こりゃあかんわ
近頃SNSで弥助のことが盛んに話題となっている。
弥助とは、16世紀後半イエスズ会宣教師ヴァリニャーノが帯同して来日したアフリカ出身者で、織田信長に仕えることになった人物である(わざと曖昧な表現にしています)。
弥助の織田家中での身分をはじめとして、X(旧Twitter)上などで著名な歴史家を巻き込んだ騒がしい論争が発生した。X上の論争恒例のとおり、不毛な罵倒や誹謗中傷合戦に陥りかけている。
弥助に関する文献資料は数少なく、『信長公記』と宣教師によるイエスズ会への報告書程度しか現存していないことが、不毛な歴史論争の遠因の一つであろう。
わたしは、この論争に戦国史家に立ち交じって意見を述べることはできない。なぜなら明らかに能力不足からである。例えば、『信長公記』の一写本の信憑性の適否について言及できる知識や技量もなく、そもそもこの方面の専門教育も受けていない。従って、ここでは史実上の弥助については言及しない。
弥助の存在についてはずっと前から歴史書から知っていて、歴史の片隅の毛色が変わった一挿話程度にしか気にしていなかった。だが、このSNS上での騒ぎを発端に、ある小説を思い出した。この小説がこの駄文の主題である。
その小説とは遠藤周作のユーモア小説である。題名は忘れた。調べるつもりもない。書棚を探すつもりもない(多分保存していないから)。
この小説の主人公が弥助だった。高校生時代に古本かなにかで偶然に眼に触れたのだが、その印象が余りにも強烈だったのでかすかに覚えているだけのことである。
この小説の内容があまりにも馬鹿げていて、そのうえ遠藤周作の『狐狸庵閑話』シリーズで作者本人もたびたび言及した、原稿枚数かせぎ、マス埋めが明らかだった。
確か本能寺の変を生き延びた弥助は、大”坂”方面へ走るのだが、彼は屁をこいて加速する。そう、放屁はブースターなのだ。この放屁の擬音が文庫版三行ばかり繰り返されていたと記憶している。彼の走りもアフリカ出身のマラソン選手に擬したもののように思えた。「こりゃあかんわ」となる。読了したという記憶は曖昧である。
この雑文で書きたかったのは、上三段落分だけである。
遠藤周作の作品をこき下ろしているように見えるので補足すると、後年『沈黙』を読んで非常な衝撃をうけたことを告白しておく。信じた神への絶望、そして神の慈しみ(愛)。日本の宗教小説では無比の存在ではなかろうか。
その約十年後に再読した際には、『沈黙』はカソリックの正統教義からすれば異端ではないか、ほかの宗教のように日本に土着して少し変容したのではないか、と感じるようになったことも併せて述べておく。
なお、遠藤周作の弥助を主人公とした小説について、詳細をご存じの方がいらっしゃいましたら、何かご教示ください。