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【おすすめ】濱口竜介監督の映画『親密さ』は、「映像」よりも「言葉」が前面に来る衝撃の4時間だった

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「映像」よりも「言葉」のインパクトが強い映画だということに驚かされっぱなしだった

内容に触れる前にまず、この映画を観るに至った流れに触れておきたいと思います。

まず、「絶対に観ない」と決めていた『ドライブ・マイ・カー』を2021年の年末に観ました。

それから、同じ監督の作品だと初めて知り、これまた「絶対に観ない」と決めていた『偶然と想像』を見に行くことにします。

どちらもとにかく素晴らしい映画で、こんな映画が成立し得るのかと感じるほど見事な作品でした。

その後、映画の話もする友人と『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』について語っていたのですが、その友人から「下北沢のK2という新しく出来た映画館で、濱口竜介監督の過去作品を上映している」という話を耳にします。調べてみると、「『偶然と想像』公開記念 濱口竜介監督特集上映<言葉との乗り物>」というイベントが、全国のいくつかの映画館で行われていることを知りました。

その中から、自分のスケジュールを踏まえて観られる作品を選んだところ、この『親密さ』という映画に行き着いた、というわけです。

本当に、何かがちょっと違っていれば『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』『親密さ』のどれもすべて観る機会はなかったと思うので、そういうタイミングの良さも含めて、濱口竜介監督作品との出会いは非常に印象的でした。

さて、内容に触れる前に、先にこの映画の構成をざっと説明しておきましょう。映画はなんと4時間という長尺で、前後半に分かれます。前半は、「ある劇団が次回公演作を準備する」という物語であり、そして後半はなんと、前半で準備された演劇が丸々収録されるという斬新な構成です。映画も演劇も共に『親密さ』というタイトルであり、「『親密さ』という舞台演劇を準備する者たちを描く『親密さ』という映画の中で、実際に『親密さ』という舞台公演が行われる」という構成になります。

この映画の作りだけ見ても、非常に異端的な作品だと言えるでしょう。

「映像」がおまけに感じられる、「言葉」がメインになる作品

『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』の記事の中で私は、濱口竜介作品の「動き」「感情」の希薄さについて触れました。「映像」を構成する要素として、役者の動きや感情の表出などは非常に重要なはずですが、濱口竜介作品ではそれらが徹底的に抑制されているのです。そのことがどのような効果を生んでいるのかについては、是非それぞれの記事を読んでください。

映画『親密さ』では、「動き」は一般的な映画とさほど変わらないと思いますが、やはり「感情」は抑え気味です。しかしこの点については正直、意図的なものなのかは判断が難しいと感じます。というのもこの映画は、「ENBUゼミナール」という専門学校の卒業制作として作成されたもので、役者はその専門学校の学生だからです。正直、お世辞にも「上手い」とは言い難い役者であり、「感情を表に出していない」のか「感情を表に出せていない」のかは判断に迷ってしまいます。

そういう意味で映画『親密さ』は、『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』で感じたような「『動き』と『感情』を抑制することで成立させている映画」という印象にはなりませんでした。

『親密さ』を成立させているのは「言葉」の力だと感じます。

『偶然と想像』について私は、「脚本がこの作品を成立させている」と書きました。「脚本」も「言葉」ではありますが、『親密さ』では「脚本」というよりも「言葉」そのものの力が前面に出ているという印象です。『ドライブ・マイ・カー』や『偶然と想像』に既に触れている私としては、『親密さ』のストーリーそのものは、映画も劇中劇もそこまで大したものには感じられませんでした。ただ、随所で「言葉」が屹立し、その存在感をぎょっとさせるレベルで示すことで、撮影機材・撮影場所・役者・資金などにどうしても制約が出るだろう「専門学校の卒業制作」において、そのクオリティを高めることに成功しているのだと私は感じます。

なのでこの記事では、映画や劇中劇に登場する「言葉が屹立する場面」を取り上げる形で話を進めていくことにしましょう。

「暴力と選択」という詩の朗読

映画『親密さ』の主人公の1人である良平は、劇中劇『親密さ』の脚本を担当しており、さらに「衛」という役名で劇中劇にも登場します。衛は、自作の詩を朗読し合う会に参加しているという設定で、その中で朗読される詩の1つが「暴力と選択」です。

この詩が私にはとても響きました。劇中劇では計4作の詩が朗読されるのですが、他の詩は正直まったく覚えていません。この「暴力と選択」だけが、圧倒的な質量で私の内側にドンと届いたのです。私としては、映画『親密さ』全体の中で一番好きな場面と言っていいかもしれません。

衛はもの凄い早口でこの詩を朗読するので、正直そのすべてを記憶・整理できたわけではありませんが、私が覚えている範囲の内容をなんとなく再現してみます。

暴力とは何か。それは、「相手から選択肢を奪うこと、もしくは『選択など不可能だ』と相手に信じ込ませること」だ。
たとえ身体を殴られたり傷を負わされたとしても、そこにまだ選択肢が残っているのならば、それは「暴力」と呼ばれないと考えていいのではないか。
そしてこのように定義することで、肉体的な暴力以外の暴力も定義することができる。
つまり、肉体的な苦痛を伴わなくても、そこに選択肢がなければそれは「暴力」だと言っていいということだ。
さて今ここに、暴力と呼びたいような状況に直面している者がいるとしよう。
しかしその者にはまだ選択肢が残っている。
それでもその者は、「自分は暴力を振るわれた」と主張するだろう。
そしてこの場合、選択肢が残っているのに「暴力を振るわれた」と叫ぶ者の存在こそが、むしろ「暴力」と呼ばれるべきなのではないだろうか。

正直、このように書いてみたところで、映画で聞いた時の感動をまったく再現できておらず歯がゆいです。内容的にはもっと様々な話に触れており、「私たちは『選べない』ということだけは選ぶことができない」という論理的帰結にも非常に共感したのですが、再現できるほどには記憶がありません。

そもそも「良平」も「衛」も、他人との共感性が非常に薄く、理屈っぽく人を丸め込むような話し方をする人物であり、そのような性質もまた、この「暴力と選択」という詩の内容にマッチしていたと思います。まくしたてるように一気に言葉を吐き出す衛の「狂気」は、ある種「暴力的」とも言えるものであり、そんな口調で「暴力とは選択肢を奪うことだ」という内容の詩を朗読しているという異様さにも惹かれてしまいました。

詩そのものは、映画の内容とも劇中劇の内容ともそこまでリンクするわけではない、離れ小島のような要素ではあるのですが、とにかくガツンとやられたインパクト大の場面でした。

一気に書き上げたラブレターを電話越しに読み上げる

劇中劇には、ある女性が手紙の内容を親友女性に電話越しに聞かせる、という場面も出てきます。このシーンも非常に良かったです。まさにこれも、「言葉」だけで状況を支配していると感じる場面であり、惹き込まれてしまいました。

女性が書いたのはラブレターで、相手は、血の繋がらない兄のルームメイトである郵便局員です。彼女はその郵便局員と友人として仲が良く、あけすけに自分の色んな話をしてしまっています。実は彼女は誰とでもセックスをしてしまうところがあり、大学でも「サークルクラッシャー」と呼ばれる存在です。そしてそういう話も郵便局員に自分の口から伝えてしまっています。彼女は真剣に彼のことが好きなのですが、ただ普通に想いを伝えるだけでは自分の気持ちは絶対に伝わらないはず、とも考えているわけです。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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