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#4 「学びと自治」を聞く〜木下巨一さん〜

個人の成長や成功の手段とされるようになってしまった“学び“。しかし、やや古めかしく堅苦しくも感じられる “ 自治 ” という言葉を通してまなざすと、“学び“には、社会を支える「公共性」と、自ら意味と価値をつくる「個人の自律性」という、2つの新たな価値・役割があることが見えてきます。
Learn by Creation NAGANOの運営を担う実行委員のメンバーは、共に長野県を拠点としながらも、図書館や公民館運営に携わってきた方、インターナショナルスクールの経営者、書籍流通の民間事業者など、各々が異なる領域で活動しています。それぞれの語りから、日常に根ざした「学びと自治」を聞き取り、感じ取るインタヴューシリーズをはじめます。みなさんにとっての「学びと自治」に思いを巡らせるきっかけになりますように。
今回の記事は、ほぼインタヴュー当日に語られたママの人生史の体裁にしました。語り手の木下巨一(のりかず)さんは親しい間柄では「きょいちさん」と呼ばれているので、インタヴューの時にも普段通りに呼んでいます。今回はお互いの語りをできるだけそのままにお伝えするのが一番おもしろいいと判断し、結果的に文字数は16000字を超えてしまいましたが、40年近く社会教育に取り組んできた人生史をぜひじっくりと味わっていただければと思います。

第4回目にインタヴューした人:

木下巨一(のりかず)さんLearn by Creation NAGANO実行委員長。現在、松本大学総合経営学部環境ホスピタリティ学科の非常勤講師として社会教育士の養成に関わるほか、 長野県長寿社会開発センター本部が主催するシニア大学専門コース ライフデザインコースを専任講師として担当。また、長野県最南端になる根羽村で、学びの村づくりサポーターを務めている。現在は郷里の飯田市を拠点に、各地の現場で出会う人たちと活動している。


1. 現在の活動

社会教育の教育者として

ーー今は、長寿社会開発センター本部が主催するシニア大学の専門コースを担当されているとのことですよね。これは非常勤講師ですか?

専任講師と言われてるかな。月に5回丸々1日、私より年上の方たちの人生設計に関わるという。受講者には80歳の人もいます。

ーーどういう形でやっているのか以前から興味があって、見学してみたいなって思ってたんです。

見学できますよ。

ーースタッフとして手伝う感じでいいのでお邪魔させてください。授業での人生設計はどういう感じで進めているんですか?

参加者同士が対話をし続けるというスタイルで進めています。月に1回、まるまる一日。

要は、自分のことを話したり相手のことを聞いたりしながら、相手の話を自分の人生と重ねて、共通していたり、ここはすごいなって思うことを発見して、自分のこれからの人生の送り方に結びつける講座なんですよ。だから基本は少ない人数でやっています。

シニア大学には、ライフデザインコースの他に、コミュニティデザインコースとビジネスデザインコースっていうのがあって、この2つはアントレプレナー向けなんだよね。ライフデザインはちょっとその手前くらいで、自分がこれからどういうことをしていこうかなということをね、模索している人たちのコミュニティで。

授業は「等話」(とうわ)っていう手法でやっています。宮城県の尚絅(しょうけい)学院大学の松田道雄さんっていう社会教育の先生が、「等しい話」と書いて「等話」って言葉を創作して取り組んでいるんです。要は授業で教師はほぼ喋らずに、学生同士がチームになってずっとお喋りをするのを授業の柱にしているんです。そのやり方を、長野県長寿社会開発センターが全面的に採用していて、特にライフデザインコースではまさにそれだけやるという。

あと、(授業では)等話の前に「人生の道路マップづくり」っていう手法も使っています。長野県長寿社会開発センターの理事長でフリージャーナリストの内山二郎さんっていう方が作った手法で、自分でね、自分の人生を道路地図のように1枚の紙に書いてみる。それをもとに、自分で自己紹介をするんだけど、ライフデザインではその人生道路地図をもとに、等話でお互いの人生について聞きあうのが、基本のやり方です。

そんなにお喋りする講座やったことがないっていうぐらいに徹底的にやってます。実はこれって私の専門である社会教育っていう教育分野の、基本的な方法なんですよ。相手との対話とか誰かと会話っていうのが基本的な方法なんで、それを自分なりに、今までの積み重ねでどう使えるかなって(実践してみているところ)。

ーー長寿社会開発センターのライフデザインコース担当になったきっかけは?

