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【ショートショート】 その猫が言うには

「いいですか、きみ。よく聞くがいいよ」

 不意にどこからかそんな声が聞こえて、その声の持つ緊張に、私は思わず微睡から身を起こす。

 ぐるりと部屋を見渡して声の主を探すけれど、この部屋には自分以外誰もいない。そっとスマホの画面をつけて、時間を確認した。

 十五時過ぎを示している、その画面の明るさとは裏腹に周囲は随分と薄暗い。

 大学の授業の空き時間に、使われていない教室でうたた寝をしていた。ほんの十分ほどのはずだが、急に天気が変わったのだろうかなどとぼんやり思う。

「全方位に正しい選択肢など、この世の中には存在しないのだ」

 さっきよりはっきりと聞こえたその声は、下の方からした。

 見えない足元に未知がある不安を覚えながら、覗き込もうとした矢先、トンと軽い音を立てて視界で何かが動く。

「えっ」

 それは果たして、茶色い毛をした猫だった。
 猫は、艶々としたその毛並みを見せつけるようにして、優雅に伸びをする。

 声の主への興味は、一気に目の前の猫に奪われた。

 どこから来たのだろう、この教室は三階にあるということは、ドアをくぐって階段を昇りここまで来たのか。あるいは誰かの飼い猫が迷子になったのか…。

 そんなことを思うこちらの、一切合切を気にした様子もなく、その猫は堂々と私のいる席の一つ前の机に座って、口を開いた。

「いいかい、もう一度言おう。誰かにとって正しいことが、きみにとっても正しいとは限らないし、その逆も然りで、きみにとって正しいことが誰かにとって正しいとも限らない」

 猫は、ガラスのような球体に黒く細い鋭さをたたえて、私を見つめてそう言った。
 間違いなんかじゃない、そう、確かに言ったのだ。

「正しいこと…」

 情報過多な不思議の前に、呆けたようなままで私はそう反芻する。

「そう。きみができるのは、きみにとっての正しさを見つめ続けることだけ」

 猫は私から目を逸らすことなく、そう言ってまたじっと見つめてくる。突然小難しい話に迷い込むことになった私は、まだどこか寝ぼけた頭のまま、その猫を静かに見つめ返す。

 普通に考えて、猫が人語を話すということは、不思議以外の何ものでもない。
 ただ、その不思議を飲み込むより先に、猫の発した言葉を理解することに必死になる。

 そんな私の様子を見て、猫はスンと音を立てて息を吐き、そのままひらりと床に降りてみせる。

「きみにとっての正しさが、誰かにとっての誤りである可能性は、いつだってある」

 床に降り立った後、そのまま私の足にしゅるりとすり寄った猫は、そう言い残して夕陽の匂いがし始めた窓辺に、身軽そうに飛び上がった。

「あ、危ない!」

 窓の向こうに見える木の枝に、ここが三階であることを思い出して、私は思わず声を上げる。
 そんな私を見て、猫は「それはきみの正しさだね」と言った。

「正しさは時に、優しさを併せ持つ。それは優しくて甘くて、そして大抵窮屈だ」

 そう言い終えると、猫はゆったりと尾を振り、そのまま窓の向こうに飛び出していった。最後に見た顔は、何だか少し笑っているように見えた。

 猫もそんなふうに笑うのかと、また新しい不思議を知る。

──カタン。

 何かが落ちたような物音がして、ハッと身を起こすと、私は変わらず一人で教室にいた。

 スマホの画面を見ると、時間はさっき見たときと同じ十五時過ぎを示している。

 夢かうつつか混乱しつつも、あまりに印象的な出来事だったので、思わず立ち上がり猫が飛び出していった窓辺に駆け寄る。

 窓は開いていて、木々を揺らした風が私の横を通りすぎていった。

 その風を辿って振り返った教室の床に、きらりと光るものを見る。

 さっき音を立てて落ちたのはボールペンだったかと、机に戻ってそれを拾う。

 手の内に握った冷たさに目をやると、茶色い毛をした、猫のキャラクターの描かれたボールペンだった。

 これをくれた友人とは、少し前に喧嘩をして冷戦状態になっている。

 私は、猫の言ったことを思い出しながら深呼吸をして、スマホを片手にその友人の連絡先を探しだした。


(1647文字)

=自分用メモ=
「正しさ」はいつだって、暴力と優しさをはらむ。どちらに転ぶかは受け取り手次第。
最近「正しさとは、正義とは何か」みたいなことを考える場面がちらほらあったので、そういったアレコレを混ぜ込んでみたくてこれを書き上げた。
猫さまは、特別出演。一週間お世話になりました、ありがとう。

感想等はこちらから。
もれなく私が喜んで拝読します。

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