「子どもたちひとりひとり」の純粋さ
先日、JOY@ほっこり系オンライン家庭教師さんのコンテストに応募させていただきました。
このコンテストが、誰かが不登校で悩んだ時の本棚になるのだろうと思うと、素晴らしい企画だと思います。
私自身の子供が小さい時期、フルタイムの仕事は難しいため、時間が割と自由になるフリースクールの美術講師をしていたことがあります。
フリースクールというところは、ある意味社会の縮図的な部分がある場所です。
不登校、経済的理由、妊娠出産など。
細かくいえば、摂食障害を伴うトランスジェンダー、親のメンタルの状態の影響で前に進めなくなった子、発達障害他、様々な理由で通ってくる子どもたちに出会いました。
社会の広さをまだ知らず、今の家庭と学校が人生の全てだと感じるのが子供です。
もし、フリースクールという手段を考えるとき、自分とは違う重荷を背負った同世代の子がそこにいます。
と、少しだけ記事にしたのは、noteを始めたばかりの頃でした。
コロナの以前から、貧困をはじめとする家庭環境の問題は取り沙汰されています。
中学の時に両親が蒸発してしまった、上記の記事の19歳の男の子は、自分の未来を想像できる環境にいませんでした。
少しの提案に、
「俺にも、そんなことができるのか?」
と言った彼は、私からみたら才能の塊のような子でした。
その外見から判断されて、悪い子たち同士でつるんでいるとみる大人もいました。
しかし、彼らは親に面倒を見てもらったり、守ってもらえた経験がないのでした。
だから、お互いを守りあっていたのです。
親から、
「高校には行かせられない。」
と言われ、灼熱の工事現場で交通整理をして働きながら通っている、高校一年生の女の子もいました。
苦労して高校卒業資格を取りに来ていることなど想像させないような、綺麗な女の子でした。
親に支払ってもらった習い事で何かができても、それはあたりまえの話です。
自分で身銭を削って学ぶということを、この子たちは10代で経験しています。
一般の子がしてもらえて、自分にはしてもらえなかったことを知っています。
私は自分の子どもには、小さい時からこの話をし続けました。
この世に当たり前のことなど、一つもないのです。
ジェンダーレスという言葉のもとでも、男女は同じではありません。
家に帰れない状況になったら・・・女の子は路上で寝るのは危険極まりない。
平等というのは「チャンス」の問題で、実際にはお互いの出来ることと出来ないこと、そして相手を大切な人として「受け入れる」ということなのだろうと、生徒に教わりました。
妊娠中の高校生も、赤ちゃんを背負った高校生もいます。
なんとか高校の卒業資格を取得し、推薦で専門学校に進んで、保育士か看護師になりたい、と彼女たちの希望ははっきりしています。
まずは資格。
もっと専門的に学びたければ、稼げるようになってから・・・。
「この子を育てなきゃいけない。」
10代のお母さんたちは、自分を放置していませんでした。
パートナーは学生か、アルバイトか・・・。
それでも、フリースクールの授業料をなんとかできて、将来を想像できるだけ恵まれているともいえます。
病気の問題や障害の問題、虐待など、もっと深刻な子どもいます。
震災で傷ついた子にも、アートセラピーのお手伝いで出会いました。
心が女の子であることを母親に認めてもらえない繊細な男の子は、女の子の制服を着て通学してきましたが、摂食障害で休みがちでした。
学校で頑張って頑張って倒れてしまう子や、友達関係で辛い気持ちになる子、親の期待に押しつぶされそうな子・・・。
どんな子どもも、そして私たちも、生まれた時には透明な魂であったはずです。
それが、色々な理由で傷ついて、透明感を失っていってしまう。
しかし、目を覗き込むと輝くものがその中にちゃんとあることを感じたのが、フリースクールでのことでした。
時間はかかっても、それを糧にして人生を豊かに出来る方向に持っていけたなら、と願わずにいられません。
子どもの世界は、大人社会の縮図です。
このような社会を作ってしまっていることを心苦しく思いながらも、私に出来ることは微力だな・・・と感じた時期でした。
それは日本にとどまらず、世界の国でも・・・。
「自分で動けない分は、少なくてもいいから寄付をしなさい。」
と教えてくれたのは、人生の大先輩の女性でした。
彼女は、まだまだ女性に勉学は必要ないと言われる国で、女の子が勉強できるように活動しているNPOに寄付をしていました。
私は、そことは違うところ2箇所を見つけて、少しだけですが真似させてもらうことにしました。
それが、丁度、このフリースクールに勤めていた時からです。
その一つ、かものはしプロジェクト。
寄付は、黙ってするものだという観念が私の中にありますが・・・。
URLを載せてみます。
きちんと活動報告のあるNPOです。