長野県長寿会開発センターが、ただ者でない集団だなっていうことを感じて。いわゆるファシリテート力、コーディネート力のある人たちの塊の組織なんですよ。センターを飛び込みで訪ねた時に初対面なのに意気投合した方がいて、話をしていくうちに「シニア大学専門コースを作ろうとしてるんだけど、手伝ってくれないか」っていう相談があった。で、「私で良ければ」ってお返事したっていう経緯。

ーー社会教育のど真ん中というか。松本大学でも非常勤講師として授業を持たれていますよね。

松本大学はね、社会教育主事って資格があるんですよ。図書館の司書とか、博物館の学芸員と同じような。松本大学が4年前からその課程を作ったんです。

課程を作るときに、文科省に申請をするときから、相談を受けて、ちょっと手伝ってほしいと。で、プログラム作りも含めてやってた縁です。

ーー根羽村のアドバイザーになったのは、村長に声をかけられたんでしたっけ。

これはあの、「学びと自治」の根っこをつくった船木成記(しげのり)さんが先に根羽村に関わっていて。それでちょっと助っ人を頼まれたんです。

根羽村って人口が840人で、職員の方が25人しかいない本当に小さな村なんですけど、その職員のチーム力形成など組織支援を4年前からやってます。村の中で社会教育がもっと盛んになっていくことが大事だよなっていう課題意識があって、そこをちょっと手伝ってくれよっていうことで、今年(2023年)から私が入り始めたっていう。

ーー確かLearn by Creation NAGANOの実行委員に最初に入られたのって、県庁さんからの声がけでしたよね。

そうですね。元々(県庁職員の)赤池くんと一緒に現場へ入って話していたりとかしてたので、なりゆきで。はい。

2. 現在の活動へ至る経緯

大学時代で培われた社会問題への意識

ーー20代のときのその自治体の職員になろうと思ったきっかけやその前の大学の頃の話を聞かせてください。大学は?

立命館です。

ーー立命館に行かれて、関西にいらしたんですよね。

そうですよ。4年間関西にいました。

ーー生まれも飯田でしたっけ。

生まれも育ちも飯田市で、浪人の1年と大学のときだけ県外にいて。

ーーここで卒業してすぐに飯田市に就職されたんですか?

そうなんです。そのまんま飯田市役所の職員になりました。

ーー就職のきっかけとかって?

ここはね本当にしょうもないんですが、元々はね私ジャーナリストになりたかったんですよ。そのための勉強をしたり、試験を受けたりしたんですがちょっとうまくいかなくて。

新聞社とか受けて、駄目でね。別の民間の会社には決まっていたんですけど、当時祖母が、願書を勝手に市役所に願書を送ってしまい、仕方なく受けたら受かっちゃった。だから大した理由はないんですけど。

その前の話になるけど、大学時代にずいぶん人生観が変わってるんですよ。ちょうど大学に入るときに父親が事業に失敗して、入学した時点から、親が援助してくれない状況になってしまって、奨学金とアルバイトだけで4年間の授業料と生活費の全部を賄わざるを得なくなった。そこで結構鍛えられて。アルバイトと勉強しかしてなかったですね、学生時代は。

勉強では、立命館大学は当時は結構硬派で、マルクス経済学の牙城のような大学だったんで、私はそこに結構影響を受けて、卒論は『資本論』に挑戦したりとかね。そういう学生時代を送っていたので、割と社会問題に関心があって、今もそうなんですけど。で、結果として自治体に入って、特に社会教育の仕事に就いたことで、大学時代の自分の問いに何かつながる仕事をずっとやれてきたなと、そういう形になってる。

――当時関心を持ってた社会問題って、例えばどういうものですか?

卒論で、森永ヒ素ミルク中毒事件を取り上げました。ちょうど私が学生だったちょっと前ぐらいに、森永乳業の工場で粉ミルクの製造の過程でヒ素化合物が混入しちゃって、それを飲んだ赤ちゃんに中毒症状が現れた。実は私の知人もその被害者なんですけども、どうしてこんなことが起きちゃったのかなっていうことを考えていくうちに、マルクスの資本論に行き着いたんですよね。マルクスの「絶対的窮乏化説」っていうのがあるんですけど、要は労働者が一生懸命働けば働くほど競争が激化して、労働者の賃金はどんどん抑制されていくっていう説。

卒論では、資本家の資本はどんどん膨れ上がっていくっていう社会の構造になり、その過程で、生産性を優先した社会構造によって安全性が破壊されていく。その結果として、森永ヒ素ミルク中毒事件のようなことが起こらざるを得ないという社会の構造があるっていうようなことを私は書いた。在学中はそんなことを結構勉強してました。

ーーなるほど。社会問題のなかでも、特に労働者と資本家の関係だったりとか、富の再分配の仕組みとか、つまり格差や不平等について関心があったっていうことですね。

それとね、ロシアのレーニンが書いた書籍をずいぶん読んでて、特に『国家と革命』っていう本が一番ショックだったんですけど、あそこに書いてある一節が未だに忘れられなくて。「国家っていうのは、支配をする側がされる側を抑圧するための暴力装置だ」というようなことが書いてあるのね。そんな国家観なんてもう、それまで聞いたこともなかったので衝撃を受けました。今でも、こういう何か社会観みたいな考え方って、あながち間違っていないかっていうように思っています。だから割とね、そういう社会の見方みたいなものを大学生の頃に学んだっていう感じですね。

飯田市の職員時代

ーー社会教育とどこで出会ったのかなとは思ってたんですけど、なるほど。この後、今につながる社会教育の話に移っていきたいと思いますが、20代はずっと飯田市の職員として働いていたんですか?

