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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 春・参2

 鷹丸家の中庭に面した縁側。そこに座る頃、空間は完全に夜の様相となっており、涼やかな夜風を浴びて眠る木々の香りを楽しめる風情があった。

 自らを酒豪と語る正一に対し、深遠は滅多に酒を口にしない。今宵正一は、日本酒、洋酒など、数種類の酒瓶を並べ、楽しそうに味比べをしている。深遠は茶と、井戸の水を所望した。

 正一は、矢継ぎ早に話題を振るでもなく、長い沈黙に陥るでもなく、語ると呑むの均整をとるのが巧い。おかげで深遠は、過剰に緊張せず、常日頃の有り様に近い状態で、正一の言葉に耳を傾けていた。

 年長者と語らうのは、随分と久しぶり。忘れかけていた感覚に、心は素直に反応し、場の穏やかさと温かさを吸い込んでゆく。

 心落ち着く
 楽しい
 あたたかい
 いつまでもこうしていたい

 そんな感情は、自らの中から追い出さなければならないというのに。

「深遠さんを独り占めなんて、維知香に叱られそうですなあ」

 正一が笑い混じりに放ったのは、時が明日にだいぶ近づいた頃。

 その日、正一の口から孫娘の名が放たれたのは、それが初めて。深遠の中に、維知香と過ごした時が甦る。

 春の日差しに溶け込んでしまいそうな、屈託のない笑み。鈴の音のような愛らしい声。時折見せる生意気な横顔。意識してそれらを消し、深遠は言葉の続きを待った。

「あの子は、本当に貴方を思っているんですよ……大人の理屈なんて、微塵も通じません。困ったと言うべきが、頼もしいと言うべきか、意思の強さというものを、私はあの子から教わった気がします。老いてなお、学ぶことはあるようです」

 まいった、というように軽く首を横に振り、正一はグラスに残った洋酒を一気に喉に流し込む。飲み込み、体に染み渡らせ、息を吐く。

「深遠さんに、お伝えしたいことがあるんです。また会えるという確証はないので、今……長い話になってしまうかもしれませんが、よろしいかな?」
「勿論です。お聞かせください」
「どうやら私は、先が長くないようです。酒好きが祟ってか、肝臓が、もう使い物にならないようで」

 深遠は驚愕を顔に表した。視線の先では正一が微笑みを携えている。しばしの沈黙の後、深遠は言葉を絞り出した。

「……どれほど、時間が残っておられるのでしょう?」

 全く気の利かない問いだ。そう思いながらも、深遠は聞かずにはいられなかった。

「年のおかげで進行は速くはないようですが、肝臓の他にもね、転移というやつで、いくつか悪いできものが……全て切って治してしまえるものでもないそうです。いくつか切ったとしても、寿命が延びるわけでも……それなら、痛い思いをして治療なんてせずに、家族と過ごしていたほうが良い。この年でひとり病院に入るなんて、考えたくもない。家にいれば、こうして好きな酒も呑めるでしょう」

 そうだろう、とでも言いたげに、正一は声を上げて笑った。

 また、ひとり去る

 鋭い棘が、深遠の心を貫通する。空いた穴から入り込むのは、悲しみと空しさ。特に空しさというのは厄介だ。自らの無力さを突きつけられ、生き続けることの意味までも問うてくる。悲しみは、それから目を逸らすための装飾でしかないと感じさせるほどに。

 正一の笑い声は夜風にさらわれ、座敷も庭も、静に落ちる。しばしの静寂の後、正一は口を開いた。

「宿りし災厄、身に纏いし結界に封ずるが、人智の及ばざる力なりて、あやしき者と疎まれり……」

 正一が口にしたのは、鷹丸家の伝承。宿災が何者であるかを綴った一文。

 其の身に災い封ずる生業の者有り
 荒ぶる天地川海に向かうほどに 幾多の災厄宿りき
 宿りし災厄 身に纏いし結界に封ずるが
 人智の及ばざる力なりて あやしき者と疎まれり
 人目憚り陰に住まい災厄と共に生きるほどに
 あやしき力を以て蠢く汚れを滅する事覚ゆる
 力衰えし地に赴き蔓延りし汚れを祓い 再び陰に隠れり
 其の者何時しか宿災と呼ばれり

「疎まれり……この部分が、気になって仕方がありません。いつかあの子が他人から疎まれるような状況に陥った時、あの子自身が自分の運命を疎ましく思った時、私は助けられる状況にないでしょう。この体は間もなく、燃えてなくなるのですから……魂だけになっても、あの子のそばにいて助けになれないものか、なんて、決して叶わないことまで考えてしまいます」

 自分を嘲笑うかのように、正一は目尻に皺を寄せる。その大きく皺枯れた手には、空のグラスが握られたまま。そこに落ちた正一の眼差しに、深遠は憂いを見つけた。

 正一が孫娘の行く末に不安を覚えたのは、今に始まったことではない。

 維知香が宿災とわかったのは、彼女が生まれて間もなく。判断を下したのは、深遠。災厄が宿っていると伝えた時の正一の面差しは、深遠の中に深く、しっかりと刻まれている。あの日からずっと、正一は家長として、祖父として、維知香の成長を見守り続けたのだ。ともすると【崩壊】してしまうかもしれない、唯一無二の宝物を。

「深遠さん、貴方に、もうひとつ、お話が……」


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