ポテトサラダ乗せふわふわ食パン

ポテトサラダ乗せふわふわ食パンを食べて、2枚め食べるときに、ポテトサラダの皿を空にして、ゆでたまごの殻をむいているときに、ポテトサラダの皿についた微小のポテトサラダに、コバエ?がきた。皿の何もないところ、何もないかに見えるところを何かしている。水分的なものをとっているのかと、見ていた。そのあと、ポテトサラダの7ミリほどの大きさのやつに、いった。食べている。懸命に食べている。かわいい。それをみながら、動物に対する共感について考えを巡らす。食べるというのが、共感のポイント、ワードとして大事、共感ポイントなのだろうと思う。そうなると、食べるというキーワードを広く解釈して、植物などに対する共感もいけるか? 動くという共感よりも、食べるということのほうが共感は大きいと思う。しかし、外を歩いていたりして、癒やされるのは、動くもの、動物だ。野良猫とか、小鳥、大きめの鳥。あるいは自分に敵対していない虫。そういうものに対して、そういうものを見ていると、癒やされる。これは共感からくる癒やしだろう。自分の外に自分を見出す、仕組みからきている。内と外の分割によるつらさ、悲しさ、からの開放による癒やし。動くものに共感しているのは間違いない。また、共感しやすい、わかりやすい仕組み、わかりやすいワードということだろう。動くということは。ところで、植物だって動いているが、その動きはわかりにくい。というか、動物と同じ次元では動いていないということだろう。動くとしても、時間感覚が違う。植物のほうがゆっくりしている。だから、動きということでは、植物に共感は難しい。ふむ。共感というのも、言葉で表現できるということだ。つまり。動きとか。食べるとか。シンプルな言葉が重要だ。つまり。すべてのものは、食べるという行為をしている。たぶん。すべてのものは、動く。虫はまだポテトサラダに付いている。食べている。これが、しかし、食べているのではなくて、卵を産み付けている、とこだったら、とたんに嫌悪感に変わるだろう。卵を産み付けているとなると、急にその行為は、私に敵対した行為になるからだ。ポテトサラダの残りカスを食べられても、私は構わない。しかし、そこに卵を産み付けられると、病気やらなんやらの感覚が出てくる。また、孵化して大量に発生されると困る。1匹なら敵というほどでもないので、スルーできる。食品にたかられても、それで、そのくらいで病原菌が移るということはないのは、経験としてわかっているので、それもスルーできる。余裕でいられる。未知の生物とかだったら、不安感はでてくるだろう。
今ご飯(パン)食べながら三島由紀夫の文化防衛論の解説動画を見ている。そこで連帯というワードが出てくるが、連帯というのも、これからのオレのテーマになっているな。文化的な天皇という言葉による連帯。三島。それはだが、政治によって保障された天皇なので、文化的とは言えなくて、政治的であると否定され、それに言い返すことはできなかったらしい。戦後民主主義とは、天皇ではない連帯を模索したとされていて、それは実存主義とマルクス主義という主体と連帯ということだったようだ。そしてそれは失敗した。そのあと大江健三郎の小説の話に移って、原子力発電の危険性での恐怖によって、それを神とすることによる連帯ができるのではないかという話がでてくるらしい。ふむ。恐怖、不安という言葉による連帯というわけだ。そして、解説者は、敗戦というワードで連帯できなかったのだから、無理だろうと思ったといった。だが、敗戦というワードで、連帯はしているとは言えるだろう。経済大国までいくところまでは、敗戦という出来事が共通してあり、それを乗り越える形での成長というものがあった。しかしそれは、それを乗り越えた時点で、おわる。敗戦というワードは、今では機能しない。しかし、ふむ。ゴジラは敗戦的なものを神として、怪物として出てきている。シン・ゴジラでは震災、放射能問題、原発問題が神、巨大な怪物として現れでてきた。こう考えて、出るべくして出てきた作品ということがわかる。最初のゴジラとシン・ゴジラはそういう批評性をもった作品として、絶対に押さえておくべき作品だな。ところで、私の身体のサイズと、コバエの身体のサイズを比較すると、ゴジラと人間のサイズと同じだといえるだろう。私がコバエを攻撃しないとなると、私はゴジラではなくウルトラマンになるだろう。ウルトラマンと人間の比較、関係は、人間とコバエの比較、関係だということだ。つまりは。連帯。東浩紀のゲンロン0では連帯の問題についても書かれている。そこでは家族の連帯が考察、または考察の下準備がなされる。東浩紀は3.11の原発事故での、つまりは不安、失敗を神としての連帯を試みてみたが、つまり福島観光地化計画というのは、大きく支持されることは、つまり連帯することはできなかった。一方、フィクションの世界では、シン・ゴジラは興行的には成功した。この違いはなにか。ゴジラはいない。つまり、フィクションだとわかる。そのフィクションらしさが安心できるということだろう。連帯の土台としては、不安よりも安心ということだろう。不安という言葉も、不なので、まず安心が前提とされている言葉だ。つまり安心のほうがより先にある言葉だといえるだろう。よって、より深い。とりあえず、不安を軸とした連帯は、長続きはしない。病気が治れば病気のことは忘れる。喉元過ぎれば熱さを忘れる。常に病気の人を探す人生もなかなかつらいので、やりたくはないだろう。とりあえずは、安心を軸としたゆるやかな連帯がある。つながり方に、強いつながり方とか弱いつながり方とかがある。思い出されるのは、物理学のワードの、強い力とか弱い力とか。4つあるんだっけ? その4つってのは、ショーペンハウアーの4つの根とかいうのとリンクしていると思うのだが、どちらもまだ詳しくはないので、ハッキリとは言えない。ウルトラマン。ウルトラマンみたいな巨大な作品は、みんなでつくったほうがいいのではないかとも思う。つまり、単純に、ウルトラマンは国の比喩として成立するから。


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