20代はね、税の仕事をずっとやってたんですよ。税金をいただいた後の収入管理のプロセスを、手作業からどんどんコンピューター化していくのを7年間ぐらい担当してたんですよ。なので、結構今の税の管理の仕方の元を作ってる。でもなんか今ひとつおもしろくないなっていうのがあって。だから、あんまり仕事にのめり込まずに労働組合活動をしていました。学生時代の延長のような感じでね。

自治体の職員といろんな学習会(に参加したり)とかやってたんですけど、やっぱりどうも、役所の職員だけの内向きな活動っておもしろくないなっていうのがあって。29歳だったときに総務部長のところに1人で乗り込んで、やりがいのある場所に移動させてほしいって直談判。そうしたら、その総務部長が「こいつはおもしろい」と思ってくれたらしくて。そういうちょっと骨のある人間は公民館主事になるのが良いだろうってのは飯田にはあって。すぐ後に公民館主事に異動になりました。

私は公民館主事がどんなことかも全然知らなかったので、模索していくうちに、社会教育っていう仕事はおもしろいなっていうふうにだんだん染まっていったっていう感じですね。

女性の社会的役割の問題に出会う

ーーで、30代が始まるわけですね。

公民館は、飯田市では、昔の町や村単位に支所を設置していて、要は小さな地域で自治を育てていこうっていう仕組みなんですよ。当時は地域にいろんな団体があって、例えば、老人クラブとか、婦人会とか、若妻会とか。公民館主事として、老人クラブと一緒に高齢者学級を組み立てるとか、地域の人たちと一緒に授業を作るっていうのが、飯田公民館のスタイルでした。

若妻会は、40歳未満の地域の既婚女性が入る会です。元々の目的は保健師が組織して、ライフスタイルなども考慮して妊娠や出産のタイミングを自分で決めるための意思決定や手段を学ぶ組織として生まれたんですけども、私が公民館主事になった頃に、若妻会の役員のなり手がいなくなっちゃって、なぜか私が相談相手になったんですよね。3年くらい役員の人たちと一緒にこの会をどうしようと悩んで話をしてる中で、私が「会の維持だけが目的の組織っていうのはやっぱりもうなくなってもしょうがないじゃないの」って(言って)。要は自分たちがやめると決めると責任があるから、私のような部外者が言った方が、肩の荷が降りるだろうと思って言っちゃったんですよ。実際にそれで解散したんですけど、私も何か責任を感じていました。

その後、東京で社会教育主事になる研修を受けていたときに、国立婦人教育会館(今の女性教育会館)でジェンダーという言葉に触れたことで、女性が仲間を作る必要がある理由を(改めて)考えてみた。それがきっかけで、若妻会が解散した翌年に若妻会の役員のOBの人たちと女性学講座をはじめたんです。結婚して、退職して、出産して子育てをして、仕事に戻ろうとしたときには、結婚前のキャリアが生かせない仕事に就かざるを得ないっていう、M字型の雇用の問題を、1990年頃に扱いました。当時は介護保険制度ができる10年以上前で、介護は一家のお嫁さんの役割だとされていて、子育ては母親の責任だとか、やっぱり女性の雇用には(背後に)こういう問題があるんだってことを、みんなで話をする会をやったんです。

1度、男性4人によるパネルディスカッションをやりましたね。女性50人くらいの前で。日頃の家庭での夫婦関係についてっていうのを、男性たちに語ってもらうっていう。そのときに農業で共働きしている男性が、「うちの母ちゃんは引っ込み思案だからこういう女性学講座に出てくる性格ではない」って言ったのね。そうしたらフロアから手が挙がってね「そんなことはないから、うちへ帰って聞いてみると良い」って(聴衆の女性から)言われたんですよ。その男性は、真面目な人なんで、(奥さんに)本当に聞いたんですよ。そしたらお連れ合いに、「一緒に農業で働いて、30分前に仕事を切り上げてうちへ帰って、ご飯の支度をして、子供に食事をさせてお風呂に行って、それで終わったらもう8時と、私がどうやって外に出て行けるの。私は本当は出て行きたいのよ」って言われて、すごいショックだったっていう話を後で聞いてね。

このときにね、やっぱり自分が男性の目線で物を見ていることで見落としていることがあるんだなっていうのを、このジェンダー学習の中で一緒に学習をしていた女性の方たちから、しっかり教え込まれたっていう。

