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【考察】上町台地の歴史的環境 〜古代社会を中心として〜

九條です。

昨年(2022年)12月。年末の休み期間中に友人と上町台地の史跡めぐりをしました。

そこで、これまで私がなんとなく頭の中で考えてきた上町台地の歴史的環境について、古代を中心に簡単にまとめてみたいと思います。

なお、これは論文でも研究ノートでもレポートでもなく、単に私がここ数年来、頭の中でぼんやりと考えてきたことをなんとなく文章にしただけのものです。ご了承ください。

長文(本文約4,500文字)ですので、興味がおありの方は、もしよろしければ、お時間がおありの時にでもご覧になってください。^_^

はじめに
上町台地うえまちだいちの範囲は、現状ではその北端に大阪城が、南端には住吉大社がある。東限については諸説あるようだが概ねJR大阪環状線「森ノ宮」駅(大阪城の東端にあたる地点)あたりから「鶴橋」駅を経てJR阪和線「長居」駅(長居公園)付近までの南北ライン。

西限は大阪市主要道路「谷町筋」の天満橋付近(大阪城の西端にあたる地点)から大阪メトロ「動物園前」駅へと至り南海電鉄「天下茶屋」駅を経て南端は住吉大社の南側付近(細井川付近)までと考えて良いように思う(下の航空写真および地図)。

上町台地の航空写真
(Google Earthより)
上町台地の地形
(国土地理院地図)

総じて南北総延長約9km、東西幅約1kmであり主軸を磁北より30度ほど東へ振った地形である。標高は大阪城付近で23~25m、四天王寺付近で約20m、JR天王寺駅付近で約15m、住吉大社の北側で5〜10mと(自然地形であるからその途中にとうぜん起伏はあるが)全体としては北から南へ向かってなだらかに下っている。

上町台地の断面図(北端部)
(2023年 九條正博 作成)
上町台地の断面図(中部)
(2023年 九條正博 作成)
上町台地の断面図(南端部)
(2023年 九條正博 作成)

またこの台地の崖線は概ね西側に寄っており、崖線を中心として東側は緩やかに下るが西側は崖状の急傾斜となっているところが多い。これは後述するように、この台地の東はかつて河内湾/河内湖(河内潟)が形成されており、西は海岸線(波打際)であったことの名残である。

古来より上町台地の崖線上のすぐ東側には熊野街道が通り、また崖下には紀州街道が通っている。

熊野街道 安倍晴明神社付近
(2022年12月 九條正博 撮影)
紀州街道 天下茶屋3丁目付近
(2023年1月 九條正博 撮影)

現在上町台地の崖線上すぐ東側には阪堺電軌軌道上町線が、西側の崖下には阪堺電気軌道阪堺線が上町台地に並行する形で走っている。


上町台地の形成
この上町台地は、縄文海進の頃には東にいわゆる「河内湾」が形成されており、西には大阪湾が広がる半島状の地形であった。その後の縄文海退等を契機に弥生期〜古墳時代初頭にかけて砂嘴が徐々に北進して河内湾は次第に閉じて行き潟湖が形成され「河内湖(河内潟)」となった。この「河内湖」には2つの河川(現在の淀川と大和川)が流入しており淡水化が進んだ[1]。

4世紀から5世紀に至ってもこの「河内湖」は残存しており「草香江」と呼ばれた[2]。

この河内湖(草香江)には上述の如く2つの大きな河川が流入していたが河内湖からの流出は現在の新大阪付近(柴島付近)の狭い1か所だけであり、このためにたびたび洪水を起こしたと伝えられている。この洪水対策等として『日本書紀』によれば大鷦鷯天皇(仁徳天皇)が難波堀江や茨田堤(4世紀末から5世紀前半)などの治水事業を行ったと記録されている[3]。


古代の上町台地

さて、古代(古墳時代以降)の上町台地の動向についてその概略を北から順に見て行きたい。

上町台地遺跡分布概要図
(2023年 九條正博 作成)

