見出し画像

【無知】映画『生理ちゃん』で理解した気になってはいけないが、男(私)にも苦労が伝わるコメディだ

完全版はこちらからご覧いただけます


男の私にはもちろんその辛さはまったく分からないが、少しは「生理」と寄り添える気がする

男にとって、「生理」の話はなかなか難しい

私が未だに「難しいなぁ」と感じてしまう場面があります。それは、「体調が悪そうにしている女性がいる場面でどう振る舞うべきか」です。

「もしそれが『生理』だとすれば、『体調不良である』ということにすら男には触れてほしくないだろう」と感じてしまいます。生理の場合と生理ではない場合とでは、「してほしいこと」が変わるような気がするのですが、男にはそれを判断するのはなかなか困難です。女性であっても、体調の悪い人を見ただけでそれが生理なのかどうかは分からないでしょうが、「女性同士」であれば選択肢が増えるし、適切に対処できるのだろうと感じてしまいます。

私は女友達が多く、そしてその女友達は私に臆することなく生理の話を当たり前のようにすることもあるので、私はたぶん普通の男よりも、女性の口から直接「生理」に関する話を聞く機会が多いと思いはずです。「生理は人によって軽い重いが全然違うみたいで、私は軽い方」みたいな話から、「生理が近いとオナニーしたくなる」みたいな話まで、女性から直接聞くことが結構あります。

また、そんな風に女性から時々話を聞くことがあるからなのか、ネットニュースでも「生理」に関する記事を読むことがあります。「生理用品に掛かるお金は男が思っている以上に高い」みたいな話や、あるいは「ピルで生理を調整する」「ある芸能人が生理痛の改善のために『避妊リング』を入れた」など、特に検索しているわけではありませんが、時々目についた記事を読んでしまうのです。

そういう中で、「女性同士であっても『生理』に関する認識は異なる」という点に驚かされることがあります。特に、前述の芸能人が「避妊リング」を入れたと告白した際には、炎上したというからびっくりしました。炎上の具体的な中身まで知りませんが、批判する側に回る女性がいるということなのでしょう。

同じ辛さを経験しているはずなのに、女性同士でも共闘できないうのは辛いだろうなぁと感じます。

『生理ちゃん』という映画では、主人公・米田青子(二階堂ふみ)が経験する生理の辛さを、「生理ちゃん」というキャラクターを使って表現します。「生理ちゃん」をおんぶしたりリアカーで引いたりという形で、視覚的に伝わりやすい表現でそれを示してくれるのです。そんなことで分かった気になられても困る、という女性の意見があるならそれは当然だと思いますが、まったく分かっていない男からすれば、こういう表現ですら「ホントに大変なんだな」と感じさせられるきっかけになると言えます。

この映画の面白さは、「『生理』という現象にそこまで焦点が当たらない」という点にある

この映画を観て、私が一番印象的だと感じたのは、物語の中で「生理」という現象がそこまで強く取り上げられているわけではない、ということです。

どういうことか説明していきましょう。

まず大前提として、「生理ちゃん」というキャラクターが「日常」の中であまりにも違和感のある存在として登場します。映画全体ではリアルな日常が描かれるのに、その中に着ぐるみのヘンテコな存在が出てくるので、劇中で「生理ちゃん」が登場する場面では、「生理」という現象よりも「生理ちゃん」への違和感の方が強く現れることになるのです。

きっと意図的にそうしているんだろうと私は感じました。「生理」という現象に焦点が当たりすぎると、観客を選ぶというか、エンタメとして受け取りにくいというか、「娯楽作品」としてはちょっと主張が強くなりすぎるように感じるからです。「生理ちゃん」という存在の違和感は、そういうマイナスを回避するという意味で非常に有効だと思いました。

映画を観てもう1つ感じたことは、「生理は日常だ」という点を強調したかったのではないか、ということです。

物語の中で「生理」が描かれる場合、「初潮」「赤飯」「プールを休む」「制服に血がつく」など、ステレオタイプ的に思い浮かべられるイメージはいくつかあると思います。もちろんそれらも、女性からすれば「日常」だと思いますが、あまりにも物語の中でステレオタイプ的に使われるので、「日常感」みたいなものが失われてしまっているようにも私には感じられるのです。

この映画ではそういう、「どうしても物語的になってしまう生理の描き方」を排除して、より「日常感」を出そうとしたのだ、と思いました。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

ここから先は

2,246字

¥ 100

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?