そんなことをやったがために、実は当時、男女共同参画の計画とか、どの自治体でもよく作るんですけど、飯田市も初めてその女性行動計画を作るっていうことになって。そこでまた参加したメンバーの人といろんなことを話をしながら、女性の抱えている雇用の問題を脱却する方法として、女性の起業家育成という選択肢があるんじゃないかと思って、女性起業家講座ってものをやったんですよ。1994年だと思うんだけど。女性農業者の起業とか、あと農業課とかと共同で。そうしたら、25人定員で50人集まっちゃって。こんなニーズあったんだと。

あと、まだ(特定非営利活動制度による)NPOが始まる前だったけど、NPOのような団体で働くのも女性が進出する新しい分野かなと思ってNPOの人に(話を)聞いたりとか。本当に女性が活躍できる場ってどこだっていうことを考えたり、10年くらいそんなことばっかり(やっていました)。

外国籍の住民たちと言葉の壁の問題に出会う

ーー飯田市には在日外国籍の住民もいらしたんですか?

結構いるんですよ。一番多いときで10万人の人口のうち3000人が外国人住民。飯田は、中国籍、母語が中国語の人たちが、大勢住んでいることなんですよ。それは満蒙開拓に日本の中で一番人を送り出した地域がこの飯田周辺の地域で。田中角栄さんが1970年代に日中国交回復をしたのがきっかけで、残留孤児とか残留婦人って言って、終戦のときに中国に取り残されてきた女性や子供たちがようやく日本の地を踏めるっていうことになって、中国で結婚した人たちばかりなんで、お連れ合いとか子どもを連れて、日本に帰ってくるっていうことがすごくたくさんあって。飯田にすごく大勢の、1000人くらいの中国からの帰国者が住んでいたことがある。

私、実はこの満蒙開拓の学習を担当してたんですよ。満蒙開拓の学習をずっとしていくうちに、女性学講座と女性をテーマにした講座ともう一個別で、平和をテーマにした講座をやっていて、飯田市公民館に異動した1995年は、戦後50年の年だった。日本中でいろんな、平和をテーマにしたイベントが行われていたんですけど、私は歴史の学習だけで終わらせるのは違うんじゃないかなと思って、現代的な平和、つまり、今、日本で飯田で暮らしている外国籍住民の人たちは本当に平和的に暮らせているのかなっていうことをテーマにしたんですよ。

それで、中国からの帰国者の相談相手になっているある女性に、実際のその帰国者の方と話をしてみたいんで誰かを紹介してくれって頼んだんですよ。それでね、紹介された方のところに行って「何か困ったことありますか」っていきなり聞いた私もあれなんですけれども、相手の方はね、ないって。(でも)泣いているんですよ。

それはどうも私には言えない、言わないっていうことなんだけど、当たり前の話なんですよね。見ず知らずの人間に自分の悩みを打ち明けられるわけがない。そこで気がついたのは、やっぱり外国籍の住民の方の悩みを自分が聞くんじゃなくって、お互いに信頼している友人に悩みを話せる状況をまず作らないとって。

外国籍住民の方たちにとっての壁は、言葉の問題だったんですよ。特に中国の方の場合は、親子関係に言葉の問題が多くある。子供は学校に行くことで日本語の読み書きができるようになるけども、親は読み書きができないままで、学校からの通知を、子供が内容を親に教えてあげることもある。親が子供に教えるんじゃなくて子が親に教えるっていう親子の関係逆転が生まれたり。あと授業参観日などに、親に来られると恥ずかしい。子どもが負い目を感じたりしている。言葉の問題で、家庭の中がずいぶん大変になってる事情とかいろんなことがわかるようになったけれども、ただ日本語教室を作ればいいというわけでもないということで、「わいわいサロン」というものを主催したんですよ。国籍が違ってもお互いが友人関係になることができるような場をつくろうと。それで、その中の一つの柱を日本語学習にするっていうそういう講座を1997年に(開いた)。

今も続いてるんですけども、ジェンダーのこととこの外国籍の住民の方とのやり取りの中で、やっぱり社会の真ん中にいられない人たち、マイノリティと言われる人たちの目線から物事を考える必要があるなっていうのをすごく実感していったっていうのが、30代です。

社会教育の意識を持って、環境課へ

ーーこのときには、社会教育っていう言葉に結構、巨一さんなりの実感をもうつかんでいる頃ですよね。

1990年に、社会教育主事で資格を取ってるんで。私の30代は、社会教育で、自分自身が仕事をしながら実感していくっていうのがメイン。

ーー40代になって飯田市の環境課に行ったのはそれまでとだいぶ変わったのではないですか。

飯田市の職員がずっと同じ職場にいるのはレアなケースで、私も元々とんがっていたので、案の定左遷されたりとかあって、その後に行った職場が環境課です。

この頃は地球温暖化が問題とされはじめた、2005年くらいだったかな。リオデジャネイロで行われた地球サミット(国連環境開発会議)が1992年だったと思うんですけど、それ以降に地球温暖化問題への意識がずいぶん広がって。飯田の中核的な会社30社くらいで地域ぐるみ環境ISO研究会を作って。(私は)その事務局を3年間やったんですけど、一番力を入れたのは「ぐるみ通信」っていうメルマガの発行。前任者から引き継いで。多分、今でも残ってると思うんですが、ノルマもなかったんですけど、A4用紙1枚で毎週発行していました。

