秋の街
秋の風がそよぐ美しい季節がはじまろうとしています。
実はこの言葉、過去に書いたとある文章の冒頭なのですが、いま、また同じことを思っています。
「時間」が線のように連続しているのか、あるいは点として離散しているのか……と、大きすぎる問いが頭を巡ることがよくあります。しかし、思考は宇宙の果てまでを巡ったのちに、結局いつも目の前の現実/現象(の確かさ)へと行き着いて、しまいには何を問うていたのかすら忘れてしまうのです。
人が、同じ季節に同じことを思うのだとしたら、人の生とは、過去と重なりながら無限に広がってゆく渦巻きのようではないでしょうか。
ヘルシンキにはいくつものトラムが走っていて、離れた点と点を行ったり来たりしています。トラムの魅力は、窓が大きいことと、街をほどよい距離で眺められるところ。特に、中心地とイッタラ&アラビア デザインセンターをつなぐ6番線のトラムは車窓の眺めがダイナミックに移り変わるので、ずっと窓の外を眺めていたくなります。
無声映画のように静かに進行するガラス越しの世界。秋の街はあまりに鮮やかで、その色彩の中には世界の声や、音すらも含まれているように感じられます。
ヘルシンキ、秋の街。
6番線の車窓から。
秋に惹かれるのは、なぜでしょう。
いや、実際のところ心が惹かれているのは「新しい季節」についてかも知れません。春には春の香りが、夏には夏のカラフルが、冬には冬の星空があるのだから。
「街の中に自然がある」のではなくて、「自然の中に街が少しだけお邪魔している」ような、街と自然の絶妙な距離感がこの街の、この国の、美しいと思うところです。同じように、「街が人の生活を包み込んでいる」というより、「人と自然の戯れのそばに街がある」という関係性が、この土地には深く根付いています。
北東へと向かう6番線。街と人、人と自然、自然と街が車窓のなかに入り混じり、ひとつながりの秋色の物語を描いています。
秋のうつくしさには憂いや儚さが含んでいると言いますが、この秋が悲しみを帯びているとは思えませんでした。目の前にうつくしい現実があるということ。ただただ、うつくしい時間の流れのなかを漂っているということ。
それは、すなわち現在を生きているということです。
そろそろ、終着点。
窓の外の世界へと。
いつかまた、この季節を美しいと思えるのでしょうか。
つづきがあります。
また来週お会いしましょう。