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【衝撃】洗脳を自ら脱した著者の『カルト脱出記』から、「社会・集団の洗脳」を避ける生き方を知る

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「エホバの証人」の”洗脳”から自力で抜け出した著者の、信じがたい「カルト体験記」に驚かされる

著者は、「『東京ガールズコレクション』を手掛けた天才プロデューサー」と紹介されている。表舞台で華々しく活躍している人物というわけだ。しかし彼が経験してきた出来事は、そんじょそこらの人間には体験不可能なほど、濃密で特異で狂気的だと感じる。

本書は、まさに「洗脳下」にあった人物が、自らその「洗脳」から抜け出し、「一般社会」に復帰するまでをつぶさに描き出す作品なのだ。

ただし、本書で扱われる「洗脳」や「洗脳からの脱出」は、一般的なイメージとは少し違うだろうと思う。私も、本書を読む前には一般的なイメージで捉えていたので、読む前の印象と読後感にはちょっとズレがあった。しかしいずれにせよ、驚きの経験であることは間違いないし、興味を持って読める内容だと思う。

「宗教」に対する私の考え方と、「洗脳」に対する印象

一応まず、私の「宗教観」についてざっと触れておこうと思う。

基本的に私は、それが明確に「宗教」に分類されるかどうかに関係なく、「宗教的なもの」全般に対して興味がない。言い方が悪いかもしれないが、例えば「オンラインサロン」もある種の「宗教的なもの」に私には感じられるし、そういうものにも一切の興味がない、ということだ。

オウム真理教が最終的に犯罪集団になってしまったように、「狂信」が何らかの形で「個人や社会に対する実害」を生むのであれば、明確に「反対」の立場を取る。しかし、そうでなければ、賛成でも反対でもない。世の中にあろうがなかろうが、私には関係のないものという意味だ。

「『宗教的なもの』を信じている人」に対しても感覚は同じで、自分が勧誘を受けたり、自分の周りの人間が何らかの迷惑を被るのでなければ、「宗教的なもの」を信じていようがいまいがどっちでもいい。特定の宗教を信じていることそのものは、その人との関係性を考える上で特にプラスにもマイナスにもならないということだ。

ただ、これまでの私の少ない経験を基にして話をすると、やはり、何らかの宗教を信じている人は、周囲の人を自分が信じる宗教側に引き込もうとする雰囲気を醸し出す。そういう匂いを感じた瞬間に、私は恐らくその人から離れていくだろう。

とにかく私は、天邪鬼を気取っていることもあり、それがなんであれ「他人に勧められて何かを選択・決断すること」全般が嫌いなのだ。

これが私の「宗教的なもの」に対する基本的なスタンスである。

さて今度は「洗脳」についても書いていこう。「洗脳」と聞くと、非常に特殊な状態であるように感じられるかもしれないが、著者が巻末でこんな風に書いている文章に私は共感する。

洗脳に関して言うと、私のカルト体験談は確かに特殊で極端な環境だった。しかし程度の差こそあれど、広い意味での洗脳は社会のあらゆる所で見られる。

確かにその通りだ。例えば、「広告」「マーケティング」などと呼ばれているものは、基本的に「いかに相手を『洗脳』するか」という手法に過ぎない。「男は結婚して家庭を持って一人前」「親の介護は子どもが責任を持ってすべき」といった社会通念も、私には「洗脳」の一種に感じられる。アイドル、YouTuber、オンラインサロンなどを支える「ファン」も広く「洗脳されている」と捉えていい気がしているし、「家族」や「国境」など「目には見えない社会的な括り」も「洗脳」の一種と呼んでいいだろう。

そして私は、そのように広い括りで捉えた場合の「洗脳」全般が、基本的には嫌いだ。

というかそもそも、対象が何であれ「それをずっと好きでい続ける」という状態をあまり好きになれない。「自分の考えはいつでも変わり得る」という考え方を前提にしているのであれば、何をどのように信じていても構わないと思えるが、「狂信」と感じられるような状態は大体嫌いだ。

広義での「洗脳」は、誰もが身近な生活の中で接しているだろうと思う。だからこそ、本書も他人事だと捉えない方がいい。著者と同じ体験をすることはまず無いだろうが、広い意味での「洗脳状態」に陥ることは誰の身にも起こり得る。そうなった場合に何が出来るのかあらかじめ知っておくことは重要だろう。

著者の目から見た「エホバの証人」と、内部での著者の特異な立ち位置

本書ではまず、著者が「エホバの証人」とどのように関わっていたのかが語られていく。私は正直「エホバの証人」についてはほとんど何も知らず、大昔にニュースで「エホバの証人輸血拒否事件」が報じられているのを見た記憶があるくらいだ。そして本書を読みながら、「そういえば小学校時代、ずっと体育の授業を休んでいた同級生がいた」ということを思い出した。確かその子も、両親がエホバの証人だったように思う。輸血ができないから、運動して怪我をしたら困る、みたいなことだったのではないだろうか。

その程度の知識しかないので、基本的には本書の記述を踏まえて「エホバの証人」を紹介していきたいと思う。

著者の両親は、元々エホバの証人と関わりはなかった。父親は海外勤務が多く、一家で海外での生活が長かったそうだが、その過程で母親がエホバの証人にハマり、その流れで著者も「証人」になったという。エホバの証人では「信者」ではなく「証人」という言葉が使われる。

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