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【感想】殺人事件が決定打となった「GUCCI家の崩壊」の実話を描く映画『ハウス・オブ・グッチ』の衝撃

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映画『ハウス・オブ・グッチ』で描かれる、世界的ブランドGUCCIの凋落には驚かされた

なぜこのような映画が成立し得たのか?

映画を観ながらずっと疑問に感じていたことがある。それは、「GUCCIの恥部を暴くような映画が、どうして制作できたのか?」ということだ。GUCCIなどのブランドは、それこそ「名前」で商売をしているのだから、そんなGUCCIの名を貶めるような映画制作に許諾が出るはずがない、と思っていた。事件発生当時、世界的に報じられただろうし、広く知られた事実なのだと思う。だとしても、「GUCCI家で『殺人事件』が起こった」という衝撃的な出来事が映画の中で描かれるのだ。事件は1995年に起きたものであり、既にその事実自体を忘れている人も多いだろう。わざわざ寝た子を起こすようなことをする必然性がGUCCIにあるとは考えにくい。

映画は恐らく、GUCCIの実際の店舗で撮影しているだろうし、どう考えてもGUCCIの協力無しには制作できない作品だと思う。一方で、GUCCIが映画制作に許諾を出す動機などあるはずがないと思っていたので、映画を観ている間、この疑問がずっと頭の片隅に漂い続けた。

その答えは、映画を最後まで観れば理解できる。これは恐らく、世間一般的にそれなりに知られた事実だと思うので書いても問題はないだろう。現在のGUCCIには、創業家の人間は誰も関わっていないのだそうだ。このことを知って、ようやく疑問が氷解した。

つまり、現在GUCCIを運営する者にとっては、「かつてのGUCCIと今のGUCCIは違う」と改めて示すというメリットが存在するのである。そりゃあ、協力は惜しまないだろう。それこそ「名前」で商売する者だからこそ、「創業家が生み出したGUCCIとの決別」をアピールすることは価値があると言える。

映画の冒頭で、「実話に着想を得た物語」と表示される。初めこれを目にした時は、「GUCCIに配慮して、事実を改変した箇所がある」という意味に捉えていた。しかし、映画を最後まで観たことで考えが変わる。「実話に着想を得た物語」というのは、「否応なしに想像で補わざるを得ない」という事実を示しているのだと私は受け取った。

あまり触れると作品のネタバレになってしまうのでぼかして書くが、メインで描かれる登場人物のほとんどが、「映画制作時点で『語れる状態』にはなかった」ということが分かる。何が起こったのか、語れる者がいないのだから、そこは想像で埋めるしかない、というわけだ。

映画を観た後でたまたま目にしたネット記事には、「この映画の内容に、GUCCI家は異議を唱えている」と書かれていた。しかし、その異議を唱えているGUCCI家の人間にしたところで、この映画で描かれる様々な状況をリアルタイムで目撃していたわけではないはずだ。つまり、「そのような描かれ方は気に食わない」とアピールしたいということでしかないだろう。

同じ記事の中には、監督のリドリー・スコットの言葉として、「原作本は優れているが、著者の意見が強く反映されているため、私なりの解釈をして制作した」とも書かれていた。どのみち「事実」を語れる者はいないのだから、結局は「解釈」の問題になってしまう。そして、この映画は「リドリー・スコットが解釈した物語」と捉えるべきというわけだ。この点は、映画を観る前に理解しておいてもいいかもしれないと思う。

創業家一族が経営に関わっていないという話から、私は「円谷プロ」のことを思い出した。特撮の神様と呼ばれた円谷英二が創業した「円谷プロ」は、既に円谷一族が誰も関係しない会社になっている。その顛末が描かれた『ウルトラマンが泣いている』(円谷英明/講談社)もなかなか衝撃的な作品だった。

この映画を観ると、「同族経営」の難しさを実感させられる。しかし一方で、「ブランド」というものを考える際には、「同族経営」の方が分かりやすいようにも思う。

「ブランド」とは何によって規定されるのか?

私は、高級品であるかどうかに関係なく、「ブランド」というものにまったく関心がない。何か買う際に、「機能」「値段」「手に入れやすさ」などは考慮するが、「ブランド」を気にしたことはないはずだ。もちろん、機能や値段が同じであれば、自分が名前を知っている企業の方を選ぶだろうし、車や食品など「安全性」が重視される場合は、外国企業のものよりは日本企業のものを選ぶかもしれない。

私にとって「ブランド」とは、その程度の存在だ。だから、GUCCIのような「ハイブランド」の価値が、私には本質的に理解できない。そしてその理解出来なさは、「創業家が排除されたGUCCI」という現実を知ったことで、より鮮明に問いとして浮かんだ。

一般的な製品であれば、「より良いモノをより安く提供する」とか、「値段は少し張るが持続可能なサイクルで生産から販売まで行う」などが「ブランドの価値」として設定されると思う。しかし、GUCCIなどの「ハイブランド」の場合、そのような分かりやすい価値はない。クオリティは高いのだろうが値段ももの凄く高いし、少なくとも一昔前にはSDGs的な観点も持っていなかったはずだ。

この場合、私に理解可能なのは、「創業者が作り上げた『何か』にこそブランドの価値がある」という発想だ。私自身はそこに価値を見出しはしないが、理解はできる。「創業者の理念やデザインを継承する」ということに「ブランドの価値」が存在するというのであれば、分かりやすい。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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