まずこの台地の北端(現在大阪城がある辺り)には、古墳(もしくは古墳群)があったという伝承がある。この古墳(あるいは古墳群)がいつ頃取り壊されたのかは解らない。難波屯倉(6世紀)[4][5]の頃か難波長柄豊碕宮(7世紀中頃)の頃か、あるいは難波宮(8世紀)の頃か、さらに時代が降るのかは知る由がない。ただこの地が古来より「石山」と呼称されてきたことは何かを示唆しているのかも知れない。

さらにこの地点には中世には石山本願寺(16世紀)が、中世末には大坂城(1583~1598年:織豊期)、そして近世の大坂城(1620~1629年:現在の大阪城)[6]と連綿と営みが続けられている。

かかる砂嘴の北端は、その地形をみても古墳を築造するには絶好のロケーションであり古墳時代に古墳がこの地点に築かれなかったことのほうが不自然に思える。その後には難波屯倉、難波長柄豊碕宮、難波宮、難波津、石山本願寺、大坂城等が営まれてきた。この地が交通や交易の要衝であり、地勢的にも地政学的に見ても、ここを押さえておかなければならない地であったことを疑う余地はない。

この上町台地北端から南へ下ると生國魂神社(初出は645年か?[7])が鎮座している。生國魂神社から南へ約800mの地点には聖徳太子が設けた「施薬院」を継いだとされている勝鬘院(愛染堂:施薬院創建は593年か?[8])があり、この勝鬘院から南東500mの地点には我が国最初の本格的な伽藍である四天王寺がある。勝鬘院はかつて四天王寺の子院(塔頭)だったとも言われている。

この四天王寺は、官寺ではなく上宮王家の氏寺である[9]。飛鳥期の我が国にはまだ官寺は存在しない。この寺を建てるにあたっても古墳が壊されたという伝承がある。この寺の創建については『日本書紀』に、

秋九月  改葬橘豐日天皇於河内磯長陵  是歳  始造四天王寺於難波荒陵

と記されている[10]。四天王寺は我が国で最初に創建された本格的な大伽藍であり、この寺の創建時の瓦は同じく上宮王家の氏寺である法隆寺若草伽藍の創建時の瓦と同笵であることが確かめられている。

この四天王寺創建時および法隆寺若草伽藍創建時に用いられた瓦(素弁蓮華文軒丸瓦/忍冬唐草文軒平瓦等)の供給元は遥か25kmも淀川を遡った山背・河内国境の男山丘陵南部から樟葉にかけて築かれた樟葉・平野山瓦窯から供給されていたことも判明している[11]。

通常、古代寺院に用いる瓦はその寺院の近隣で焼成された例が多いが、四天王寺の場合には約25kmも離れている。これは男山丘陵南部の地が瓦を焼くのに適した土を産出したことに加え淀川の水運も有利に働いたのであろうと思われる。

またこの瓦は軒丸も軒平も百済様式の瓦であり、この地に百済の技術者集団が集められていたことを物語っている。男山丘陵南部と百済系氏族と上宮王家との結びつきが興味深い。ちなみに蘇我氏の氏寺である飛鳥寺創建時の瓦も百済様式ではあるが、樟葉・平野山瓦窯で焼成された瓦とは産地が異なるようである。

翻って、この四天王寺から南西へ500mほどの地点には茶臼山古墳(5世紀頃)がある。現在も「天王寺公園」の北東部に存在している。この茶臼山古墳から南へ1.7kmの地点には丸山古墳(年代不明)が大正期まではあった。現在はその事を示す記念の石碑だけが残っている。この丸山古墳から南西へ300mの地点には(ここまで南西に進むと上町台地の西側斜面になってしまうのだが)聖天山(北天狗塚)古墳(6世紀頃)がある。

