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【映画】『街は誰のもの?』という問いは奥深い。「公共」の意味を考えさせる問題提起に満ちた作品

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「街は誰のもの?」という、今まで考えたことのなかった問いについて思考を深められる、とても刺激的な映画

とても面白い作品だった。思いがけず素敵な映画に出会えたという感じである。以前私は、Chim↑Pomというアート集団の展覧会を観に行ったことがあり、その際にも「公共」について深く考えさせられたが、本作『街は誰のもの?』もまた違った形で「公共」について問いかける作品で、非常に興味深かった。しかも本作は、街のシャッターや民家の壁に無許可で絵を描く「グラフィティ」がメインの題材となる作品であり、その取り合わせもまた興味をそそるポイントではないかと思う。
 
「『街は誰のもの?』という問いそのものの意味が分からない」と感じる人もいると思うが、私も映画を観る前の時点では同じだった。というわけで、「本作『街は誰のもの?』を観て、私の思考がどう変化したのか」を中心に、映画の内容について触れていこうと思う。

作中で問われる中心的なテーマと、「公共」に対する私の考え方

本作『街は誰のもの?』のことを劇場の予告で知ったのか、チラシを見たのか、あるいは何か別のルートだったのかについてはまったく覚えていないが、最初にこの映画のタイトルを目にした瞬間、私は「実に秀逸なタイトルだ」と感じた。というのも、「街は誰のもの?」という問いについて、少なくとも私はこれまでに一度も考えたことがなかったからだ。その上で、いざ考えてみようとすると、どこから思考を始めればいいのか悩ましい感じもある。馴染みはないが考え応えがあるという意味で、実に見事なテーマ設定だと感じた。
 
さて、映画を観る前の時点で私の中になんとなくあった「答え」は、「街はみんなのものだろう」ぐらいの思考だったはずだ。まあ、「答え」と呼べるほどのものではないのだが、しかし誰もがなんとなくこんな風に考えているのではないかとも思っている。というか、これ以外に考えようがないだろう。
 
しかし映画を観て、「この捉え方は間違いだ」と感じた。いや、正確に言えば、「間違い」と表現してしまうとちょっと感覚がズレるのだが、その辺りの話はややこしいので後回しにしようと思う。
 
さて、映画『街は誰のもの?』が描き出すテーマについてざっくり触れたところで、まずは、「『公共』に対する私自身の考え方」についてより包括的に触れておくことにしよう。「街は誰のもの?」という問いに対峙する際にはやはり、「公共」をどのように捉えているかという前提が共有されている必要があると思うからだ。
 
基本的に私は次のように考えている。「街」でも「学校」でも「美術館」でも何でもいいが、それが「公共」に属するものである場合、すべての人間は「その場を取り仕切るルール」に縛られるべきだ、と。もちろん、どんな場合でも「ルール自体が誤っている可能性」はある。しかしそうだとしても、その「誤ったルール」は「正しい手続き」に則って修正されるべきであり、そうなるまではその「誤ったルール」に従わなければならない。これが、「法治国家」に生きる者に最低限課せられている制約だと私は考えているのである。
 
さて、このように考えた場合、本作『街は誰のもの?』で中心的に描かれる「グラフィティ」は当然すべて「ルール違反」であり、「ルール違反である以上、やるべきではない」という結論に行き着く。誰の許可も得ずに勝手に絵を描くことは、器物損壊罪や、場合によっては建造物侵入罪などに当たるだろう。だったらそれは「してはならないこと」と判断されるべきだと私は思う。
 
これが、私が依って立つ大前提である。この点に関しては、映画を観終えた今も揺るぎはしない。そのため以下では、この考えを前提にして話を進めていく。そもそもこの前提に違和感を覚える場合、これ以降の私の文章にも納得できない可能性が高いと思うので、ここで読むのを止めてもらう方がいいかもしれない。

「グラフィティ」は「違法」であることが大前提

映画『街は誰のもの?』では、スケボーや露天商、デモ活動など、「街を『専有』、あるいは『破壊』するような行為」がいくつか取り上げられている。そしてその中で最も興味深かったのがグラフィティだったので、この記事ではグラフィティの話に絞って書いていこうと思う。

映画に登場するグラフィテイロ(ブラジルでは、グラフィティアーティストのことをこう呼ぶそうだ)が次のように言っていたのがとても印象的だった。

無許可でありイリーガルであることが、グラフィティの前提条件だ。

これは非常に示唆に富む話だと思う。「違法である」という要素が、グラフィティというジャンルにはそもそも含まれているというのである。このシーンを観ている時私は、以前テレビで知ったあるエピソードについて思い出していた。

それは、元プロ野球選手が語っていた話である。彼は大学時代、主将を務めることになった。そしてその野球部では、「主将がすべてのルールを決めてもいい」とされていたため、彼は「寮の門限を撤廃する」ことに決めたのだという。

元々寮の門限は夜の12時だったが、当時は12時を超えて寮に戻る選手が多かったそうだ。しかし門限を撤廃した途端、皆12時より前に戻ってくるようになったという。この理由についてその人物は、「『ルールを破る俺ってカッコいい』という見せ方が出来なくなったのだから、12時以降に帰ってくる必然性が無くなったのだろう」と分析していた。

これは割と理解しやすい話ではないかと思う。つまり選手たちは、「特段『12時以降に寮に戻りたい理由』は特にないが、『ルールを破る行動』はしたい」と考えていた可能性があるというわけだ。これをさらに大きく要約するならば、「ルールが存在するために、『ルールを破るという行動』も存在し得る」と言えるのではないかと思う。そしてこの点は、タバコや酒、薬物などについても同じだと言えるかもしれない。私はタバコを吸ったことがないので分からないが、未成年がタバコを吸う理由など正直、「それが悪いこととされているから」ぐらいしか無いんじゃないだろうか。いっそ、「タバコの年齢制限」を撤廃したら、「新たにタバコを吸いたいと思う人」は激減するかもしれないとさえ思う。

もちろん、この「ルールが存在するために、『ルールを破るという行動』も存在し得る」という話は、すべてのルールに当てはまるものではないだろう。ただ私は、一部のルールにおいては、「ルールが存在する」という事実こそが「ルールを破る」という行為を生んでいる可能性があるのではないかと思っている。

そしてこのように考えると、「グラフィティ」の捉え方もまた少し変わるかもしれない。「『街中で絵を描く』という行為が『ルール違反』とされているからこそ、『グラフィティ』という文化が生まれた」と捉えることが出来るからだ。逆に言えば、「誰もがどこにでも自由に絵を描いて良い」という公共空間が存在するなら、理論上、その公共空間には「グラフィティ」は存在し得ないことになるだろう。

「『グラフィティ』はこのような性質を持つ」という点が、「街は誰のもの?」という問いについて考える場合には重要になってくると私は感じた。

「ルールの存在」は「ルール違反」を生み出しもするが、同時に「無法地帯の排除」にも繋がっている

さて、ここまでの話を踏まえれば、「『街中で許可なく絵を描く行為を取り締まるルール』が存在しなければ『グラフィティ』はそもそも存在できない」ことになる。だったら「ルールの方を無くしてしまえばいいのではないか」みたいな発想が出てきてもおかしくないだろう。

確かに理屈としてはその通りだと思う。ただ私は、「ルールを無くせば『グラフィティ』は消えるが、『街中で許可なく絵を描く行為』が無くなるわけではない」と考えているのである。

意味が分かるだろうか? この説明のためにまず、作中に登場するグラフィテイロたちの感覚について触れておこうと思う。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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