このときは農業高校やそこの教員と連携してみましょうとか、この会社がおもしろい温室効果ガス削減の活動をしてますよとか、こういうようなネタで。高校生たちが環境問題について勉強してることを、企業の人たちに報告する会もやってみるとか、地元のことだけじゃなくってグローバルな話も取り扱って、グローバルな視点を身につけることができるような(活動をした)40代です。

ーー事前に巨一さんからいただいた資料に「『相手に責任を求めて、相手を変える運動』ではなく『相手も自分も変わる活動が大切』という視点が大切ということに改めていきつく」とありますが、これにまつわることが何かあったんですか?

当時「市民運動から市民活動へ」っていう言い方がされたんですよ。例えば水俣病が市民運動の生まれた転機のひとつだと思っているんですけれども。熊本の水俣市にあるチッソっていう会社が、工場廃液に有機水銀を垂れ流したために、それが蓄積した魚介類を食べた人たちが、水銀中毒になったと。誰が悪いかっていったら、チッソが悪いんですよね。だから被害を受けた地元の住民達が、チッソに対して戦っていくっていう、要は相手を変えるっていうのが市民運動なんです。

一方、地球温暖化とかの地球環境問題は、自分自身もその原因を作ってる当事者の1人。相手を変えるだけではなくて自分自身も変わっていくっていうのが市民活動。

運動と活動の違いを分けるとしたら相手を変えるのではなくて自分も変わるってその違い。ここは結構ですね、私の中では割と腑に落ちた。これが社会教育という考え方に結構通じるなと。基本はでも30代のときの社会教育でやったことが今に至るまで全くぶれてないんで。

ーーそうした環境の持続可能性についての話って当時から出てたと思うんですけど、次世代のその地域の子供たちも結構巨一さんとしては重視するようになったってことですよね。

割と前半期は、あのマイノリティ、マージナルってキーワードで、ずっとやってきたんですけれども、後半期はそこは踏まえながらも、次世代、つまりバトンをわたす相手がどう育ってくれるかなっていうところに、焦点が変わってきました。

次世代の育成

ーーそれで、50代になってもう1回公民館に。

そうですね。(飯田市役所の環境課から)公民館に戻って、全体総括の仕事をするんです。飯田の場合は、公民館が小学校区ごとに配置されているので、日常的に小学校と何かやるのがすごく容易なんです。それと小中学校は基本的に飯田市立なんで、同じ飯田市立の公民館と連携するっていうのは、比較的ハードルが低いんです。

でも、高校は県立でなかなか関わりがなかったり、あと高校生って地域エリアの高校に行ってるわけじゃないんで、そういう意味で高校生は地域感っていうのがすごく薄れていく世代なので、この世界にもうちょっとつながるような授業ができないかなっていうのが、私の問題意識だったんです。それで企画したのがカンボジアスタディツアーっていうのを今から10年前に……2014年か、それくらいに。

環境課時代に私が関わっていた農業高校とか職業科の高校と一緒にやるのが(他の高校よりは)比較的容易なんですよ。けれども、普通高校って全然関わる余地がないんですよ。どうすればいいかなって思っていたときに、たまたま飯田市の企画課が、当時やっていた若い世代の海外研修をうまくいかないからやめるって言ったんですね。それを「じゃあうちでやるから」とその予算を(そのまま)もらって。

当時の飯田市の教育長は元々農業高校の校長先生で、内戦が続いてすごく疲弊したカンボジアに教育環境を復興させたり、カンボジアの孤児院の運営をサポートするNGOの取り組みに関わっていたんですよ。その教育長にスタディツアーの相談をして、高校生をカンボジアに連れて行く授業を組み立て、やってみた。

スタディーツアーの本当の狙いはただカンボジアへ連れて行くことじゃなくって、自分の生まれ育ったところ以外に行って自分の地元のことを振り返ってみるっていうことでした。ツアー自体は1週間なんですけど、行く前に6ヶ月の研修などをやっているんですよ。