この聖天山古墳から南へ1.8kmほど進むと帝塚山古墳(4世紀末~5世紀頃)がある。現在は1つの古墳しか残っていないが明治以前には「大帝塚山」「小帝塚山」という2基の古墳が存在していた。現在残っているのは「小帝塚山」である。この帝塚山古墳の地は大伴氏の本貫地と考えられ、帝塚山古墳は大伴氏に関連する墓という考えもある。

この帝塚山古墳から約1km南へ下ると住吉大社である。この「住吉」はかつては「すみえ」「すみのえ」と呼ばれていた。現在でもその名残か、住吉大社の南側には「墨江(すみえ)」という地名(町名)が残っている。


まとめと課題
この住吉大社が鎮座する住吉の地は古くは「住吉江(すみえ/すみのえ)」と呼ばれていた。これはその名の通り「江」である。この「住吉江」は後に整備されて「住吉津」となった。

「江」や「津」は水運の要衝のことであり、船に荷物を積んだり降ろしたりする場所のことである。難波津も上述の通り仁徳天皇の時代には「難波堀江」と呼ばれていた「堀江」すなわち開削した船着き場が後に大規模に整備されて「難波津」となったものである。「草香江」も然り。古代の大阪の街の歴史は上町台地北端の難波津から南端の住吉津までを中心に(すなわち水運とともに)発展したと言っても過言ではないのかも知れない。

これまで述べてきたように、上町台地上には古墳時代以降、古墳や宮・寺・城等が営々と築かれてきた。このようないわば「権力を象徴」するような大規模な建造物を築造するには上町台地は非常に安定した土地であり地政学的にも非常に好ましい環境であったであろうと思われる。現在でも(けっして権力の象徴ではないが)、日本一の高さ(高さ300m)を誇る超高層ビル「あべのハルカス」がこの上町台地上に建っている。

ひとつ気になることがある。聖天山古墳の立地である。上町台地の崖線からはかなり西に下った斜面に立地している。標高は現状の墳頂で15mほどを保っているが、この場所だと築造時には大阪湾の波打際ぎりぎりであったのではないだろうか。

北から南へと概観すると難波屯倉、難波長柄豊碕宮、難波宮、石山本願寺、二期にわたる大坂城(織豊期/徳川期)、生國魂神社、勝鬘院、四天王寺、茶臼山古墳、丸山古墳、帝塚山古墳と、みなほぼ上町台地のいちばん標高が高いところに立地している。

ではなぜ聖天山古墳は西へずれているのか。なぜ斜面なのか。なぜいちばん高いところ(すなわち大阪湾からみていちばん目立つところ)に古墳を築かなかったのか、あるいは築けなかったのか。そこには何らかの事情があったのかも知れない[12]。

(令和五年春二月朔日 九條正博 記/令和五年秋九月廿七日 改訂)

【註】
[1]趙哲済ほか「上町台地とその周辺低地における地形と古地理変遷の概要」『大阪上町台地の総合的研究 ‐東アジア史における都市の誕生・成長・再生の一類型』日本学術振興会科学研究費助成事業 2014年
[2] 『日本書紀』仁徳天皇十一年十月条
[3] [2]に同じ
[4]栄原永遠男「難波屯倉と古代王権 難波長柄豊碕宮の前夜」『大阪歴史博物館研究紀要』2017年
[5]『日本書紀』安閑天皇元年閏十二月四日条
[6]中世・近世は「大坂城」。近代以降は「大阪城」と表記される(「サカ」の字が異なる)。
[7]『日本書紀』孝德天皇条冒頭
[8]『日本書紀』推古天皇元年春正月条
[9]「今若使我勝敵、必當奉爲護世四王起立寺塔」(『日本書紀』崇峻天皇二年秋七月条)
[10]『日本書紀』推古天皇元年秋九月条
[11]『平野山瓦窯跡発掘調査概報』八幡市教育委員会 1985年
[12]古墳群を構成するうちの1つであった可能性はあると思う。

※見出し画像は四天王寺(フリー素材 photo AC さんより)


©2022-2023 九條正博(Masahiro Kujoh)
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