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「書く」という行為は「書くつもりのなかったことを書くこと」



「書く」という行為は
「書くつもりのなかったことを書くこと」

これは、大学の授業での講師の言葉だ。


その授業では
毎回ちょっとした課題が出された。

「毎授業後に、キーワードを指定するから
それについて調べてみて、知ったこと
思ったこと、なんでいいから書いてみなさい」

「毎週10分だけもその時間を設けなさい」

という課題で
提出は求められなかった。


講師はこの課題をやらせる経緯を
こんな感じで説明した。

「皆さんにこの課題をやってもらいたいのは

『書く』という行為は
『書くつもりのなかったこと書くこと』

だからです。

この言葉は、私の言葉ではなくて、、
あれっ、誰の言葉だったっけなぁ。

忘れちゃったなぁ、、、

あれ誰だっけ?

って君たちに聞いてもわからないよなぁ、、、

調べてみるか、、
(1分経過)
う~ん、、出てこないねぇ。

まぁ、とにかく、誰の言葉かは忘れましたが

『書く』という行為は
『書くつもりのなかったことを書くこと』

になりますから、提出は求めませんけど
積極的にやってみて下さいね。

はい、じゃあ授業始めま~す。」


教室にいた100人以上の生徒全員から

「いや、誰の言葉なんだよ!」

という心の声が漏れ出ていた。

その後の授業中も
「誰の言葉なんだよ!」
が脳内を走り回っていた。

しかし、さすがに
「誰の言葉なんだよ!」
も走り疲れたようで、徐々に

「書く」という行為は
「書くつもりのなかったことを書くこと」

という言葉自体に
興味の矛先が向くようになっていった。


そして

「えっ、これ、すっごい分かるわ」

と思った。


私は、中学時代から
手書きの日記を書き続けており
今では毎日最低1時間はかけて書いている。

文字数でいうと
1000字くらい?になるのかな。

ひどいときは、3~4時間かけて
大学のレポートみたいな文量の日記を書く。

もう一回言うけど「手書き」だぜ?

「昨晩書き切れなかった日記の続きを
午前中に2時間ほど書いて、、、」

なんてことを日記に書くこともある。

日記に
「日記を書いたこと」を書いている始末。

1日を振り返るための日記のはずなのに
日記が1日を大きく浸食している。


そして、私の生活をこんなにも
浸食してしまう理由が、まさにこれ。

「書く」という行為は
「書くつもりのなかったことを書くこと」


毎晩

「よ~し、日記たくさん書くぞぉ!」

「目指せ、3000字!」

なんて意気込んでから
書いているわけではない。

なんなら
その日にあったことを
箇条書きで書き殴って
1分で日記を終えられるなら
それに越したことはない。

しかし、その日あったことを書けば
その細かい状況を書きたくなってしまう。

状況を書けば
それに伴った感情を書きたくなってしまう。

感情を書けば
「前にもこんな気持ちになったことあるよな」
なんて自分の過去を整理をしたくなってしまう。

過去を整理すれば
そこで見つけた教訓を
未来のどんなときに活かせるかを考えてしまう。


予定の箇条書きだったはずが
そういう連想ゲームによって
際限なく広がっていってしまうのだ。


noteを始めてから
現時点で6本投稿しているが
いずれも短くはない方な気がする。

私としては
みなさんに気軽に読んでいただけるような
ちょっとした文章を書きたい。

しかし、気付けば
まぁまぁ書いちゃってる。

まぁ
「書かなければ気付けなかった自分に
気付かせてくれる」
というのは、素晴らしいことだけども。

「書く」という行為は
「書くつもりのなかったことを書くこと」

いやぁ、説得力しかないね。


今回も、思ってたより書いちゃったなぁ。

一応、これでも結構削ったのだが。

大学の授業で講師が
「誰の言葉か」を思い出せないところとか
いらなかったかなぁ。


結局、誰の言葉だったんだよ!


それでは、今日はこの辺で。

ありがとうございました。



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