毎年15人くらい生徒が公募で集まるんですけれども、5人ずつの3チームになって、1チームに1人ずつ公民館主事がついて、6ヶ月かけて地元の飯田のことを何かテーマを絞って調べる。そうして飯田ってどんなところかっていう自分なりの尺度を作っておいて、カンボジアに行ってみて「同じじゃん」とか「全然違うじゃん」っていうのを実際に体験して、今度は帰国してからさらに3ヶ月かけて振り返りをするんですよ。その後で、最後に公開の報告会をして講座が終わるっていう事業をやっていたんです。そういうのやったら、普通科の生徒がかなり集まってくれて。ただ、予想外だったのは15人集まると、毎年うち13人か14人は女の子だった。だから女の子と男の子とで、人生設計がやっぱり違うんだなってわかった。

それでね、高校生たちの最後の発表会で印象に残ったことが2つあって、それは「自立」と「豊かさ」。

高校生たちが行ったカンボジアの孤児院では、年上の子どもたちが、年下の子たちを本当に大事に育てていて、縦の関係がうまくできている。そこで、やっぱり1人で生きていけるようになるより前に、他の人との関わりの中で生きていくことが、自立の前提だって気づいたっていう報告だった。

もう一つの「豊かさ」についてはね、これもすごいんですけど、カンボジアに行く前はね、カンボジアは貧しくて日本は豊かな国だと思っていたと。で、行ってみたらカンボジア人たちがとってもフレンドリーで、自分たちを本当に大事にしてくれたんで、そこで次はね、心はカンボジアの方が豊かで、日本の方がやっぱり豊かじゃないって、(高校生たちは)考えたんです。

けど、カンボジアの孤児院に行ったときに、そこにいる子が「お父さんのお酒代のために上の2人の兄弟は売られてしまって、親戚の人が売られたらかわいそうだからって自分を孤児院にやってくれたもんで、ここにいるんです」って話すのを聞いて、高校生は愕然として。いや、カンボジアの人たちの心が豊かだって全然違うじゃないかって問い直した結果、豊かさってのは、経済的な豊かさと心の豊かさと、教育とか環境の豊かさがあって、それらのバランスがとれていることが大事なんだっていう答えを出した。

バランスのとれた状態がどういう状態かっていうのは、自分たちの今までの経験だけだとわかんないと。自分たちがこれからやらなければならないのは、もっと社会のことを知ることだっていう(ことを)結論にしていたんですよ。

3. 「大人の学びと子ども・次世代の育ちをつなげる」

高校生たちが、そういう学びを得られたのが、カンボジアスタディツアーを起こしたことの一つの成功ですね。

そういう場がなかなか日常にないと感じるとともに、そういう場をつくるお手伝いができたのがすごく良かった。高校生たちがこういうことに気付く前提としてあるのが、飯田とカンボジアでいろんな大人たちに出会っていることです。高校生が「この人たちの生き方がかっこいいな」って思える人たちにたくさん出会って、「じゃあ自分は?」と振り返ってこういう結論を出すことができたのだと考えると、大人の振る舞いをもっともっと磨いていかないといけないなと改めて感じました。

それとこの子たちから、「自立」と「豊かさ」について本当に大人の方が教えられたんで、やっぱり子どもたちに教えられる事もあるというところから、公民館のキャッチフレーズをみんなで考えてみようってつくったのが、「大人の学びと子ども・次世代の育ちをつなげる」。結構気に入っていて、今も使ってます。

ーー確かに繰り返し使われていますね。そこから60代のときに「学びと自治」が出てきたのは、とても自然な感じがします。「つながる」の部分が、後々に「自治」っていう言葉になっていったように思えます。政策や職員の行動に、自治が浸透したなとかって思った瞬間とかって何かありました?

なかなか難しい。ただ、生涯学習推進センター所長のときに、「地域づくりの支え手入門講座」をしてました。栄村とか南信濃とかの地域の人たちが自分たちの問題を自分たちで解決していくような活動が行われている現場にみんなで行って、そこの人たちの話や活動を聞くことで、学びとか自治を実体験していくっていう講座です。これには県職員が大勢参加してるんですよ。市や町や村の現場に行ってる地域振興局の職員の人たちは実感を持つことができるんだなと思いましたが、大半の人にはなかなか難しかったですね。私自身はすごく世界が広がりましたけど、肝心の相手になかなか伝わらなかったんです。

ただ、長野県長寿社会開発センターの、コーディネーターのみなさんの方はすごく共感してくれて。多世代とかごちゃ混ぜがとにかく大事なんだっていうことには、共感してもらえた。それで、長寿社会開発センターは、シニアのための組織ではないっていうことをみんなで共有しあったりね。長寿の人たちが大勢いる社会だけど、そこには多世代が、いろんな人たちが暮らしている社会だっていうのが当然で、その中でシニア世代がどう生きるかっていうのを考えていくことが長寿社会開発センターの中心にあると、みんなで実感したっていうことがあります。

多世代の「ごちゃ混ぜ」で学べること

ーー多世代やいろんな人たちが暮らしている社会の中で得る学びってどういうものなんでしょう?

