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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 春・壱1

あらすじ

 槙 深遠(まき しんえん)は、時の流れの異なる空間を往来しながら結界の修復を続ける【脱厄術師(だつやくじゅつし)】。主従関係にある鷹丸家の娘、維知香は、その身に災厄を宿す【宿災(しゅくさい)】として生まれた。 脱厄術師は宿災の守護とされ、深遠は維知香に宿災としての【在り方】を教え、見守りながら自らの任をつとめていた。

 維知香は幼き日より深遠に恋心を抱き続けるが、深遠は維知香の思い、そして自分の本音に気づきながらも独りであろうとする。

 自らの任と愛する人―― ふたつの間で逡巡する思いは、どこへたどり着くのか。 抗えない時の流れの中、一途な思いを抱く者達の四季を描く、恋愛ファンタジー。

本編

 卯月。暁を迎えてから、まもなく一時。雑木に囲まれた曲がり屋の庭で、男は深く、息を吸った。芽吹きを迎えた緑の、若く生々しい香りが体を巡る。吸い込んだ命の気配を吐き出し、男は空に顔を向けた。

 宵の口から降り出し、夜半に賑わいの盛りとなった雨は、暁とともに音をひそめた。今は絹糸ように柔らかく、肌を微かに湿らせ、風に乾く。葉擦れの音はひそやか。静寂以上の心地良さに、男が目を閉じようとした時、一陣の風が体を揺らした。

 ねえ はやく
 とっくにもどっているのでしょう?

 驚き。続いて笑み。男は、自分に届いたのは声でも音でもなく、想い、もしくは念と呼ぶもの、と解し、小さく頷いた。

 まちきれない
 はやく
 はやくきてよ
 しんえん

「今から向かうよ」

 その答えに満足したかのように、柔らかな風が一度、男の頬を撫でた。

「深遠……か」

 槙 深遠は、自分の顔が微かにほころんだことに気づいた。誰かに名を呼ばれたのは、随分と久しぶりだった。自分の名を耳にすることのない生活が当然であり、寂しいと感じたことはない。それなのになぜか、心が温まる。そんな風に思わせる者の姿を脳裏に浮かべながら、深遠は家を出た。

 黒の作務衣、白足袋に草履、手には紫紺の番傘。傘は閉じたまま、雨に洗われた細い林道を下り、砂利敷きの車道に出て、さらに下りを行く。程なく、道の左右は八重桜に彩られた。轍に水溜り。揺れる花筏。散ってなお、華やか。

 歩くこと十分足らず。両の視界の華やぎは終わり、厳然とした門が行く手を塞いだ。ぴたりと閉じた木戸。左右には槙が連なり、濃緑の壁を作っている。それに沿って通用門へ。五歩も進まないうちに、エンジン音が深遠の耳を突いた。


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