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【苦悩】「やりがいのある仕事」だから見て見ぬふり?映画『アシスタント』が抉る搾取のリアル

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ある女性の働く姿を描く映画『アシスタント』は、現代日本も無関係ではいられない「凄まじい『見て見ぬふり』」のリアルが描かれる

とんでもない物語だった。最初から最後まで静かに淡々と展開される物語なのだが、その中では「誰もが気づいていながら、見て見ぬふりをしている状況」に対峙させられる1人の若い女性が描かれている。この「見て見ぬふり」は、今を生きる私たちにも無関係ではない。私たちは、ジャニー喜多川の性加害問題を長きに渡り「見て見ぬふり」してきたからだ。この映画はまさに、今の日本全体を映し出していると言っても過言ではないように思う。

「とある背景」が示唆されるまで、何を描こうとしているのかさっぱり分からなかった

実に恐ろしい想像ではあるが、映画『アシスタント』を観て「何も起こらないし、なんだか良く分からない物語だった」と感じる人もいるだろうと思う。確かに、「とある背景」に気づかなければ、「何も起こらない物語」と捉えてしまうかもしれない。そして、「そのように受け取る人が一定数いるかもしれない」と想像し得る点にこそ、この映画の最も恐ろしいポイントがあると言ってもいいと思う。

何故ならそれは、「自身の加害性」や「無意識に放たれる悪意」みたいなものに、まったく自覚がないことを示唆するからだ。本作は、私たちに「そのような社会で生きているのだ」と実感させる物語であるとも言えるだろう。

とはいえ私も、主人公の女性がある決意を持って立ち上がる直前まで、映画『アシスタント』が何を描こうとしているのかさっぱり分からなかった。その印象的なシーンに至るまでに描かれている事柄は、「働くことの理不尽さ」とでもまとめられるだろうか。

物語は、映画会社で働く1人の女性が経験する「ある1日の出来事」として展開される。主人公のジェーンはまだ働き始めて5週間の「会長室所属のアシスタント」であり、いつかは映画プロデューサーになることを夢見てはいるものの、今はほとんど雑用のような仕事しかさせてもらえない。そんな彼女が働いているのは、映画業界でもひときわ名の知られた会社であり、会長が業界の顔としても有名である。映画では、そんな彼女の「理不尽に彩られた仕事環境」が様々な形で描き出されていく。

しばらくの間私は、「そういう『働くことの理不尽さ』を描き出す映画なのだろう」と思っていた。もしそれだけの作品だったとしても、それなりには満足できただろう。「華やかで夢のある業界に憧れながら、『仕事』と呼んで良いのか判然としないような雑用ばかりの日常」というのは、特に現代において共感度の高いテーマだと思うし、そのような環境における「絶望」をとてもリアルに描き出しているように感じたからだ。

しかし映画『アシスタント』は、単にそのような物語なのではなかった。より大きな問題が内包される物語だったのだ。

その「問題」は、ニュースなどをそれなりに追って人であれば間違いなく知っているだろうし、映画が好きな人も何かしらの形で情報が入ってくるようなものだと思う。もちろん、アメリカ人であれば恐らく全員知っているだろう。有名映画プロデューサーによる性加害問題である。映画『アシスタント』では決して、この問題をベースにしていると明示されるわけではないが、この性加害問題を知っている人が観れば間違いなく、モデルの人物が頭に浮かぶはずだ。

そんなわけで、ジェーンは「『実在していた映画会社』で働いているアシスタント」という設定であり、そんな彼女が「会長の疑惑」に気づき立ち上がる物語なのである。

働き始めて5週間とはいえ、彼女は恐らくそれまでにも、会長に関する「違和感」を抱くことがあったはずだと思う。しかしきっとそれは、明確な形を取るようなものではなかったのだろう。「何かおかしい」が「確証を持てるほどではない」という感じだったのだと思う。

しかし映画で描かれるその日、彼女は「確信」を抱くに至った。普通に考えて、許容できるような状況ではない。そのことを知った彼女は、どうすべきか大いに悩む。そんな葛藤が描き出されていくというわけだ。

彼女が直面した、凄まじいまでの「見て見ぬふり」

さて、ジェーンは悩んだ末にある行動を起こす。もちろん、「会長を直接非難する」みたいなやり方を取ったわけではない。働き始めたばかりの「アシスタント」の話でも聞いてもらえて、恐らく助けになってくれるはずだと考えた人物に相談に行くのである。

この場面の醜悪さがとにかく凄まじかった。その「無自覚な暴力性」に、ただ映画を観ているだけの私でさえ圧倒されてしまったのだ。ジェーンが受けた衝撃はどれほどだっただろうか。

要するに彼女は、「私が気づいたこの事実は、既にみんなが知ってることだったんだ」と理解したのである。彼女が相談した相手は決して、明確にそのようには口にしていない。しかし明らかに、「そんなことは知ってるけど、それで、君はキャリアを台無しにしてまで何がしたいの?」みたいなニュアンスで彼女の相談に返答するのである。

まさに「見て見ぬふり」というわけだ。

あるいは、彼女は別の人から、「あなたが思うほど悪い状況ではないと思う」と示唆するようなことを言われたりもする。その発言は表向き、ジェーンを気遣うものにも感じられるだろう。しかし実際には、そう口にした人物が、自身にそう思い込ませたくて言っているように私には感じられてしまった。

このように映画では、ジェーンという「アシスタント」の視点を通じて、「絶対権力者の『悪行』を『見て見ぬふり』する環境」が切り取られていくのである。そしてこれはまさに、ジャニー喜多川の問題と瓜二つと言っていいだろう。ジャニー喜多川による性加害は、数限りない人間の「見て見ぬふり」が無ければ成立しなかったはずだ。その「数限りない人間」の末端には、私も含まれるかもしれない。別に私は、他人事だと思って自分以外の誰かを糾弾しているつもりではないというわけだ。

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