【ショートショート】 机上の点
俺がそれに気がついたのは、授業終了まであと10分という頃だった。
片肘をついて、半分居眠りをしながらノートだけは適当に取る。
授業を受けているような顔をして過ごしていた俺は、机上の真っ白なノートを横切る「点」によって目を覚ます。
(…蟻?)
午後の授業でぼんやりした頭を、じわじわ覚醒させた動く点は、一匹の小さな蟻だった。
俺のクラスは、校舎の4階にある。
どこから現れたのか全く検討がつかないそれは、止まると死ぬと言わんばかりに、忙しなく俺の机上を動き回る。
いつからいたんだろう、全く気が付かなかった。
たかが蟻とはいえ、無自覚に生き物を捻り潰すような、後味の悪いことはしたくなくて、とりあえず手のひらに誘導し、視界の及ぶところでその行動を見守る。
「…何してんの」
ゴソゴソしていたのが見えていたようで、教師の目を盗み、隣の席から立花が小声で話しかけてくる。
「いや、何か…蟻が…」
俺の手元をみた立花は、げっ!と言って眉間に皺を寄せ、呆れた表情をして見せる。
「いくら授業が暇だからって、蟻と遊ぶとか悪趣味すぎない?」
「遊んでねえよ…」
俺だって、別にしたくてしてるわけじゃない。どちらか言うと、虫は苦手だ。
「どこから連れてきたの」
「…さあ」
「カバンとかを地面に置いて、そこからうっかり引っ付いてきたのかな。もしそうだとしたら、今日は体育とかないし、どうせ君のことだから昼休みに校庭に出たとも思えないし…。朝からいたのかな」
立花も、大概授業に飽きていたようで勝手に考察を始める。それを聞いて、朝どこにカバンを置いたっけなんて少し考える。
「何にせよ、大冒険すぎるね。その蟻はもう、元いた場所にはきっと戻れないわけだ」
目を離すと、あっという間に見失いそうな動く点の動向を、残りのノートを写しながら横目で静かに見守る。
立花はさっさと黒板を写し終えて、俺の挙動を見守っている。蟻を見守る俺を、見守る立花…。
奇妙な時間がはじまった。授業終了まで、後5分ほどか。
「あーあ。私も蟻くらいのサイズになって、気まぐれにどっか行けたらなあ」
小声ではあるけど、俺越しに窓の外を見ているから、言っていることははっきり聞こえる。
「たまたま座った椅子で休んでいたら、全然知らない世界に辿り着いてたみたいなの、面白いと思わない?」
「いや…別に…」
ふん、と立花は不服そうに鼻を鳴らす。
「つまんないやつ」
「悪かったな」
風がカーテンを膨らませて、俺の机上を過ぎ、立花の前髪を撫でる。
「案外、そんなもんかもな」
風の行方を無意識に目で追い、ふと気がつくと思っていた言葉がぽろりと口から出ていた。
「何が?」
立花は少し驚いたような顔でこちらを見ている。俺はそちらを見ることなく、机上の黒い点を見ながら言う。
「″ たまたま座った椅子で休んでいたら、全然知らない世界に辿り着いてた″ってやつ。俺たちも大体そんなもんじゃないの」
立花は、黙って俺の言葉の続きを待つ。俺は何を言い出したんだろう、自分でも自分に少し驚く。
「人生は、何か見えない大きな力で動いてんのかもなって。壁に登ったり、板に乗ったりしてたら、気がついたら全然違う景色が見えてるみたいな」
「…うん」
立花は馬鹿にすることなく、聞いてくれている。俺がどうこれを説明するか考えている間に、そっと言う。
「高校って板に、私たちはいま乗ってるんだね」
「あ、そんな感じ」俺は頷く。
「なるほどね」立花は、満足そうに笑って頷く。
そのタイミングで、授業終了のチャイムが鳴る。黒い点は、俺のノートの上で変わらず忙しく生きている。俺たちの何倍の速度で彼らは生きているのだろうなんて、途方もない考えが頭の中を過ぎる。
こいつに、俺のことは見えているのだろうか。俺がこの点と同じなら、「外」から見た俺はこんな感じなのだろうか。
そのままノートを手に持ち、窓辺へそっと持って行き振り払おうとする。
立花の視線を感じる。
その瞬間何となく思い止まり、教室を出て階段を目指す。
俺は一階にある、花壇へ向かうことにした。
(1661文字)
=自分用メモ=
ときどき、「見えない何か」が自分の人生に大きく作用しているのではないかと思う瞬間がある。
ずっと同じ場所にいたはずなのに、初めて見るような不思議な感覚を抱いたり、よく知った場所なはずなのに、そこにずっとあっただろうものに不意に気がついたり。
「外」にいる何かに振り落とされないように、必死にしがみついて、今日も私たちは生きてゆく。
↓対になっている作品も、ぜひ。
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