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「これくらい…」ができなくても、落ち込まなくていい

こんばんは、Mihoです。
最近は本当に時間の流れが速いです。
京都は今まさに祇園祭の真っ最中。
中心地である烏丸あたりに近づくと毎晩お囃子の生演奏が聞こえてきます。
優雅~✨でも爆音すぎてうちの子どもたちはいやがっています😆😆😆

わたしは20歳過ぎて自閉症スペクトラム障害(ASD)の診断を受けています。

それでも働いていますし、仕事はセラピーをしていますし、仕事場でも「気が利く」といっていただくことがあります。
仕事場はとても働きやすく、また仕事の内容もわたしに合っていると感じているので、わざわざ自分がASDであることを伝えてはいません。
だから、正直なところ今の生活では自分の「障害」を感じることはなく、すっかり自分のASD性を忘れていました。

でも、最近わたしって本当にASDなんだな~と感じることがありました。
わたしの家族はそれぞれ別の場所で暮らしており、特に両親は海外にいることから、なかなか顔を合わせる機会がありません。

それに加えて、今年になってからは、わたし史上最も忙しい上半期でしたので、すっかり家族のことを忘れていました。
そのせいで、いろいろと連絡の行き違いなどもあり、家族のなかですれ違いが起き、傷つけあってしまいました。

「ごめんね、忘れちゃった」といったら、「忘れるなんてひどい!」と叱られました。
相手を傷つけてしまったのは本当に申し訳ないと思います。

でもね。
わたしにとって、目の前にいない人のことを思い出すのはすごくすごくむずかしいことなんです。

こうして記事を書いている今も実は未読スルー・既読スルーをしています(笑)(全然笑い事じゃない)(許してくれる友よありがとう!)。
それをいじわるとか何かの意図があって無視している、ということはまったくありません。

単純に忙しいとき、疲れているとき、目の前のことでいっぱいいっぱいになっているときには、たとえそれが親しい人であっても、普段好きな人であっても、忘れてしまうんです。
あるいは、少なくともわたしは、忙しいときに誰かと話したりするのは本当にしんどくて、まったく癒されません。
本当に疲れているときや傷ついているときは、誰とも話さず、無口に、自分にとって落ちつくことをしたりしながら、一人でぼーっとしているのがいいのです。
わたしにとって、誰かと関わることはナチュラルなことではないのです。

上半期はそう言った忙しさが続いていたことで、わたしのなかからは完全に「家族」という存在が見えなくなっていたのでした。

それを「定型発達」というか、情緒的接触を重んじる人はさみしく感じるのだなと理解すると共に、やっぱりわたしにはそういった情緒的感覚が根本的に欠落している、つまり、ASDであることを実感したのです。

これはセラピーを承っているクライアントのみなさんにも当てはまります。

「発達障害」と呼ばれる人たちは、周りの人から
「これくらいできるでしょう?」とか
「なんでこんなこともできないの?」とか
「普通……でしょ」といわれているし、
本人も「なんでできないんだろう?」と真剣に悩まれています。

雑談をするとか、冗談を理解するとか、返事をするとか、目の前の出来事に集中するとか、忘れ物をしないとか、目を見て話すとか、家族を気にかけるとか……。
どれも「これくらい」のことばかり。
でもそれが本当に見えないし、わからない。

わたしもお仕事のときでさえ、子どもに「これくらいやってくれ~!」と思ってしまうときはあります。
たとえば、まっすぐ縦に切って欲しいと伝えて、お手本を見せて、「できます」といったのに、「じゃあやってみて」と手を離したら、早速紙を横にして何のためらいもなく切り落としてしまうとか……そんなこと日常茶飯事。
でも、その子にとっては縦に切ることは本当にむずかしくて、わざと横に切ったわけでもないんです。

わたしはたまたま知的障害も言語障害もなく、お仕事もできていますが、家族のちょっとした気持ちに共感したり、極端な話「家族らしい」ふるまいをすることはやっぱりむずかしい。
相当元気があって、時間があって、やる気があって、「家族サービスするぞ~!」と決めてやらないとむずかしいんだと思います。

子どものときは一緒に暮らしていたから、なんとなく「家族っぽい」やりとりができていたのだと思いますが、離れて暮らすようになり、実際的に生活の場を共にすることがなくなると、途端にどうふるまったら良いかわからなくなってしまったんだと思います。

そんな自分にしばらく落ち込んでいました。
でも、わたしはASD。
そういうのが苦手だからASDと社会では呼ばれる状態なのです。
それができない自分をむやみに責めるのは止めようと思いました。

だって「それくらいやってよ」と責められている自分のクライアントを見ると、わたしは本当に悲しくて、「それくらいじゃないよね。あなたにとっては大変だよね」と励ましたくなるからです。
だから、自分に対しても同じように眺めたいと思うのです。

家族の感情的なニーズも大切です。
でもASD者の「感情的なものをうまく扱えない」「感情的なニーズにうまく応えられないことを悲しいと思う」「それが意図的なものではない」ことも、むずかしいかもしれないけど、できれば理解してほしいと思います。
他にも、人と関わるのはわたしにとっては自然なことではないけれど、それをしてみたい気分のときもあるし、相手を大切に想っていることも。
その気持ちをうまく表現するためになにができるのかは、わたしの課題ですね。

解決の糸口が見えているわけではありませんが、世間の言う「これくらい…」がわたしにはすごく大変だということが自覚できたので、精神的には落ち着いてきました。

たとえ他の人にとって「これくらい簡単でしょ」ということがあっても、あなたにとってそれが「大変」なら、それは「大変」なことなのです。
そして、それを大変だと感じてしまう自分に落ち込む必要はありません。

お互いの違いを理解すること。
事実を認めて、どうやって対処していくかが大切ではないでしょうか。

これからも「これくらい……」に押しつぶされそうになっている人たちの手助けを続けていきたいと思います。

ここまでお読みいただいてありがとうございました。


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