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研がれよ、伝えるものたちよ。
マティス展を観て心に浮かんだもの、それは『捨象』という言葉だった。
【捨象】事物または表象からある要素・側面・性質を抽象するとき、他の要素・側面・性質を度外視すること。
1から100まで細かくこまかく見せるのではなく、削ぎきったエッセンスに迫ることで、伝わる。
例えば美しい景色を見て感動したときに、視界に映っていたものすべて
芝生や髪の一本までリアルに描きあげ写真のような絵をつくって、
そのときの温度や風速などの情報まで添えれば、すばらしさが伝わるんだろうか?
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むしろその瞬間の心の手ざわりみたいなものを、いくつかの色で描いてみたり、小さな詩を編んでみたりするほうが、
より感じたものの「本質」に近い伝達ができるのかもしれない。
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情報の波を、脳という機械で「光、色、音、匂い、感触、味」…と変換して受け取る。
つまり、個性うんぬんということを除いても、文字通り「わたし/個体」というフィルターを通さなければ
なにも捉えることはできない。感動や感覚の本質となったイデアを、1粒残らず別の個体に伝達することなんて そもそもできない。
だからこそ、自己満足ではない表現には、思い切りが必要なんだと思った。
何を描かないか。何を言わないか。
どう引いてエッセンスのみを掬いあげるか。どう削いでシンプルさへと落とし込むか。
伝える技術の精度を上げるのは、まさに「磨く」ような行いなんだ。
それこそが
art(技術・芸術・人文科学)という営み。
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大学で社会学を学んでいたとき。わたしたちの師は「パラフレーズしてください」としきりに言っていた。
練りに練りあげた論文をプレゼンしたあとで「髙橋さん、ひとことで言うと、それはなんだと思いましたか」と、まっすぐに逃げ場なく問われる。
「!? ひとことでは言えないから、8万字も書いたんじゃあないですか〜」と泣きつきたくなるのは
エッセンスをまだ完全なる血肉にできていないから、だったんだ。
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ご退官の日のスピーチで、先生はゲルハルト・リヒター展の話をされた。
日本最高峰といえる院で博士を修め、社会学の本拠で教鞭をとり、30年以上にわたる研究生活のひと区切り。
なぜ抽象画家の話が出てきたのか? そのときのわたしにはまだピンと来ていなかった。
まだ誰も考えたことのない問いに毎日まいにち向き合って、新旧の膨大な情報を吸収し、考えをまとめ、ぶつけてはまた問いを建て直し…
そのような道がなぜ、抽象画への深い共感につながったのか。
そうか「研究」とは
研(みが)き、究(きわ)めることなんだ。
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マティスへの感想を書いているうちに、尊敬する研究者の生き方への、そしてアカデミズムへのラブレターが生まれてしまった。笑
人類へ知の道を切り拓いてきた学問者たち。そこには到底並ぶべくもないけれど。
わたしはわたしの場所で、
銀河すべてとフラクタルだと信じる
この小さな場所・小さな体で、
精一杯に研きを究め、生きていこう。
そう誓います。
マリン
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