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自分の人生を生きる

(長文です。2400字)

もっと自己肯定感が強かったら、もっと社会を知り自分の未来を思い描けていたら、違う人生を生きていたかも知れない。

大学を出て、地元の公立学校の常勤講師に採用された。
職場に恵まれ、仕事を教わりながら、任せてもらった仕事をがんばり、評価され、先輩の先生たちからも信頼を得て、またかわいがってもらった。

職場は、若い先生が多く、飲み会にもよくみんなで行った。盛り上がって、それも楽しかった。

仕事は好きだったし、進んでした。
いい授業を作りたかったし、生徒たちもかわいかった。
定期テストは、自分の作品だと思って仕上げた。
完璧主義のがんばり屋な性格だ。


時代は、就職氷河期。
教員採用試験の自分の科目は、倍率50倍。採用1名。
50人受験したら、1番にならなければ通らない。

何年か教員として働いたとき、自分には能力があるんだなと思った、が、自己肯定感が低いゆえに私は、若い頃、自分が採用試験に受かる気はしなかった。

もし、受かる気がして、受かるつもりで勉強して、本採用になっていたら、違う教員人生を生きていたかもしれない。
充実した教員生活だっただろうか、


うつになって、健康を失った今、教員の仕事をすることは、とても無理だ。
でも、今でも、「どうしても教員になりたい」という夢をみたりする。
起きて、ああ、病気だから無理なんだった、と思う。

地元の都道府県で2年常勤で働き、結婚して、引っ越すため、退職した。
年賀状に校長先生が、「hikaru先生を失うのは、県にとって損失だ」とまで書いてくれて、有り難かった。

引っ越した先の都道府県の自分の科目の採用は当時0名で、受けることさえ出来なかった。
始め、非常勤、そしてまた常勤講師として採用される。
こちらの自治体の教員の年齢層は、非常に片寄っており、当時は40代以上の教員しかいない感じだった。
20代は、私ともう一人の常勤講師だけ。30代おらず。
また、残念なことに、士気がとても低い。
学校は、数名の仕事のできる人たちで回っていた。

私は、自分の仕事をしない人が大嫌いだった。そういう職員は、自分の仕事をしないばかりか、他の職員の足を引っ張ることにも熱心だった。
授業をするのが仕事なのに、自分で授業を作らない。
講師の私が、授業プリントを作り、授業を作っていた。

その後、私学で非常勤を5年くらい勤めながら、私学の教員採用を受けていた。
ペーパーは通って、面接まではいく。
ここで、既婚者女性ということで、散々不利益を被った。
私は夜遅くなっても構わないと言っているのに、結婚してる女性は家庭での仕事が多いから、夜遅くまでは無理でしょうと、、勝手に判断されるのだ。
悔しかったし、虚しかった。
私は、独身男性と同じように働けるのに、
既婚者女性と男性だったら、男性の方を採用するのだ。

常勤職に就けるまで、採用試験を受け続けた。
そして、仕事はきついとわかっていた(いわゆるブラック職場)が、最後の学校に就職した。
職員の入れ替りが激しく、常勤講師がふつうに担任を受け持つ。
仕事は滅茶苦茶に忙しかった。


問題がよく起こる学校だった。
その都度、対処する。担任として、生徒たちを大事にしたかった。
が、私の思いを生徒たちに話すことは許されなかった。
生徒は、「先生には権力がないから、ダメなんだよ。」と言った。生徒は、学校をそして教員をよく見抜いている。


また、先輩の専任教員がやっている指導を真似てやろうとすると、いつも私だけ止められた。
アクセルを踏もうとする度、急ブレーキをかけられて、心身を消耗していった。


上は、問題がいくつも起こるとまずいので、校長は、ある問題をもみ消そうとした。
教頭は、問題を理解して、陰で援助してくれたが、校長がNO.と言ったら、動かないものは動かなかった。


自分は上から押さえつけられ、それでも最後まで自分の生徒たちを守ろうとした。
そのうち、夜眠れなくなり、教科書が読めなくなり、授業を作ることが困難になった。
やっとのことで駆け込んだ心療内科で、自律神経失調症と診断され、1ヶ月くらい休んだ方がいいでしょうと言われた。
頭が真っ白になり、動機がして息が苦しくなった。


1ヶ月休職の後、3学期に復帰を試みたが、毎日職場に行くのは難しい状態だった。
私は、夜、時々教室に行き、後ろの黒板に、生徒たちへ手紙を書いた。
生徒たちからも、返事が返ってきた。

その後、担任を交代した。学年最後の日、私は教室に生徒たちに会いに行き、最後の手紙を渡した。


結局、退職に追い込まれ、その後、私はうつ病になった。
1年くらい経って、希死念慮が現れ、自傷依存になり、命が危なかった。
夫が一緒にいてくれた。感謝してます。
急性期で、3ヶ月入院した。
退院後も、通院治療を続けた。

ひどく疲労していて、眠っても眠ってもとても足りなくて、睡眠過多で、一日一日を生きるのがやっとだった。

数年経って、予備校の在宅でできるアルバイトを不定期でした。


また数年経って、子どもを望み、授かることができた。
妊婦のときは、フワワンとしあわせだった。
うつで育児は大変だった。
夫と一緒に、保育園やヘルパーにも助けてもらいながら、娘を育てた。

娘が年長になったら、教室を始めようと決めて、準備をしてきた。
何とか目標は果たせた。
自分の仕事として、頑張る。
子どもたちを大切にする。


時間はあるから、いつも娘の遊び相手になってきた。「こんなに付き合ってくれるお母さんは、いないよ。」と夫は言った。
夜は、必ず本を読み、トントンして、頭なでなでして寝かしつける。
父がしてくれたように、娘をかわいがっている。



学校の教員は、続けられなかったけれど、今は娘を育てながら、小さな教室を経営して、自分の仕事を精一杯がんばっている。

自分の人生を受け入れて、精一杯生きられればいいんじゃないかと思っている。

最初の職場でかわいがってくれた先生に報告しても、きっと喜んでくれるんじゃないかなと思える。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
心より感謝します😌🙇





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