見出し画像

【壮絶】本当に「美人は得」か?「美しさ」という土俵を意識せざるをい得ない少女・女性たちの現実:『自画像』(朝比奈あすか)

完全版はこちらからご覧いただけます


「美しい」という事実は、本人にとって本当に喜ばしいことなのだろうか?

「美人って大変だろうな」とずっと思ってきた

私は男で、特にイケメンということもなく、これまでモテてきたわけでもないので、「美しい人は大変だ」というのは私自身の実感ではありません。ただ、これまで関わってきた女性から話を聞く中で、「『美しい』というのは本当に良いことなんだろうか?」と疑問を持つようになっていきました。

だから私は、相手がキレイな人であっても、容姿を褒めたりしないように意識しています。「明らかに容姿を褒められたいと思っている」みたいに感じる人も中にはいますが、必ずしもすべてのキレイな人が「キレイ」という言葉を褒め言葉と受け取るとは限らないと思っているのです。

性別に限りませんが、やはり女性にとって「美しいかどうか」はとても大きな問題でしょう。そしてそれ以上に、取り上げるのが難しい問題だとも考えています。

男がこの問題を取り上げようとする場合、どうしても「男はどうせキレイな人が好きなんでしょ」という見られ方を拭えません。実際にそういう人が多いと思うし(私も決して否定はしません)、となれば男が何を言ったところで「キレイな人を擁護するorキレイな人を好きな自分を弁解する」ような意見としか受け取られないでしょう。

じゃあ、女性が取り上げればいいかと言えばそうでもありません。美しくない人がこの問題を取り上げようとすれば「妬みだ」という受け取られ方になってしまうでしょう。一方、美しい人がどれだけ「自分の人生は大変だ」という話をしても、「キレイなことによるプラスもあるんだからいいでしょ」という意見が出てしまいます。つまり、「贅沢な悩みだ」という受け取られ方です。

いずれにしても、本質的な議論がなかなか難しくなってしまう問題だと私は感じています。

また、本書のこんな文章からも、その難しさを感じ取ることができるでしょう。

わたしは少し違うことを感じています。
ミスコンを批判する人は、人間をよく知っているのです。
彼らは、美貌こそがあまりにも容易に、そして絶対的な力で、わたしたちを平伏させるということを、知っています。
警鐘を、鳴らし続けなければなりません。努力して勝ち得たものや、心のきれいさのほうが、ずっと重要なのだという価値観を、必死で植えつけていかなければ。それほどに美貌が圧倒的な権利であることを、彼らは知っていて、恐れているのではないでしょうか。

「自画像」(朝比奈あすか/双葉社)

つまり、「見た目の美しさ」を否定・批判するような人たちは、「見た目の美しさ」が持つ圧倒的な力を理解しているからこそ、それ以外のものの素晴らしさを必死に説いているというわけです。これもまた、納得できる話ではないかと思います。

このように美醜の問題というのは、提起した時点で特定の色が付きすぎてしまい、本質的な議論をすることが非常に難しくなってしまう、と私は感じています。そしてだからこそ、ステレオタイプ的な捉え方が根強くなり、美しい人を含めみんなが余計に苦しい状況に陥るという悪循環が生まれるのではないでしょうか。

本書はそんな「美醜の問題」を中核に据え、「美醜で物事を捉える社会」に刃を突きつけるという意味で非常にスリリングな物語です。

では、内容の紹介に入る前にまず、私がどういう点で「美しい人は大変だ」と感じているのかについて書こうと思います。

「美しさ」に寄り添った人生を本人が望んでいるのか否か

「美しさ」について考える時に、常に思い出してしまう小説があります。『少女七竈と七人の可愛そうな大人』(桜庭一樹/KADOKAWA)です。

主人公は、

わたし、川村七竈十七歳はたいへん遺憾ながら、美しく生まれてしまった。

『少女七竈と七人の可愛そうな大人』(桜庭一樹/KADOKAWA)

というように、「美しく生まれてきたこと」を「遺憾」と表現しています。これは謙遜ではありません。彼女の苦悩はこんな風に綴られます。

わたしには女の友人はまったくできなかった。旭川の郊外というこの古びた地方都市において、美しいということはけして誉めたたえられるばかりのことではなく、むしろせまくるしい共同体の中ではそれは、ある種の、禍々しき異形の証なのであった。

『少女七竈と七人の可愛そうな大人』(桜庭一樹/KADOKAWA)

彼女が東京で生まれ、原宿や渋谷などにいればまた違ったでしょう。しかし彼女が生まれ育った地域では、彼女の美しさはただの「呪い」でしかありません。

さて、当たり前ですが、「美しく生まれたこと」と「どう生きていきたいか」は基本的にはまったく別物のはずです。そして、「異性にちやほやされること」「恋愛に関わること」「男社会で上手く渡り歩くこと」「他人から注目されること」などにまったく興味がない場合、「美しさ」はある意味で「余分な贅肉」でしかありません。

しかし難しいのは、「美しい人」に対しては「その『美しさ』に沿った生き方をすべきだ」という無意識の圧力が掛かることです。『少女七竈と七人の可愛そうな大人』でも、美しいにも関わらずその美しさを活かそうとしない七竈に対して、「どうしてその『美しさ』をもっと活かした生き方をしないのか」と軽蔑の目が向けられることになります。これは、背は高いがインドアな趣味が大好きな人に対して、「どうしてそんなに背が高いのにバスケをやらないの?」と尋ねるようなものでしょう。シンプルに、余計なお世話でしかありません。

ただ「美しさ」に関してはどうしても、この観点が抜けがちだと感じます。

もちろん世の中には、「背が高くてバスケも好きな人」も「美しくて、その美しさをフル活用した人生を謳歌している人」もいるでしょう。生まれ持ったものが自分の望む人生と合致しているのはまさに幸運であり、本人にとって何よりも素晴らしいことだと思います。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

ここから先は

4,338字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?