例えば、今シニア大学のライフデザインコースで、先月は20代前半の若者の話を聞きました。受講者たちは「自分よりこんな経験の浅い人の話を聞くのか」みたいな先入観を持って臨んだけれども、最後はね、その若者が質問攻めになったほどで。

現在に至るまでの人生を聞くことで、例えば、「SNSでフェイクニュースみたいなものに翻弄される」という今どきの若者像を勝手に持っているシニア世代が、もっと1人の個として若者に向き合い、生まれた年代が違っても話を聞いていくことが大事だなっていうのを改めて感じたり、「確かに俺もあの頃結構尖ってたなぁ」と自分がその年代だった頃のことを思い出したり、自身のこれからを考えるときにも、あの頃に思っていたことをもう1回重ねて考えてみた方がいいぞとか、ちょっと多世代で交流してみるだけでもそんなことがあったり(します)。

逆に今の長寿社会開発センターの専門コースに参加しているシニアの人たちって、70代で新しい事業を起こそうなんていうね、若い人からしたら信じられないことをやろうとしている。今の20歳前後の大学生なんかは、自分に自信がなかったり、年を取ることに希望を持ってない子も割といる。そういう子がシニアの人たちの話を聞いて、50年後がなんか楽しそうだなって思って、自分の大学生活をもうちょっと楽しく送ってみようってこと周囲とコミュニケーションをもっと取るようになって変わったとかね。シニアも大学生も、意識とか行動が変わるっていうのが、こういう多世代交流で事実あるんですよ。

私が2、30代の頃に多文化共生とかジェンダーなんかやってたころも、男女のね、同じ物事を見ていても全然違って見てたんだとか、価値観の違いを実感したり。自分たちが当たり前と思っていたことが当たり前でない、と言われることがすごくあって。だから、同じような立場の人たちで話をしていると気づかないことにたくさん気付けるっていうのが、ダイバーシティの学びなんじゃないかなと思います。

でも、こういう話をシニア大学で話をしたら、「自分の嫁さんとは絶対こんな話はできん」って拒絶されたことがあったりして。なんていうか、ちょっと縁の遠い相手だったら話しやすいけれども、親子もそうだけどあんまり近い相手だと実はなかなかできない。

それと、やっぱりその両者が話をするときに上手に間を取り持っていく場をつくるファシリテーションできる人がいるかどうかでぜんぜん違うと思います。ここで喋ってもいいんだっていう安心感とか、あとで害を被らないっていう安全性とかをね、やっぱりちゃんと用意できてるんですよってお互いに信用できるような場でないと、こんな話はできないと思います。

ーー地域や社会でも、困りごとをちゃんと話し合える場を作っていかないと難しそうだと思います。

そう簡単にできるわけがないと言われそうだけどね。例えば、地域づくりの支え手入門講座で長野市の中条っていうところに行ったときのすごく印象に残ってることとしたら、山の中のさらにまた山の中の集落に住んでいる80代のじいちゃんばあちゃんに集まってもらって、日ごろの話をしてもらうっていうワークをやったときに、困っていることはありますかってある人が質問してね。1人のおじいちゃんが、不便なことはあるけれど困ったことはないって答えるっていうのがあってね。後で聞いてみたら、特に山の中で交通の便も悪いもんで、確かに不便なんだけれども、隣近所の友達が助けてくれるから、助け合ってる。不便だけど困ってはいないっていう。

そういう関係性が何でできたのかなって話を聞いていくと、その人たちが若い頃からその中条の地域には、困ったことがあると都度集まって話し合いをして、お互い解決し合おうっていうようなことをやってきた。そういう半世紀の歴史があるんですよ。

要は話し合いの学習をしていたってことで。やっぱりそこで学習をちゃんとしてきたから、お互いのことを知っているし、お互いが困っているときのその背景も理解できるし、どういうようにしたらどんなことが返ってくるかもわかるし、話し合うことで何か解決の道が見える体験もしているから、だから、困っていないっていうところに至っている。やっぱり、こういうことが大事なんだなっていうのは、その中条の話で感じたんですよ。

公民館の活動として表現した「学びと自治」

ーー改めての質問ですが、事前にいただいた資料の60代の冒頭にある「学びと自治と政策や職員の行動背景に埋め込む」で学びと自治っていう言葉が出てきた経緯って何かあります?

