぎ取って、話しかけてしまう。
「…何してんの」
え、本当に何してんの?どこから連れてきたの、むしろいつからいたの。
私の問いに対して、白山は少し驚いたような表情で「いや、何か…蟻が…」なんて慌ててゴニョゴニョ言っている。
さすがに突っ込まざるを得ない状況に、教壇にいる先生の動向を気にかけつつ思わず話し続けてしまう。
「いくら授業が暇だからって、蟻と遊ぶとか悪趣味すぎない?」
「遊んでねえよ…」
出た、白山がよくする困ったときの顔だ。私はこの顔が、乏めの彼の表情の中で一等気に入っていた。
まんまと庇護欲をくすぐられ、少し可哀想に思って言葉を選ぶ。
「どっから連れてきたの」
「…さあ」
何だそれ、どういうことだか状況がさっぱりわからない。
ふと黒板を見る。その一瞬で、ノートの続きはもうなさそうだなということを確認してまた白山の方に向き直る。
「カバンとかを地面に置いて、そこからうっかり引っ付いてきたのかな。もしそうだとしたら、今日は体育とかないし…」ここまで言って、止まろうと思ったのについつい余計なことを言い過ぎてしまう。
「どうせ君のことだから、昼休みに校庭に出たとも思えないし…。朝からいたのかな」
白山は、外に出てはつらつと遊ぶようなタイプではないので、事実ではあるだろうけれど、嫌な言い方をしてしまったなと即時脳内反省会に入る。
「何にせよ、大冒険すぎるね。その蟻はもう、元いた場所にはきっと戻れないわけだ」
気まずさを塗りつぶすように、しれっと一言を付け足す。ああ、私はいつもこうだ。
当の白山はというと、聞いているのかいないのか、相変わらず手の甲を這う蟻を眺めている。
天気のいい日の午後の光が、明るく教室を照らす。
私の席からは、白山が逆光になる。そんな明るくて白い光のなか、手の甲を這う蟻を眺める白山。相変わらず、まつ毛は長い…。
一種異様で非現実な光景に、何だかゾワゾワして、私はまた思わず話しかけてしまう。
「あーあ。私も蟻くらいのサイズになって、気まぐれにどっか行けたらなあ」
せめて、次の席替えも近くであればな…なんて思っている自分に気づき、それを誤魔化すように言葉を続ける。
別に独り言になったって構わない。元々白山は物静かだから、返事がないことにだって慣れている。
「たまたま座った椅子で休んでいたら、全然知らない世界に辿り着いてたみたいなの、面白いと思わない?」
それでも今日は話しをしたくて、どうでもいいようなことを疑問形で話しかける。
「いや…別に…」
ふん、そうでしょうね!返事しにくい質問をした私が悪うございました。
「つまんないやつ」余計な一言は、すぐに出てくる。
「悪かったな」
相変わらず困ったような顔で、白山は眉間に皺を寄せる。あ、この人こんな顔もするんだな、なんて私はぼんやり思う。
「案外、そんなもんかもな」
予想だにしない反応があって、私は目を見開き慌てて「何が?」と返事をする。
「“たまたま座った椅子で休んでいたら、全然知らない世界に辿り着いてた“ってやつ。俺たちも大体そんなもんじゃないの」
私の返事を待つことなく、彼は続ける。
「人生は、何か見えない大きな力で動いてんのかもなって。壁に登ったり、板に乗ったりしてたら、気がついたら全然違う世界が見えてるみたいな」
私が驚いたのは、白山がこんなに話しているところを初めてみたからだけではない。まさに、言わんとしたことが思ったよりしっかり届いていて感動したのだ。
「…うん。高校って板に、私たちはいま乗ってるんだね」
「あ、そんな感じ」
嬉しそうに頷く、眼鏡の奥の瞳が笑う。
「なるほどね」
それを見て私は満足し、ああ、私は白山が好きなんだなとくっきりした気持ちを自覚する。
授業終了のチャイムと共に、白山はゴソゴソと立ち上がってノートの上に蟻を乗せる。私たちみたいに、「板」に無自覚に乗った、蟻…。
窓の外へノートを差し出そうとする白山を見て、何をしようとしているか理解し、その小さな命に一瞬自分を重ねて思わずその先を見守る。
そんな私を気にすることなく、彼はノートを見つめ、そのままノートを振り払うことなく教室を出ていった。
私は、それをただ静かに見送った。
蟻の行方は、白山以外誰も知らない。
(2590文字)
=自分用メモ=
久しぶりに呼応関係のある作品を書きたくなったので、先週のショートショートの反対側を書くことにした。
無自覚な好意を、自覚する瞬間ほど「ハッ」とすることはない。また無自覚な行為の意味ほど、深いものはないとも思う。
同じ空間にいながら、相互に意味合いの異なる風景をみていたのだと言うことを明らかにできるよう努めた。
先週のものも、併せて読んでもらえたら幸いだ。
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