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【レッテル】コミュニケーションで大事なのは、肩書や立場を外して、相手を”その人”として見ることだ:『THE UPSIDE 最強のふたり』

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「肩書き」で相手と関わらない関係性こそ素晴らしいと思う

「レッテル」で見られるのは好きじゃない

私は、私自身にとってはありがたいことに、大層なレッテルが貼られるような人間ではありません。大富豪でも芸能人でもないし、スポーツや趣味など何か狭い世界で名が知れているということもないです。また、「LGBT」「障害者」「シングルマザー」など、世間的に「レッテル」を貼られやすいと言える立ち位置にいるわけでもありません。

なので、日常生活の中で強く実感できているわけではありませんが、私はとにかく「『レッテル』で見られること」が嫌いです。極端な言い方をすれば、「男」「30代」「未婚」みたいな基本的な属性さえも外したいと考えてしまいます。

世の中にはどうも、「お金持ち」「有名企業で働いてる」みたいな見られ方を嬉しく感じる人がいるようですが、私にはまったく理解できません。以前知り合いの女性が、「見た目を褒められても嬉しくない。持ってるものを褒めてもらえると、センスを認めてもらえたみたいで嬉しい」みたいなことを言っていましたが、これも似たような話でしょう。

この映画には、「大富豪かつ車椅子に乗る障害者」という人物が出てくるのですが、ある場面で付き添いの人物が、彼の指示で部屋中にある様々なものをぶっ壊します。その大富豪は、「障害者」という見られ方はもちろんですが、「大富豪」という見られ方にも辟易しており、だからそんな行動を取ってしまうのです。

ある種の人にとっては、肩書きで判断されることは快感なのかもしれませんが、まったくそう感じられない人もいるます。そして何より問題なのは、「そう感じられない人もいる」という現実に想像が及ばないことでしょう。

だからこそ「レッテル」で人を判断しないように強く意識している

自分が「レッテル」で判断されることがとても嫌いなので、他人に対してもそうしないようにとにかく意識しています。

例えば、女性に対して「若いね」「可愛いね」と、褒め言葉のつもりで言う男性がいますが、私からすればその行為は、「私はあなたを『若い』『可愛い』というレッテルでしか見ていませんよ」という宣言にしか感じられません。それを嬉しく思う女性もいるかもしれませんが、大抵の場合は、表向き喜んだフリをしながら、陰でボロクソ言っていることでしょう。

私がそうなのですが、「『レッテル』で見られること」が嫌いな人は、他人のそういう視線にかなり敏感だと思います。なんてことないつもりの言動でも、それが「レッテル」と受け取られてしまうことがあるのです。

この映画の冒頭は、大富豪の障害者が、自分の介助人を探す面接を行う場面から始まります。その間、彼はずっと厳しい顔つきをしているのですが、それは当然と言えば当然と言えるでしょう。

なぜなら面接に来た誰もが、彼のことを「障害者」というレッテルで見ているからです。面接に来た人は、「障害を持っている人を献身的に支えたい」と心の底から考えているのでしょうが、大富豪からすればその考え自体をそもそも受け入れられません。

私は割と、一般的な感覚では「変だと受け取られる言動」を意識的にするようにしています。それによって、「私はあなたのことを『レッテル』では見ていません」と相手に伝わることを期待しているからです。特に初対面であればあるほど、少し大げさに打ち出さなければ、自分が「レッテル」で見ているわけじゃないと相手に伝わりません。

それはこの映画を見ても実感できることでしょう。なんと大富豪が最終的に選んだ介助人は、元犯罪者なのですから。これまで関わったことがないような傍若無人さを面白がって彼を採用するのです。

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