いや本当にとっさの一言。

公民館をテーマにした知事のタウンミーティングのコーディネーターをやることになって。そこで、プレイヤー、サポーターの公民館の職員、実際に活動している当人のセットで、事例の話をしてもらったんですけど、3人の話が三者三様すぎて。それぞれの話はとっても魅力的なんだけども、公民館っていうキーワードにどうしてもつながらなくって。

で、阿部知事が私に「公民館って一体何するところですか」って聞いてきて、とっさに答えたのが「自治の担い手と支え手が育つところかな」っていう言葉だったんです。これが知事の腑に落ちたようで、自治をキーワードにするのはおもしろいなって(知事が)思われた。それで公民館の活動も、自治の担い手ができていくプロセスには「学び」の背景があって、学びを通して自治をつくっていくというのが、後の県の総合計画になった。

自治の話で言うとね、例えば、自分の家庭の問題は家庭の中でうまく話し合って解決しましょうって言ったら家庭の自治って言えるかなとかね。あと、高校や大学では生徒会、自治会、学生自治会っていうのをイメージすると思うんだけども、生徒会で例えば制服を自由化するとか、そういうことを自分たちで決めるっていう活動は、結構、自分たちの周りにたくさんあるんですよ。

今だと「サービス」っていう言葉に置き換えられて。介護保険なんかは、親の介護は子の務めって言われた時代が、少子高齢人口減少でもうそんなことをやっている状況には全くなくなってきたから、制度として介護サービスができたとかね。こういう世の中の流れもあるけど、こうやってサービスとして外部化していくことはある意味自治だったと思うんですよ。それで、助け合う。

例えば、私は13人の家族の家に生まれたんですけど、薪で沸かしたお風呂に、3日に1回ぐらいしか入れなかった。でも隣のうちでよくお風呂に入っていたなっていう記憶もあって。こういうのって「もらい風呂」って言って、私より上の世代では結構あったらしいね。そのほかにシニアの方から聞いた話で印象に残ってるのは、農家でヤギを飼っているおうちがあって、ヤギの乳を毎日絞って乳を飲んでいるんだけども、自分のうちで飲みきれないときには、近所で体の弱い人のところへ持って行くのが普通にあったそうです。だから結構、人の家庭に日常的に入り込む関係があった。

結局、困り事を隣近所で解決できることはしていたっていう時代があって、それがだんだんできなくなったことで外部化していく。要は外部化することで合理化し、自分たちの役割、役目を楽にしていこうっていうことがあったりして、サービスって(いうかたちに)変わっていくっていうこともあって。その以前にはやっぱり自治があったんじゃないかなというようなものもある。そればっかりじゃないんだけどね。

だからそういうふうに、ある人の困りごとをみんなで解決するって自治を定義して考えてみると、ずいぶん身近にあるだろうし、かつてはもっとあっただろうっていう。

ーー巨一さんが大学生の頃にマルクスの絶対的窮乏化説に関心を持った話と、30代のときに取り組んだ社会と女性の問題や、在日外国籍の方々との話だったりとか、いわゆる社会的にマージナルな人たちに接したっていうのが、その後の「社会教育」に通じていると思いました。おそらく巨一さんにとっての社会教育は、そうした人たちはただ助けるべき、保護すべき対象なだけではなく、その人たちが自分たちでも何とかできるようにするっていう理念が背景にあるなと思いました。

そういう意識から出てきた巨一さんの「自治」にはエンパワーメントという意味が含まれているように思います。一般的な、自治体やガバナンスの意味とは少しニュアンスが違うように感じました。保護し、守るっていう仕組みも大事だけれど、その人たちの主体性であり、その人たちの生きる力を育むことも大事。そこを目指すのが社会教育であって、その場が公民館なんですね。それは、国に奉仕する人間を育てることともまた違うと思います。そうしたところが自治のエンパワーメントっていう側面がすごく、巨一さんの話の中では、強いんだなと思いました。

自治体の職員って何だろうってずっと考えてきて、先輩に「それは受け手だ」って言われて印象に残っています。自治体の職員は受け手で、市民が送り手。

だから実際の職員は自ら何かを起こしていく仕事ではないと。こういうことに悩んでいるっていう、地域の人たちの悩みを全て受け止める。どんなにしんどくても受け止めて、受け止め続けて、受け止めたその悩みをどうやって解決するかをずっと寄り添っていくっていうことだって教わったので、そこが私の発想の源になってるような気がします。

あとは、やっぱり世の中に本当に大きな矛盾があって。格差が拡大していくのは必然だったり、冨の分配が不平等であったりするっていう構造がある。矛盾している社会状況があるけど、その中でどうやったら、誰もが幸せに生きていけるのか、自分に何ができるだろうとずっと問うているってことは、20代の自分の原体験がつながってる可能性があるでしょうね。

あとね、Learn by Creation NAGANOの取り組みの中で自覚してきたのが、組織とか言葉とかって1回作ってしまうと、自分たちの意識や行動云々っていうことに逆にとらわれてしまうということがある。そういう状況から脱していくためには、自分の置かれた状況がこれで良いのかっていうのと、問いながら自分を更新していくっていうことを常にしていかないといけない。要はね自分を更新していくってことが学び。

学びによって自分や仲間や地域や社会を更新していくっていうことで自治っていうのは、やっぱ実現していくんじゃないかなっていうのは、一応、学びと自治について私の考えた答えです。

ーーありがとうございました。

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