【狂気】日本一将棋に金を使った将棋ファン・団鬼六の生涯を、『将棋世界』の元編集長・大崎善生が描く:『赦す人』
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「小説家」としてではない、「将棋ファン・団鬼六」の異常な人生を大崎善生が追う
「団鬼六」という名前は、「エロ小説を書く人」ぐらいにしか認識していなかった。まさか、将棋とここまで関わりのある人だったとは。そして、そんな団鬼六の生涯を、将棋専門誌のトップを走る『将棋世界』の元編集長・大崎善生が描き出す。
大崎善生のノンフィクションは、彼自身の主観から逃れられない。そんな大崎善生らしいスタイルが踏襲された、とんでもない人物の一代記である。
団鬼六は、どのように将棋と関わり、なぜ破綻し、いかにしてそこから蘇ったのか
団鬼六は元々、趣味として将棋を指していただけの、普通の将棋ファンだった。しかし、あることをきっかけに彼は、
と呼ばれることになる。将棋専門誌を買い取ったのだ。
当時、将棋専門誌は4誌存在していた。売上トップを誇っていたのは、本書の著者である大崎善生がかつて編集者を務めたこともある『将棋世界』で、当時の発行部数はおよそ8万部。それに続いて、『近代将棋』(5万部)、『将棋マガジン』(3万部)、そして3誌に大きく水を空けられて『将棋ジャーナル』(4千部)の計4誌である。
周囲は当然、買い取りに反対した。『将棋ジャーナル』は赤字で、買い取ったところで商売になるようなものではなかったからだ。しかも、当時から交流のあったプロ棋士たちが、「団鬼六が『将棋ジャーナル』を引き受けること」に反対してもいた。『将棋ジャーナル』は、どちらかと言えばプロ棋士と敵対的な立場を貫いており、団鬼六が『将棋ジャーナル』と関わることで、プロ棋士との関係が悪化してしまうかもしれないと恐れたのだ。
しかし、天の邪鬼な団鬼六は、反対されればされるほど我を通したくなってきてしまう。結局、「赤字は覚悟、トントンなら御の字」と考えて『将棋ジャーナル』を引き受けることに決めたのである。
『将棋ジャーナル』は、自宅への定期配送がメインの雑誌だった。アルバイトを雇う余裕もなかった団鬼六は、自宅の地下で妻と2人、発送作業に追われた。しかし、そんな努力の甲斐なく、買い取ってから5年後に団鬼六は廃刊を決意する。そしてその頃までに、団鬼六は財産のほとんどを失ってしまっていた。「鬼六御殿」と呼ばれた、竣工費5億円、最高時の評価額7億円とも言われた豪邸も、たった2億円で手放さなければならなくなってしまう。残ったのは、2億円の借金だけだ。
当時65歳の老作家は、断筆宣言していたこともあり、細々と将棋雑誌に文章を寄稿する以外、収入のあてはなかった。団鬼六の人生、さすがにもう詰みか……。
と思われたが、さすが転んでもただでは起きない男である。なんと団鬼六は、たった1冊の本によって、不死鳥の如く蘇るのだ……。
と、これが本書第1章のあらすじである。これだけで十分興味を惹かれないだろうか? とんでもなく凄まじい人生を歩んでいる人物なのである。
本書を執筆する上での大崎善生のスタンス
大崎善生のノンフィクションを1冊でも読んだことがある方は理解していただけると思うが、彼の作品は「ノンフィクション」的ではない。
ノンフィクションの多くは、「書き手や取材者が、対象を可能な限り客観視し、対象からある程度距離を取った上で状況や内面を描き出す」というスタイルになっているだろうと思う。それだけがノンフィクションの特徴だとは思わないが、やはり「客観性」によって「真実」が炙り出される、という点を重視する人は書き手にも読み手にも多いだろう。
しかし大崎善生のノンフィクションは、非常に「主観的」なのだ。
ノンフィクションをよく読むという方には、「『主観的なノンフィクション』なんて成立しうるのか?」と思われるかもしれないが、、大崎善生のノンフィクションの場合は「成立している」と感じる。もちろん、好き嫌いは分かれるだろう。しかし、「ノンフィクションとして成立していると言えるのか?」という問いには、私は「している」と答えたいと思う。
本書も、「『客観性』によって『真実』を捉える」という構成にはなっていない。しかしそこには、著者なりの「忸怩たる思い」があったそうだ。実は本書を、「主観的なノンフィクション」にするつもりなどなかったという。
大崎善生は、団鬼六について取材をする一方で、団鬼六のエッセイや自伝的小説にも目を通す。しかしそれが一致しない。大崎善生が取材した事実と、団鬼六自身が書いている内容が食い違うのである。あるいは、取材ではどうしても真実を突き止めることができず、それに関する資料は団鬼六が書いた文章しか存在しない、という状況もある。
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