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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 春・壱2

 砂利を踏んでやってきたのは、漆黒のハイヤー。門の前で停車の姿勢に入ると同時、後部座席の窓が開いた。

「深遠さん!」

 嗄れた声に混ざる歓喜。ハイヤーの窓に笑顔。老齢の男。運転士がドアを開けに出るより早く、白髪頭の男が降り立った。仕立ての良い三つ揃えのスーツ姿。老齢の紳士は笑顔で深遠に手を伸ばし、握手を求める。

「おかえりなさい、深遠さん」
「ただいま戻りました。今回もまた、長く留守にしてしまい、申し訳ございません」
「なんのなんの。無事に戻ってくれさえすれば、待ちの寂しさなんて吹き飛ぶというものです」
「ありがとうございます」

 乗車賃を受け取った運転士はエンジン音とともに去り、門の前に男ふたりになると、深遠は男に向かい、深く頭を下げた。

「正一様におかれましては、お変わりなく、ご健在であられるようで、なによりでございます」
「貴方こそ、相変わらずですねえ……さあ頭をあげてください。久しぶりに背丈を比べてみませんか。私は年を重ねて、少し小さくなったかもしれません。貴方は変わらないなあ。遠くからでも誰なのかわかりましたよ。うちの門の冠木に頭が届くのは、貴方くらいですからね」

 冠木に打ち付けられた表札には、鷹丸の二文字。正一と呼ばれた老人は、武蔵野の奥地に広大な土地を持つ旧家の主。

「いつ、こちらに? ただいま、と言っても、たった今ではないでしょう?」
「昨夜、雨が降り出す、少し前です」
「じゃあ本当に戻ってすぐじゃないですか。たった今ではないにしろ、まだお疲れでしょうに……さては、あの子に呼ばれましたか?」
「ええ、まあ……そのようです」

 深遠の返事に高らかな笑いを響かせ、正一は通用門へと足を動かした。

「私も呼び戻されたんですよ。夕べ、さて横になろうという時に電話がありましてね。おじいさま、朝になったらすぐに戻ってちょうだい、とね。まあ、貴方を朝まで呼びつけなかったのは、あの子にしては偉かったのかもしれません」
「昨日は、いつもの会合ですか?」
「そうです。本当は昨日のうちに戻る予定が、大阪で行われている万博の話で盛り上がって酒も進んでね。最終列車に乗り遅れたものだから、夜明けを待ってハイヤーに……まだ酒の匂いが残っているでしょうから、維知香に叱られるな」

 二人はくぐり門から庭へ。深遠は正一の後ろから、頭上に番傘をかざす。振り返り遠慮を見せる正一に、深遠は穏やかな笑みを向けた。

「どうか前を……お足元に、お気をつけ下さい」

 剛健な門の内側に広がる鷹丸家の庭。足元には角の取れた玉砂利。川に見立てたような緩やかなうねりの中に、程よい間隔で敷石が並ぶ。

 視界の左右に入り込むのは、大小様々な置石、苔生した盛り土の上に建てられた庵、細枝の先端まで手の届いた木々。母屋に辿り着くまでに目にするそれらは、庭のほんの一面。

 母屋も十分に広く、かつては掃除専従の使用人を雇ったほど。その裏手には、手付かずの森が広がっている。余りに広大で、どこまでが鷹丸家の所有地であるのか、深遠は把握しかねている。

 深遠に対する心配りか、正一は歩を速め、玄関が目に入るやいなや駆け足で庇の下に飛び込んだ。

「いやあ、広過ぎるというのも、不便なものですねえ」

 正一は白髪交じりの髪を後ろに流し整え、ほぼ同時に到着した深遠に、少し困ったような表情を見せた。そして、言葉を繋げる。

「深遠さん。我々の主従関係など、とうに終わっています。そもそも初代は、そんなつもりで、貴方のご先祖に姓を与えたわけではないでしょう」
「私どもの存在は、鷹丸家あってのもの。末代までお仕えする所存です」
「参りましたねえ……まあ、とにかく入りましょう」
 参った、という言葉そのものの表情に笑みを混ぜながら、正一は引き戸に手をかけた。


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